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7世紀から10世紀初めまで長期にわたり中国を支配した王朝。周辺諸地域にもその支配を及ぼす世界帝国として発展し、都長安では国際的な文化が発展した。しかし、均田制を基盤とした律令体制は次第に行き詰まり、8世紀中頃の安史の乱を機にそのあり方を変えた。それでも帝国として支配を長らえたが、10世紀初め、黄巣の乱に代表される農民反乱が多発して滅亡し、中国は再び五代十国の分裂期となった。

 李淵の官僚であったが、隋末の混乱に乗じて、618年に唐を建国、初代皇帝高祖となった。都は隋の大興城を継承して、長安とした。次の李世民(太宗)は父を退位させて実権を握り、628年に全国を統一した。唐は、隋の律令制度を受け継ぎ、均田制租調庸制府兵制を基礎とする中央集権体制を整備し、科挙による官吏登用制を実施、三省六部州県制の官僚政治を発達させた。この法治国家としてのシステムは皇帝の恣意的な政策決定を排除し、貴族合議制による責任の分担を可能にして、907年に滅亡するまでの約300年にわたって存続した。 → 唐の文化

参考 唐は漢民族の王朝か

 唐王朝は漢民族ではない、鮮卑拓跋氏という遊牧民の系統にある人々が建国した。彼らは五胡の一つとして3世紀ごろ華北に入ってきての動乱に乗じて北魏を建国した。その中核は「関隴貴族集団」あるいは「武川軍閥集団」といわれる軍事集団であり、北魏の後、西魏北周と継承され、次のが全中国を統一した。唐を建国した李淵は隋の官僚・武将であり、関隴貴族集団を継承していた。このように唐の支配層となったのは鮮卑系の非漢民族であった。つまり、唐はかつての秦や漢のような意味では漢民族の王朝とは言えない。ただし、北魏以来の漢化政策によって漢民族との融合が進んだことも事実であり、漢民族の王朝としての歴史認識が一般的になっている。「漢化」の度合いについては諸説あり、最近ではその意義をあまり認めず、唐をあくまで「拓跋国家」ととらえるべきである、という考えも出されている。<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』2007初刊 2016 講談社学術文庫 p.144~ 参照>
 たしかに均田制・府兵制などを軸とした律令制度、仏教の受容にみられる国際性などの唐王朝の特色には、従来の漢民族王朝とは異なる新しさがあることも見逃すことはできない。唐王朝を漫然と漢民族の王朝の続きと考えるのではなく、むしろ漢民族の王朝ではないと断定してから観ていく方がその実態を理解できるように思われる。

唐の皇帝政治

 太宗は兄弟殺しという非常手段によって権力をにぎったが、その権力を維持するために、内治を重視し、政治の運営をいわばガラス張りにするとともに皇帝に意見をする役として諫官を置いた。これは中国の皇帝制度の歴史で思い切った転換を成し遂げたものであり、これが唐の皇帝政治が長く存続した理由と考えられる。
 南北朝までは皇帝(天子)の意志を拘束する制度は無かったが、唐の制度では中央政府の三省中書省が皇帝の政策の決定に与り、それを実行するのが尚書省であり、その中間に門下省がおかれて中書の決定した政策を審議する役とされた。門下省の長官を侍中といい、その下に諫議大夫を置いた。これがすなわち諫官である。
(引用)こうして政府の政策決定は従来のように天子の恣意によって行なうことができなくなり、中書での決定は門下の審議を経てはじめて有効となり、尚書省に交付されて天下に実施される。政策決定から実施まで、時間的にひまがかかることになり、その中間で輿論の審査を受けなければならない。いいかえれば天子といえども、ある手つづきを経なければ主権を行使できなくなったわけであるが、同時に天子はその責任を官僚とわかちあうことになった。言いかえればその自由を拘束されるとともに、過失を少なくすることができたのである。これが唐王朝の命脈をして当時としてはめずらしいながさを保たしめた一つの原因であろう。<宮崎市定『大唐帝国』中公新書 p.350>

唐の全盛期

 626年、李淵の子の李世民は兄を殺し、父を退位させ(玄武門の変)て第2代皇帝太宗として即位、628年には一部の独立政権を滅ぼして唐の全国統一を完成させた。その前年の627年に貞観に改元、ここから太宗の死去の649年までを貞観の治といい、律令制の整備など内政が最も充実したこの7世紀前半が唐の全盛期とされている。また太宗は630年東突厥を破り、西北の遊牧諸民族から天可汗の称号を与えられ、中華世界のみならず、遊牧民の世界を含む統治者として認定された。

