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大宛(フェルガナ)

中央アジアの現在のウズベキスタン東部の地域にあった遊牧民の国家。汗血馬と言われた良馬の山地として知られ、漢の武帝は前104年に李広利を派遣して服従させた。

 中国名の大宛は現在のウズベキスタンの、フェルガナ地方にあたる。この地は中央アジアのアラル海に注ぐシル川上流の盆地で、イラン系遊牧民が生活していた。大宛はその中国名で、張騫大月氏に行く途中に大宛に至りしばらく滞在、大宛の王の保護のもと、大月氏に到着した。大月氏との軍事同盟結成はできなかったが、前126年に長安に帰着し、武帝西域諸国の状況を報告、その中で大宛が馬の産地で、汗血馬という名馬がいるという報告が武帝の強い関心を引いた。 → 大宛のおおよその一はこちらの地図を参照

Episode 汗血馬

汗血馬

汗血馬を模した後漢の銅製馬
(中国中学校歴史教科書)

 汗血馬とは、一日よく千里を走り、ひとたび走れば血の汗を流す、という名馬のこと。匈奴との戦いで、質の高い馬を求めていた武帝は、張騫からその話を聞き、ぜひその馬を獲たいと考え、将軍李広利に指揮させた大軍を大宛に派遣し、一度は失敗したものの二度目の攻撃で大宛を降伏させ、良馬を得ることが出来たという。

武帝の李広利派遣

 武帝は、西域へのルート上の匈奴の脅威を排除した上でようやく汗血馬を得るために大宛征服を企てた。すでに張騫は亡くなっていたので愛妃李夫人の兄の李広利を弐師将軍(弐師とは大宛の都のあったところ)に任じ、前104年に大軍を率いさせて進発させた。しかし玉門関を出て西域に入ると行軍は食糧難などから困難を極め、脱走兵も続出、フェルガナ盆地を前にして郁成という城を落とすことができず、引き返した。しかし武帝は李広利を玉門関に入ることを許さず、1年後に再び出征を命じた。今回は兵数6万に牛10万、馬3万をあわせ、他にロバ、ラクダも万を数えるという食糧を十分に与えて大遠征隊を編制した。
 第二回遠征では直接に大宛王の居城を攻撃、攻囲40日に及んだ。大宛はついに母寡王を殺してその頭を和平の印に携えて和平交渉に踏み切った。大宛は善馬をことごとく与えることを条件に、即時攻撃中止を要求、入れられない場合は善馬はすべて殺し、康居国の来援を待つと申し入れた。李広利は交渉に応じて攻撃を中止、城内の大広間で善馬数十頭、並の馬2千余頭を受けとった。李広利は大宛に代わりの王を立ててただちにこうして汗血馬の譲り渡しを受けることに成功、前102年に長安に凱旋した。こうしてようやく汗血馬を獲ることができた武帝は、李広利を海西侯に任じたの将兵にも賞を施した。また、大宛国が討たれたことで西域諸国はみな漢に従う姿勢を示した。

大宛王の居城はどこか

 『史記』では李広利が攻撃した大宛の王の居城は「弐師城」とされているが、『漢書』では『貴山城』と記されている。そのため、古来、大宛王の居城がどこであったかについては論争があった。弐師城と貴山城を同一とみる説、別とみる説、また大宛王の居城を現在のコーカンドとする説、あるいはカサンとする説など、混乱していたが、ソ連の学者がフェルガナ盆地南部で馬の岩壁画を発見、その近くのマルハマトで都城遺跡を発見し、1952年にそこを弐師城と考え、貴山城は漢書が書かれた後漢の時代に都を移した現在のカザンであると唱えた。現在はその説が有力になっている。<李広利の遠征、大宛王の居城のいちなどについては、文学者井上靖の紀行文『西域物語』新潮文庫 p.30-44 に詳しい>

トルコ化

 フェルガナはその後、遊牧国家の突厥に支配され、次第にトルコ化する。9世紀にはトルコ系のカラ=ハン朝がパミールの東側から侵出し、この地からさらに西トルキスタンにも支配を及ぼし、同時にイスラーム教を受容した。その後、カラ=キタイ、モンゴル帝国のチャガタイ=ハン国、ティムール帝国と諸王朝の支配を受けた後、ウズベク人が東方から侵入した。ティムール朝の一族でフェルガナの領主であったバーブルはそのためここを追われ、一時サマルカンドにはいるがそこもウズベク人に追われて、後にアフガニスタンのカーブルを経てインドに入りムガル帝国を建設することになる。
 ウズベク人はフェルガナのコーカンドに1710年にコーカンド=ハン国を樹立し、ブハラ=ハン国、ヒヴァ=ハン国と鼎立した。1867年、ロシアによって滅ぼされ、以後ロシアのトルキスタン総督府の支配を受ける殖民地となった。ソ連時代にはウズベク、キルギス、タジクの各共和国に分けられ、現在も複雑に国境線が引かれており、フェルガナの中心部はウズベキスタン共和国の東端に属している。
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ノートの参照
2章3節 キ.漢代の政治
書籍案内

井上靖
『西域物語』
1977 新潮文庫

物語と言ってもフィクションではない。1960年代後半に実際に現地を訪れ、歴史を織り交ぜた紀行文。日本の西域ブームの火付け役だった。