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西域

中国から見て西方の地域で、ほぼ東西のトルキスタン地方をいう。匈奴など遊牧民の勢力圏で会ったが、漢の武帝以来、漢民族が進出。

 さいいき、またはせいいきとよむ。中国から見て、西方の地域という意味だが、狭い意味では東トルキスタン(現在の中国の新疆ウイグル自治区)をさす。北を天山山脈、南を崑崙山脈に挟まれたタリム盆地に広大な乾燥地帯が広がり、古来、遊牧民の活動舞台であり、隊商が行き交うシルクロード(絹の道)が東西に延びていた。

漢の支配

 漢帝国武帝(漢)張騫大月氏に派遣し、北方の遊牧民匈奴の制圧を目指した。こうして漢人による西方進出が始まるとこの地域は西域といわれるようになった。
 漢代にはタリム盆地のオアシス都市国家を西域三十六国と称し、前59年、この地を支配するために西域都護を設置した。最初は烏塁城に置かれた。その保護のもとで隊商交易タクラマカン砂漠をこえて繰り広げられた。
 漢に代わって権力を奪取した王莽は、周の理想政治を復活させたため、異民族との交渉はまったく必要ないものとして、西域都護を廃止した。後漢の91年に復活し、班超が西域都護に任命され、烏塁城の西のクチャ(亀茲)に都護府を移動させた。班超は97年には部下の甘英を大秦国(ローマ)に派遣している。

東西交渉の活発化

 しかし、後漢の衰退とともに左言い経営も困難になり、西域都護は107年に廃止され、それ以後は後漢の滅亡、三国時代、五胡十六国と中国の動揺が激しく、西域には北方民族が侵入し、それぞれオアシスを占領して国を建てるという状況が続いた。しかし、この時代は、インドから西域を経て中国に仏教が伝えられ、中国僧が仏典を求めて旅することもあり、かえって文化的な交流が進んだ。
 450年にはトゥルファン高昌国が生まれ、その他にもクチャ(亀茲)、ホータン(于闐)、カシュガル(疏勒)さらに、楼蘭などの西域都市がタリム盆地のシルクロード沿いに栄えた。

唐の西域支配

 これらのオアシス都市には、漢人の居住者だけでなく、パミール高原西側のソグディアナを拠点とするソグド商人が活動した。唐はこのような西域の経済的利益を抑えるため、亀茲(クチャ)に安西都護府を設けた。さらに、唐は北庭都護府・安西都護府を置いて西域の経営を拡大し、利益を独占した。西域の入り口にあたる要衝が敦煌で、その西に玉門関と陽関があった。長安から敦煌にいたるまでを河西回廊といい、匈奴を抑える上で重要な地域だったので、それまでも匈奴と漢民族の抗争の場となったところである。
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書籍案内

井上靖
『西域物語』
1977 新潮文庫

物語と言ってもフィクションではない。1960年代後半に実際に現地を訪れ、歴史を織り交ぜた紀行文。日本の西域ブームの火付け役だった。