最大領土を実現

 7世紀の後半、高宗の時にその領土は最大となった。当時北方の最大勢力であった突厥帝国は、隋の圧迫もあって583年にすでに東西に分裂しており、東突厥は太宗の時の630年に唐に服属し、高宗はさらに657年に西トルキスタンの西突厥を滅ぼした。東方では、660年百済668年高句麗を滅ぼし、朝鮮半島・日本にも大きな影響を与えた。南ではベトナムに進出した。唐はこれらの征服地に対しては羈縻政策といわれる、州県に組み込みながら現地有力者に地方統治を委せる支配体制を採った。

武韋の禍

 高宗は政治を皇后にまかせるようになり、ついには664年から則天武后が実権を握ることとなった。690年、彼女は女性として中国の歴史上唯一の女帝を称し、国号を周(武周)と改めるなど、専横を極めた。次の韋后と女性の支配が続く。この7世紀末から8世紀初めの混乱を武韋の禍という。しかし、この時期は、西魏以来の門閥武官貴族に代わって、科挙によって人材本位で登用された官僚が皇帝の政治を補佐するようになり、むしろ律令制官僚政治が発展したという側面もある。

8世紀の危機

 玄宗(在位712年~756年)は即位当初は政治の引き締めをはかり、科挙によって進出した官僚による政治が行われて、一定の成果を上げて開元の治と言われる安定を取り戻した。イスラーム商人の来航も増え714年には広州に海上貿易を管理するための市舶司が置かれた。
 しかし玄宗皇帝の晩年は楊貴妃の兄の楊国忠など側近の専横が見られるようになって政治が乱れ、反発した節度使安禄山が反乱を起こすと、755年~763年にわたる大乱の安史の乱となった。反乱はウイグルの協力などによって鎮圧されたが、その後は各地の節度使の台頭、宮廷での宦官と官僚の争いなどが続いた。

律令制の変質

 唐はそれでも、南方の穀倉地帯を抑えていたので、その支配をなおも1世紀ほど続けることができた。しかし、その間、律令制国家を支える土地公有制の原則である均田制は、次第にくずれて土地私有である荘園が増加し、そのために租調庸制と府兵制を維持することが困難となってきた。そのような社会の変動に対応して、780年両税法が施行されて税制の基本が転換された。また府兵制も行われなくなり、募兵制に移行した。761年には塩専売制を全国で実施し、税収の増加を図った。

唐の衰退

 しかし、財政はさらに困窮したために塩専売制を強化したが、9世紀にはいるとかえって塩密売人の活動は活発となり、それへの取り締まりを強化した結果、875年黄巣の乱が起こった。この反乱の鎮圧に手間取るうちに、南方の穀倉地帯が荒廃したため、唐はその経済的基盤を失い、節度使として勢力を伸ばした朱全忠によって、907年に滅ぼされた。 → 五代十国の争乱 宋/北宋

唐と隣接諸国

唐は周辺諸地域にもその支配を及ぼし、世界帝国を形成した。7~10世紀のユーラシア東部は唐を中心とした一つの世界(国際社会)が形成されたと言える。しかし、その周辺諸国との関係は必ずしも一律ではなく、冊封体制と羈縻政策が組合わされた複雑な関係が成立していた。また、文化的にも唐の文化は周辺に強い影響をあたえると共に、周辺に独自の動きも見られた。

