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新羅

朝鮮の三国時代、半島の東南部を支配。7世紀に有力となり、唐と結んで660年に百済、668年に高句麗を滅ぼした。さらに唐軍を676年に撃退して半島を統一した。唐から律令制などを学び、仏教文化が開花した。935年に高麗によって滅ぼされた。

 朝鮮の歴史上、三韓の一つの辰韓の地を統一した斯盧国にはじまり、三国時代の新羅として高句麗百済と抗争し、日本とも関係が深かった。668年までに唐と連合して百済、高句麗を滅ぼし、さらに朝鮮半島支配を狙った唐軍を676年に撃退し、半島の大同江以南を統一支配した。
 古代の朝鮮の最も繁栄した時代である統一新羅の時代は935年に高麗に代わるまで続いた。ただし、新羅と同時代に、半島の北方には渤海があって、新羅の支配は大同江(平壌付近)までに留まり、旧高句麗の治めた鴨緑江流域と現在の中国東北地方には及ばなかった。新羅・渤海とともに唐の冊封体制に組み込まれ、海を隔てた日本とも外交関係をもった。これらの国々はいずれも唐の周辺国家として政治的にも文化的にも強い影響を受けた。 → 唐と隣接諸国
参考 新羅の読み方 新羅は一般に「しらぎ」とよむが本来は「シンラ」または「シラ」。日本で“シラギ”というのは、シラに城(キ)をつけてシラキと言うところから来ているという。

参考 新羅の建国神話

 もと新羅は六つの村から成り立っていた。六村の首長たちは新しい君主を迎えようと村人を率いて集まった。すると南山のふもとの井戸のほとりに天から雷のようなものが降り、そこで白馬がしきりに招くので行ってみると一つの紫の卵があった。卵を割ってみると童子が現れ、全身が光り輝いていた。童子は赫居世(姓は朴)と名づけられた。今度は井戸のほとりから鶏竜があらわれその左脇から乗除が生まれた。二人は13歳になって王と王妃にして新羅が建国された。新羅王の系統はその後、朴・昔・金の三氏が交互に継承し、後に金氏が独占することとなる。

辰韓の統一

 韓民族で、三韓の一つ辰韓と言われた半島の東南地域(現在の慶尚道)の十二の小国の一つであった斯盧(しろ、サロ)国で、4世紀ごろから金氏が王位を独占し、356年に統一を達成して新羅が成立した。
 都は現在の慶州で、新羅では金城と称した。慶州には朝鮮半島を統一した新羅においても都とされたので、歴代の王の王墓や、仏国寺石窟庵など、朝鮮の仏教の代表的な寺院などの遺跡が多い。

三国時代の新羅

 4~7世紀はじめまでの三国時代には、高句麗百済と争い、次第に強大となった。
 高句麗の広開土王碑によれば、398年、倭人(倭国)が新羅に侵攻したので高句麗に救援を要請、400年に5万の高句麗兵が出撃して倭軍を退却させた。

6世紀に急速に台頭

 新羅は三国の中で最も劣勢であったが、6世紀に入ると急速に台頭した。法興王(在位514~540)は517年、律令を公布、軍事制度・十七等官位制の整備、仏教の公認、年号の制定などの改革を一気に断行し、南朝の梁に遣使し、さらに金官国(南加羅)を併合した。次の真興王は高句麗と百済の対立に割って入り、漢江下流域に進出し、554年には百済の聖王を管山城で討ち取った。さらに南朝鮮の洛東江流域で最後まで残っていた加羅(大加耶)に攻勢をかけ、562年にそれを滅ぼした(日本でかつて「任那日本府の滅亡」と言っていた事実)。
新羅の仏教受容 新羅が仏教を公認したのは、527年の法興王の時で高麗や百済より150年ほど遅い。当然それ以前から仏教は民間に知られていたと思われるが、新羅ではシャーマニズム系の土着宗教が根強かったため、浸透の度合いが薄かったと思われる。次の真興王は自ら仏教に帰依し、王都に興輪寺という仏事を建立、549年には梁から留学僧覚徳が仏舎利を持ち帰り、真興王はこの留学僧第一号を丁重に迎え入れた。その後、王族や貴族に仏教帰依者が増え、都金城(現在の慶州)には仏国寺を初めとする多数の寺院が創建されることとなる。 → 朝鮮の仏教

