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ウルバヌス2世

11世紀末に十字軍運動を呼びかけたローマ教皇。クリュニー修道院出身の改革派教皇であり、教皇権の確立に努め、十字軍の成功によってその権威を高めた。

 11世紀末のローマ教皇(在位1088年~99年)で、クレルモン宗教会議において、1095年11月27日にヨーロッパの国王、諸侯に対し、十字軍運動を呼びかけた。ウルバン2世ともいう。
 フランス人で、クリュニー修道院の出身。グレゴリウス7世の信任厚く、その補佐を務め、改革派の中心となる。当時、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との叙任権闘争はさらに継続中であり、教皇となったウルバヌス2世は、ハインリヒ4世が立てた対立教皇クレメンス3世を廃し(1093年)、教皇権の強化に努めた。1095年、クレルモン宗教会議を召集して聖地イェルサレムを異教徒であるイスラーム教徒から奪還するために十字軍運動を呼びかけ、西欧キリスト教国の国王、騎士、商人、民衆から幅広い支持を受けた。1096年に派遣された第1回十字軍は、1099年にイェルサレム奪回に成功し、その二週間後にウルバヌス2世は死去したが、この成功は、叙任権闘争から続いた俗権の神聖ローマ皇帝との争いは、ローマ教皇の勝利に終わったことを意味していた。これ以後、ローマ教皇の権威は一段と高まり、13世紀のインノケンティウス3世の時代に最高潮に達する。なお、ローマ教皇庁という文字はウルバヌス2世時代の1098年に初めて文書に見られるようになる。<ソヴォロ他/鈴木宣明訳『ローマ教皇』1997 知の再発見双書 p.58 創元社>

クリュニー修道院出身

(引用)ウルバヌスは北フランスはシャンパーニュの生まれ(1042年)で、ランスに学び、その大司教座助祭となったのち、クリュニー修道院に入り、ここで副修道院長となった(1070年)。彼は法王に選ばれるに当り、グレゴリウス7世の政治を全面的に継続することを誓ったが、彼は決して単なるグレゴリウス主義者ではなかった。<堀米庸三『正統と異端』初版1964 中公新書 p.132、再版2013 中公文庫>
 しかし、ウルバヌスの法王座は、皇帝ハインリヒ4世によって選出された対立法王(正式な歴代法王には認定されていない)クレメンス3世が優勢のため、著しく不安定であった。またミラノ大司教座をめぐっても皇帝と争っていた。ところが、1093年、ハインリヒ4世がその子のコンラートの裏切りにあって急速に力を無くしたためウルバヌス2世の立場は好転した。
 さらに1095年、ウルバヌス2世は、長く論争の続いていた秘蹟論争に終止符を打った。それは俗人(皇帝)が選任した聖職者(司教)=聖職売買者(シモニスト)によって与えられた秘蹟(洗礼と叙品)は無効とされていたものを、そのような聖職者であったことを知らずに行われた場合は、憐憫によって許す、とされたことである。これによって、皇帝派の聖職者も救済されることとなり、教皇派との和解が成立することとなった。<堀米庸三『同上書』 p.136、再版2013 中公文庫>

クレルモン宗教会議

 1095年、フランスのクレルモン宗教会議で十字軍の派遣を呼びかけたが、それは皇帝から奪った西ヨーロッパの主導権を確実にし、同時にビザンツ皇帝の要請に応えて十字軍を派遣することによって、1054年以来の教会の東西分裂を再統合しようという意図もあった。そして彼の熱狂的な演説は、西ヨーロッパのキリスト教徒を十字軍運動に奮い立たせ、その当初の成功は教皇権の確立をもたらすこととなった。

ウルバヌス2世の演説 乳と蜜の流れる国

 『おお、神の子らよ。あなた方はすでに同胞間の平和を保つこと、聖なる教会にそなわる諸権利を忠実に擁護することを、これまでにもまして誠実に神に約束したが、そのうえ新たに‥‥あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じたのである。‥‥すなわち、あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。かれらはあなた方の援助を必要としており、かつしばしばそれを懇請しているのである。その理由はすでにあなた方の多くがご存じのように、ペルシアの住民なるトルコ人が彼らを攻撃し、またローマ領の奥深く、”聖グレゴリウスの腕”とよばれている地中海沿岸部(ボスフォラス海峡、マルモラ海沿岸をさす)まで進出したからである。キリスト教国をつぎつぎに占領した彼らは、すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り、多くの住民を殺しあるいは捕らえ、教会堂を破壊しつつ神の国を荒しまわっているのである。これ以上かれらの行為を続けさせるなら、かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。されば、‥‥神はキリストの旗手たるあなた方に、騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず、あらゆる階層の男たちを立ち上がらせるよう、そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう‥‥くりかえし勧告しておられるのである。』これはシャルトルの修道士フーシェの年代記が伝えるクレルモン公会議における教皇ウルバヌス2世の演説の一説。さらに教皇は、『あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い、たがいに傷ついているではないか。したがって、あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。かれらを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。「乳と蜜の流れる国」は、神があなた方に与えたもうた土地である‥‥』と語り、『かの地、エルサレムこそ世界の中心にして、天の栄光の王国である。』と獅子吼した。それを聴いた民衆から『神のみ旨だ!!』というさけびが起こったという。このウルバヌスの演説の原典は失われたが、1905年発表のアメリカの歴史家ムンロの研究によってほぼ復元された。<橋口倫介『十字軍』岩波新書 P.43-51>