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北魏

五胡の一つ鮮卑の拓跋氏が386年に建国し、太武帝の時、439年に華北を統一した。道教を保護し、一時廃仏を行ったが、後に仏教保護に転じた。孝文帝の時、漢化政策をとり洛陽に遷都、その後衰え534年に東西に分裂した。

南北朝

南北朝時代(5世紀)の中国

 五胡のひとつ、鮮卑拓跋氏拓跋珪386年に自立して魏王と称した。これが事実上の北魏の建国であるが、正式に魏国を称し、皇帝(道武帝)となり、平城を都としたのは398年である。この王朝の国号はあくまで「魏」であるが、戦国時代の魏三国時代の魏と区別するため、一般に「北魏」と言われている。この時期、中国の南半分には東晋(317~420)から(420~479)・(479~502)・(502~557)が興亡し、南北朝時代と言われる。

拓跋珪(道武帝)の統治

 拓跋珪は397年に黄河以北をほぼ平定すると、翌398年、占領地域を巡行し、要地に総督府ともいうべき「行台」を設置して占領地行政にあたらせ、さらに各地方の旧官吏、および胡・漢の民衆合わせて10万人以上を新たな首都平城周辺に強制移住させた。彼らには一定の土地を支給し、耕作させることによって国家財政の基礎を固める措置を執った。巡行から帰った拓跋珪は首都を平城に定め、皇居を造営して皇帝の位につき、初代道武帝と諡された。<川勝義雄『魏晋南北朝』1974 講談社学芸文庫版 p.346>
北魏成立の歴史的意義 北魏は鮮卑の部族制を廃止して中国的な王朝に移行する基礎を築き、均田制の創始など、隋唐時代にも大きな影響を与えた。なお、北魏は拓跋氏という漢民族から見れば異民族が華北を征服した王朝であるが、まもなく漢化したので、征服王朝の中には加えない。しかし、五胡十六国から北魏にかけて、遊牧民=胡人が華北に定住することによって、彼らの風習=胡風であるズボンや椅子の生活などが中国の社会に採り入れられていった。

太武帝の華北統一

 三代太武帝(在位423~452年)が北燕、北涼、夏を併合して439年華北を統一した。太武帝ははじめ道教を信奉し、446年激しい仏教弾圧(廃仏)を行ったが、北魏は4代文成帝の時、仏教に復し、雲崗の石窟寺院を建造した。

孝文帝の漢化政策

 471年に即位した6代孝文帝(在位471~499年)は均田制三長制をしいて北方民族による漢人支配の体制を強化した。また494年、都を中原の洛陽に遷して服装、食事、ことばなどを中国風に改める漢化政策を進めた。また洛陽郊外の竜門に、新たに石窟寺院の造営を開始した。

北魏の分裂

 しかし、孝文帝の漢化政策はに対する北方民族の不満が高まり、反乱(523年、胡人の兵士が起こした六鎮の乱など)が起き、6世紀前半534年には東西に分裂する(東魏西魏)。

北魏の文化

 北方民族の鮮卑が華北を支配したことによって、その王朝である北魏の時代に、中国の文化に大きな変化が起こった。それまで農業主体であった中国社会に、北方遊牧民の生活スタイルであるズボンの着用や椅子の使用などが入り込み、やがてそれが伝統的で現在につながる漢文化へと定着していった。その他に次のようなことが指摘できる。
道教と仏教 宗教と思想では、漢代の儒教の隆盛に代わって、西方から伝来した仏教と、中国固有の道教がともに発展した。太武帝は道教を保護し、仏教に対しては廃仏と言われる厳しい弾圧を行ったが、次の文成帝から仏教保護に転じ、その結果、北魏時代の都の平城近くに雲崗、洛陽に線とした後にその郊外に竜門という、中国の仏教文化を代表する石窟寺院が建設された。
科学技術の発展 漢及び三国時代の魏を通じて、中国の科学技術の出発点といえる新たな文化が芽生えた。北魏の科学技術は南北朝時代の北朝にも受けつがれていく。その代表的業績としては、賈思勰(かしきょう)の農業技術書『斉民要術』、酈道元の地理書『水経注』があげられる。
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書籍案内

川勝義雄
『魏晋南北朝』
講談社学術文庫版