Episode 新羅の女王

 新羅の第26代真平王には一人娘の善徳だけで男の子がいなかった。新羅には女王の前例がなかったため、王位継承が問題となった。群臣の中には反対する者もいたが、国民の多くは善徳が継ぐべきだとの声を上げた。632年、国民の声に推されて善徳女王が即位した。彼女は才気煥発、しかも心が広く、哀れみ深かったので民百姓ばかりでなく、即位に反対していた群臣からも慕われるようになった。642年、百済の義慈王が大兵を繰り出し国境を越え、40余城を落とすと、女王はやむなく高句麗に使者として金春秋を送り、援軍を要請した。しかし高句麗は援軍の見返りに領土割譲を要求、拒否した金春秋を捕らえてしまった。報せを聞いた善徳女王はただちに将軍金庾信(きんゆしん)を派遣し奪還を図る。この果敢な動きに驚いた高句麗の宝蔵王は金春秋を釈放した。
 643年には善徳女王は太宗に援軍を要請した。すると太宗は「そなたの国は女を追うとしているから侮られるのだ。朕の親族の一人を遣わすから国王に迎えたらよい。」といってきた。善徳女王、金春秋、金庾信の三人は怒りに燃えたが、唐に頼らず自前で百済と戦うほかはないと、かえって結束した。647年には女王を排斥する謀反が起こったがそれもすぐ抑えられた。その年、善徳女王は亡くなり、次も女王の真徳女王が即位した。女王がたよりにした金春秋は優れた外交手腕を発揮し、647年には大化の改新直後の日本に行って交渉している。真徳女王の次に金春秋が武烈王として即位、妻の父金庾信と協力して、新羅の半島統一に向かうことになる。新羅に女王がいたことはあまり知られていないが、日本も同じころ女性天皇の時代だったことを考えれば、興味深い。<金両基『物語韓国史』 p.191-196>

隋・唐の半島干渉

 朝鮮の三国時代は7世紀に入ると、煬帝による高句麗遠征がはじまったことで、大きく情勢が変動した。さらに隋に代わったも朝鮮半島に積極的に関わろうとして、太宗も645,647年に高句麗に遠征軍を送り、たびたび攻撃を行った。しかし、この時も高句麗軍によって撃退された。
 次いで高宗の時期に、新羅と百済の争いに介入し、新羅の要請を受けたことを口実に660年に、唐・新羅連合軍の共同作戦でまず百済を滅ぼした。さらに668年には同じく、唐・新羅連合軍は高句麗を攻撃、それを滅ぼした。新羅はこのいずれにおいても唐に協力、唐の半島進出を助ける形となった。

新羅の朝鮮統一

新羅地図

新羅の領域
赤点線は現在の国境

 唐と結んで高句麗・百済を下し、新羅の統一を推進したのは、武烈王(在位654~661)・文武王(在位661~681)の二代の王と、二王を支えた武将の金庾信であった。武烈王は即位前に高句麗・倭・唐を直接見て回り動乱の東アジア情勢を把握した上で、唐と結ぶ決意をした。武烈王の戦いを軍事面で支えたのが金庾信で、次の文武王の時に唐と結んで百済、高句麗を滅亡に追いみ、三国時代を終わらせた。しかし、唐は高句麗・百済の領域に都護府を置いて支配したばかりでなく、新羅に対しても服従を求めてきたため、新羅は反発し、唐に対する戦いに転じた。その結果、676年に唐軍を半島から撃退し、新羅は朝鮮半島を統一した。
唐・新羅戦争 唐は旧百済の熊津に熊津都督府、旧高句麗の平壌に安東都督府を置いただけでなく、新羅にも鶏林(新羅の雅称)都督府を置いて朝鮮半島全体を支配しようとした。これに対して新羅は、それまでの唐への協力から敵対へと転換し、さらに百済と高句麗の遺民を糾合して唐との全面対決に向かった。
 唐は新たな派遣軍を増強して当たったが、陸上と海上でいずれも新羅軍に敗れ、ついに676年に唐は朝鮮半島から撤退した。

