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五胡

4~5世紀の中国周辺の異民族である匈奴・羯・鮮卑・氐・羌をいう。三国時代から投身の時代に中国王朝の傭兵とされ華北に進出、混乱に乗じて五胡十六国と言われる国々を作った。

 胡(日本語の訓みは「えびす」)とは漢民族から見て北方民族(北方にいる異民族)を主とした異民族のことで、中国史では、匈奴鮮卑の五つの民族を言う。彼らの多くは騎馬遊牧民であった。厳密に言えばこのうちのは北方民族とは言わず、中国の西方なので西方民族とする。

西晋の八王の乱を契機に南下した

 北方遊牧民の世界では、前2~前1世紀の間、匈奴が強大であったが、その分裂に乗じて、後2世紀頃から、他の遊牧民の自立と統一が進んだ。またその南の農耕民族である漢民族の世界で後漢が滅亡して三国時代の分裂時代となり、魏蜀呉の三国を司馬炎が統一して(西晋)を建てたが、290年ごろから内紛が激化して八王の乱となった。
 この中国の混乱期に、北方遊牧民が中国の北半分(華北)に進出しはじめていたが、直接的なきっかけは八王の乱で抗争した王族が、それぞれ兵力に不足したことから五胡の軍事力にいぞんしたことから、彼らの南下が促された。この五胡は、西晋の混乱に乗じて、4世紀から5世紀にかけてそれぞれが華北に自立し、いくつかの国を建て、興亡した。

五胡十六国

 この4~5世紀には、五胡が中国の華北で、十六の国を興亡させたので、総称してこの時代の中国の華北を五胡十六国という。北方民族が中国の華北の漢民族を統治するということによって、華北に新しい統治方式が生まれ、それはやがて均田制などを柱とした律令制へと成長していく。と同時に一方で北方遊牧民が中国文明を取り入れて、次第に漢民族に同化していくとともに、中国文明にも北方的な要素(胡人の文化)が加わることになった。
 華北の五胡十六国は439年に鮮卑の建てた北魏によって統一され、一方、南半分の漢民族は東晋から宋・斉・梁・陳と王朝が交代して、南北朝時代となる。

民族移動の動き

 この時期、中国史の主役として登場した匈奴は、かつて匈奴帝国として秦漢の中華帝国にも大きな脅威を与えていたが、この時期にはそれ以外に、羯(匈奴と同系統と考えられている)と鮮卑(モンゴル系とも考えられる)が新たに登場し、さらにに北方遊牧民の動きに強く影響された氐や羌などの西方民族も同じように、活発に活動を開始した。このアジアにおける五胡の活動は、同じ4~5世紀にユーラシア大陸の西方でもゲルマン人の大移動となって現れている、世界史の大きな動きとしての民族移動のひとつと見ることができる。
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