 唐は太宗の次の高宗の時までに西の突厥(第一帝国)、東の高句麗という強敵を滅ぼし、東アジアの国際秩序に安定をもたらした。それによって唐は周辺諸地域、諸民族に対し、優越的な関係を結ぶ世界帝国として存在するようになった。そのため、都長安は世界各地から商人や使節が集まり、国際的な繁栄がもたらされた。長城内には中国固有の道教寺院(道観)だけでなく、外来の仏教寺院、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(摩尼教)、イスラーム教(回教、清真教)、ネストリウス派キリスト教(景教)の施設が建てられ、文化史上ももっとも華やかで国際的な広がりを持つ時代となった。
東方 太宗は高句麗遠征には失敗したが、次の高宗の時に新羅と連合して百済をほろぼし、百済を救援に来た大和政権の水軍を白村江の戦いで破った。しかし新羅との戦争には敗れ、朝鮮半島は新羅、その北部の旧高句麗領には渤海が自立した。新羅、渤海、大和朝廷(702年の遣唐使から正式に日本の国号を用いた)はいずれも遣唐使を派遣するなど、その高度な文明を受容した。
西方 唐は西域を重要な商業ルートとして重視し、北方の遊牧民から守るため亀茲(クチャ)に安西都護府を設けた。この西域ルートを通りソグド商人が交易で活動し、さらに太宗の時代には唐僧玄奘がこのルートでインド(ヴァルダナ朝)に赴いた。黄河上流の青海地方には、チベット系の吐谷渾があったが、太宗の時に攻撃を受け東西に分裂し、衰えた。
イスラーム世界との接触 東アジアで唐帝国が勃興した7世紀初め、西アジアではムハンマドがイスラーム教を創始(622年がヒジュラ=イスラーム紀元元年)し、イスラーム帝国の隆盛が始まっている。751年には唐とアッバース朝イスラーム帝国がタラス河畔の戦いで直接戦い、製紙法の西方への伝播の契機にもなった。イスラーム商人との海上貿易も盛んになり、広州にはその居住区である蕃坊も設けられた。
北方 太宗は中国統一を成し遂げた後の630年に攻勢に転じて東突厥を服属させた。さらに高宗の時、657年に西突厥を滅ぼし、これによって突厥は一時姿を消していたが、682年に唐に対する反乱を開始して独立(突厥第二帝国)、唐の玄宗のころは強大になった。しかし、同じトルコ系のウイグルが台頭、744年には突厥を滅ぼした。ウイグルは唐の安史の乱鎮圧に協力し、東西交易で繁栄したが、840年キルギスによって滅ぼされた。ウイグル人の一部はパミール高原に逃れ、中央アジアのトルコ化がすすむことになるとともに、唐の西域地方への支配力も次第に衰えていった。
南西方面 チベット高原では吐蕃が国家形成を進め、ソンツェン=ガンポのもとで有力となり、唐と対等な関係を結んだ。8世紀の安史の乱の混乱では一時、長安を占領している。しかし次第にウイグルに押されて衰退した。中国南西部では現在の雲南地方に南詔が自立した。
南方 中国王朝によるベトナム北部支配は唐でも継承され、唐は安南都護府を置いて統治した。ベトナム中部のチャンパー(林邑・占城)、カンボジアのクメール王国(真臘)も唐に朝貢した。また僧侶の義浄は海路インドに赴き仏教を学んだがその途次にシュリーヴィジャヤ王国(室利仏逝、三仏斉)に滞在、その情報がもたらされた。
周辺諸国の文化   これらの唐の周辺にあった諸国ではそれぞれ突厥文字ウイグル文字チベット文字など、独自の文字が生まれた。遣唐使を通じて唐王朝とも関係を結んだ日本においても、漢字文化を採り入れながら、仮名文字を創造していったのもこのような世界史的な動きの中でのことである。

隋唐世界帝国

 アジアにおける世界帝国の例として隋及び唐をあげることができる。しかし、その支配のあり方は一様では無く、いくつかの異なった周辺との関係性を認められ、「世界帝国」と捉えることに慎重な意見もある。その周辺諸国との関係は次のような異なる性格を持っていた。
  • 冊封体制:漢帝国以来、周辺諸国の国王を封臣としてその地位を認める。唐では、高句麗百済新羅渤海などの朝鮮半島諸国に対してとられた。
  • 朝貢:唐王朝の皇帝に貢ぎ物を献じ、それに対する下賜品をあたえられる貿易の一形態。冊封に伴うが、奈良時代の日本の場合は冊封を受けることは無く、遣唐使をつうじての朝貢にとどまった。東南アジア諸民族の多くも唐に朝貢した。
  • 羈縻政策:唐の征服を受け帰順した北方民族や西域諸国に対する統治政策で、州県に組み込み都護府を中央から派遣して支配するが、現地の首長らを州県の現地官吏に登用し、実際の統治は任せる方式。そのような州県を羈縻州といい、降伏後の突厥に対する例が典型。東南アジアでもベトナムに対しては安南都護府をおいて羈縻政策をとった。
  • 対等な関係:冊封体制にも羈縻政策にも当てはまらず、唐との対等な関係を維持したのが吐蕃(チベット)であり、ソンツェン=ガンポは唐の皇帝の子女を后(文成公主の例が有名)として入れるという通婚政策をとった。北方民族のウイグルも対等な関係だった。
 以上のように隋唐の場合は「世界帝国」といっても一律な支配体制がとられたわけでは無い。しかし、周辺諸民族、諸地域には優越的な関係を持っていたことは事実であり、それは特に漢民族の「中華思想」にもとづいて、漢字・儒教・律令制など文化的な面で強い影響力を有したことからも「世界帝国」と捉えてよいと思われる。
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書籍案内

宮崎市定
『大唐帝国 中国の中世』
1968初刊
1988 中公文庫再刊

森安孝夫
『シルクロードと唐帝国』
興亡の世界史 2007初刊
2016 講談社学術文庫