新羅の社会と文化

 新羅は国家体制として唐の律令制度を導入し、都の慶州を中心に、中央集権制をしいた。また、骨品制という独自の身分制度を持っていた。歴代の王は篤く仏教を信仰し、とくに都慶州とその周辺には仏国寺石窟庵など、多くの寺院が建設して、8世紀の朝鮮の仏教の最盛期を出現させた。
新羅と日本  新羅が統一して半島情勢が安定すると、日本の奈良朝政府は675年から遣新羅使を派遣し、新羅からの使節も日本に来て両国は密接な外交関係をもっていた。新羅が強大となるに従い、両国関係は悪化した時期もあるが、遣新羅使は779年まで、日本への新羅使は840年まで続いた。

新羅の衰退

 9世紀にはいると唐の衰退にあわせて新羅も衰えが見られるようになった。それは宮廷の仏教保護による寺院造営が続いて財政を圧迫したこと、骨品制で上位を占める世襲貴族が退廃的な生活と共に政争に明け暮れるようになったこと、などに現れた。その間、各地に豪族や農民の反乱が起こるようになり、それを抑えられない中央政庁に代わって各地に地方政権が現れた。まず822年には公州の都督金憲昌が、その子とともに二代にわたり反乱を起こした。これは鎮圧されたが、891年には北部に農民反乱が起こり、それは新羅の王子の一人であった弓裔に率いられて急速に勢力を拡大させ、901年に国号を後高句麗(フコグリョ)と称した。さらに892年には全州で甄萱(キョウヌウォン)が率いる農民反乱が始まり、彼らは国号を後百済(フペグジュ)と称した。新羅はこれらの反乱を鎮圧することが出来ず、また反乱軍も互いに争って混乱が続いていった。
後三国時代 やがて弓裔の部下であった王建が、人望のなかった弓裔に代わって後高句麗の実権を奪い、918年に国号を高麗とした。こうして、朝鮮は、再び新羅・後百済・高麗の三国に分断されることとなり、この時期を「後三国時代」ともいう。

Episode 新羅の麻衣太子

 927年、後百済の甄萱は新羅の王都(慶州)を急襲、酒宴を開いていた景哀王を捕らえ、自殺させ(一説に殺害された)、王弟を王位につけ敬順王とした。ほぼ千年にわたって繁栄した新羅の王都慶州は一瞬にして修羅場と化した。後百済が撤退した後、翌年、高麗の王建はわずか50騎で新羅の王都を訪ねて敬順王を励ましたという。それをうけて、935年10月、敬順王は高麗に帰順することを決意、太子は「戦わずして千年の国家を手放すことは出来ない」と強く反対したが「新羅には戦う力は既に無い、負け戦と知りながら民百姓の血を流すわけにはいかない」と語り、高麗への降伏を決めた。太子はその場で席を立ち、皆骨山(金剛山の別名)に入り、麻衣を着、草を食べて生涯を終えた。かれが有名な麻衣太子である。<金両基『物語韓国の歴史』1989 中公新書 p.225>

新羅の滅亡

 935年、敬順王から降伏の文書をうけとった高麗の太祖王建は、礼を尽くして一行を迎え入れた。敬順王一行の列は三里もつづいた。王建は敬順の長女の楽浪(ナンナン)姫を妻に娶り、敬順一家には宮殿をあたえ、その群臣たちも迎え入れた。
(引用)935年、新羅は992年間の王朝の幕を閉じたが、その血は高麗王家につながっていった。それをもって、世間では「新羅(くに)は滅んでも血は生きのこった」というようになった。両王家の婚姻関係が結ばれると、両王侯貴族の間でもそれが盛んになっていった。韓国の歴史上、このように、血を流さずスムーズに王朝がそっくり禅譲された例はほかにはない。<金両基『同上書』p.225>
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金両基
『物語韓国史』
1982 中公新書