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加羅/加耶/任那

朝鮮の三国時代、新羅と百済に挟まれた半島の南端でいくつもに分かれていた国々の総称。加羅とも加耶とも表記する。日本書紀には任那として現れる。562年に新羅領となる。

 朝鮮古代史の基本史籍である『三国史記』ではおもに加耶(かや)として出てくるが、他に伽耶、加良、伽落、駕洛という表記もある。『三国遺事』ではおもに伽耶(かや)であるが、『日本書紀』には主に加羅(から)である。『梁書』には伽羅、『隋書』には迦羅、『続日本紀』には賀羅ともでてくる。このように表記は様々であるが、同じ語の異表記であり、加耶 ka-ya は加羅 ka-ra の r 音が転訛したもので朝鮮語ではよく見られる。つまり、加羅=加耶である。<田中俊明『古代の日本と加耶』2009 日本史リブレット70 山川出版社 p.2>

加羅諸国

 加羅諸国は、現在の慶尚南道を中心に慶尚北道を含む洛東江流域であり、韓民族の小国が分立し三韓の中の弁韓といわれた地域にあたり、12の国にわかれていた。4世紀の後半、三韓の馬韓は百済に、辰韓は新羅によって統一されたが、弁韓の地は統一されず、小国家分立が続いた。
 加羅諸国の中で有力だった国には、金官国(金官加羅)、大加耶国(高霊加耶)、安羅国、多羅国、貞淳国などがある。これらの国々は時には有力国を中心に連合体をつくって高句麗や百済、新羅にあたることもあったので、一つの国として現れることもある。特に金官国と大加耶国は製鉄が盛んで、しばしば連合の中心になっており、最も有力だった。

任那日本府は否定されている

 かつて1970年代までの高校で教える日本史では、「(朝鮮半島南部は)4世紀の中ごろ、大和朝廷の半島進出とともにその支配にはいり、任那日本府が置かれ、半島計略の基地となった。」とされていた。しかし、任那(みまな)日本府は『日本書紀』に引用された『百済本紀』などに現れるものであったが、百済本紀の現物は残っておらず、他の朝鮮や中国の史料には出てこない。研究が進んだ現在では、「任那日本府」は現在は日本史教科書から消えており、「『日本書紀』では加耶諸国を任那と呼んでいる」<山川出版社『詳説日本史』p.22>とだけ説明されている。
参考 任那と加羅 任那は本来はニンナとよむべきで、ニムナからミムナ、ミマナへと転化した。本来は、加羅諸国の一つ金官国の別称(広開土王碑には「任那加羅」として出てくる)であったが、大和王権と外交関係を最初にもった加羅諸国が金官国(任那)であったので、日本では加羅諸国全体を任那と言うようになったと思われる。つまり日本においては任那=加羅と言うことが出来る。
 なお、「日本府」は、『百済本紀』には「倭府」とあったものを日本書紀の編者が書き換えたものと思われる。最近では「倭」は必ずしも日本を指すのではなく、朝鮮半島南部自体を指す用例も多いので、加羅諸国そのものとする解釈も出されている。
参考 カラということば 日本で唐や韓をカラと呼んでいるが、それだけでなく、海外のことをカラ(唐物、唐入り、カラ行き)などという言い方が現在も続いている。これは、日本が最初に接した外国が加羅諸国だったカラだと言われている。

加羅諸国の消滅

 任那日本府のような現地機関の存在は現在では否定されているが、5世紀に大和政権がこの地域にたびたび進出したことは、中国の史書『宋書倭国伝』にでてくる倭の五王が南朝の皇帝に提出した上表文にも述べられており、事実であったと考えられる。
 また、百済は高句麗・新羅と激しく争い、加羅諸国が新羅の勢力下に入ることを恐れていたので、大和王権と結んでその支援によって加羅諸国への影響力を保持しようとした。加羅諸国側も時期によって連合体を作りながら百済、新羅、日本との外交関係を巧みに乗りきろうとした。特に周辺諸国にとって加羅諸国が良質の鉄器の生産地であったことが、その地を併合しようとする狙いであった。最終的に加羅諸国を併合したのは562年新羅によってであった。この年は「任那日本府の滅亡」の年なのではなく、加羅(加耶)諸国の新羅への併合の年なのである。
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書籍案内

田中俊明
『古代の日本と加耶』
日本史リブレット70
2009 山川出版社