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広開土王碑

高句麗の広開土王の功績を顕彰するためにつくられた石碑。高句麗の丸都城近く、鴨緑江河畔に、414年に建てられた。三国時代の朝鮮半島の情勢を記した貴重な資料となっている。

広開土王碑

広開土王碑 1913年

 高句麗全盛期(4世紀末~5世紀)の国王広開土王(好太王)の功績を称えるために、次の長寿王が414年に、鴨緑江中流の北岸の丸都城付近に建てた石碑。古代朝鮮の高句麗の歴史だけでなく、三国時代の朝鮮の国際関係、さらに日本(倭)との関係などにも記述が及ぶとされ、古代の朝鮮の歴史を知る上で貴重な一次資料として重要である。

発見までの経緯

 石碑は高さ6.3m、幅1.4~1.9m、文字は4面に彫られ、全部で1802字に及ぶ。高句麗の滅亡もあり、その後の長い歴史の間に石碑は忘れ去られ、苔や蔦に蔽われていたが、1880年にこの地の農民が発見し、翌年、清の役人が一部を拓本にして知られるようになった。1884年、日清間の緊張が高まる中、日本陸軍の酒匂景信砲兵大尉が諜報活動中にこの拓本を得て解読を参謀本部で行った。碑文中に倭が朝鮮半島に出兵したという記述があったために注目された。戦後になって、日本陸軍の手によって碑文中の倭・任那関係記事が改ざんされたのではないか、という疑惑が出され、韓国・北朝鮮の史学会では疑問視されるようになった。戦後は長い間この地域への立入が出来なかったため、実地調査が出来なかったが、1980年代から実際の碑文の検討が開始され、内容も明らかになってきた。しかし、判読が困難な部分も存在し、その解釈はまだ諸説あって確定はしていない。<井上秀雄『古代朝鮮』2004 講談社学術文庫 p.82>

碑文の内容

 碑文は三段からなっており各段は次のような内容になっている。
・第一段 高句麗の建国 『三国史記』の高句麗建国神話である朱蒙と類似した内容が簡略に書かれている。広開土王については391年に18歳で即位したことが記され、その没後二年目の414年にその子長寿王がこの石碑を建てた。
・第二段 広開土王の業績 領土を拡大した業績(広開土という王名も、広大な領土を開いた王の意味)が讃美されている。の記事もこの部分に含まれている。その内容は次のように解釈されている。
「395年、王はみずから稗麗(沃沮地方、高句麗の北西)を討伐、翌396年は水軍を率いて百済を討ち、治世最大の戦果を挙げた。その理由は百済と新羅はもと高句麗に隷属し朝貢していたが、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済などをうち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したが、なおも抵抗が続いたので、漢江を渡り王城を攻めた。百済王は多くの貢物をだし、家臣になることを誓ったので王の弟などを人質として凱旋した。
 398年に粛清(高句麗の東北)に出兵し服属させた。翌年、百済は前年の誓いを破って倭と和通したので、王は百済を討つため平壌にむかった。そのとき新羅が「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下にした。救援を願いたい」と願い出たので、400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、それを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆を突いて新羅の王都を占領した。
 404年、倭が帯方地方に侵入してきたので、これを討って大敗させた。407年には5万の大軍を派遣し、京畿道北東部で兜と鎧の戦利品多数を得た。410年には東扶余を討ち、服属させた。王一代で攻め破ったところは、城が64、村は1400に及んだ。」
・第3段 王領の維持 広開土王の陵墓を守る守墓人(烟戸)には従来、高句麗の民が充てられていたが、新たに王が征服した韓族などからも指定した。330の烟戸の詳細な構成を示している。このことは高句麗が部族制国家から領域支配に射越たことを示すと考えられる。共同体に束縛された王権から、種族的な対立感情を越えた地域支配を行う古代国家の王権への移行過程と見ることができる。<井上秀雄『同上書』p.82-91 をもとに、武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』p.307-313 などで修正補足。>

参考 広開土王碑を巡る問題

 碑文は多岐にわたるが、最も注目されるのが、広開土王が二度にわたり南下し百済と戦ったとされている点である。それによれば倭は4世紀末に朝鮮半島南部に進出していたことになる。
 問題の碑文は「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」の部分で、「百残(百済)・新羅、旧(もと)より是れ<高句麗の>属民にして、由来、朝貢す。而るに倭、辛卯の年を以て来たりて海を渡り、百残□□□羅を破りて臣民と為す」と読むことができる。しかし「海」の字は判読が難しく、□の部分は判読が不可能である。解釈としては辛卯年は西暦391年にあたり、百残は百済のこと(蔑んで残の字を用いた)、□の三つ目は「新」をあてて「新羅」と考えられている。残る二つの□には、日本では「任那」を充てる説があったが根拠は薄い。
 1972年代に在日の古代史家李進煕氏が日本の軍人による碑文の改ざんの可能性を指摘して日本でも大きな反響があった。それは、碑の表面に石灰を塗り、辛卯年に倭が「渡海」して百済・新羅を従えたと読めるように改ざんし、日清戦争を控えて神功皇后の三韓征伐の証拠とし、古代にも日本の朝鮮進出があったことにして戦意を高揚しようとした疑いがあるというものであった。前後して朝鮮の研究者の中には辛卯年の倭の朝鮮半島への出兵を認めず、逆に「渡海」した主語を高句麗として読み取り、高句麗が倭に出兵した、と解釈できるという説が現れた。現在では改ざん説を否定する拓本がみつかっており、文字は「倭以辛卯年来渡海破百残□□□羅以為臣民」であると確定し、その読み方も「倭、辛卯の年よりこのかた、海を渡り百残を破り、新羅を□□し、以て臣民と成す」(西嶋定生氏の読み方)と提唱されている。<熊谷公男『大王から天皇へ』日本の歴史03 2001 講談社 p.37-44>
 広開土王碑文から読み取ることができるのは、391年以降、倭は海を渡って百済・新羅を従えたが、396年に南下した高句麗広開土王の軍に倭の臣民となった百済は敗れた。399年(己亥年)には新羅に侵攻したが、400年に救援した高句麗軍に撃退され、404年には帯方地方まで進出したが、この時も自ら兵を率いた広開土王に海上で敗れた、ということである。倭を大和王権とみることにも議論があるが、「渡海」して高句麗と争うだけの力を持った存在はこの段階では大和王権と考えるのが妥当であろう。
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書籍案内

井上秀雄
『古代朝鮮』
初刊 1972 NHKブックス
再刊2004 講談社学術文庫

礪波護/武田幸男
『隋唐帝国と古代朝鮮』
世界の歴史6
1997 中公文庫

熊谷公男
『大王から天皇へ』
日本の歴史03
2001 講談社
2008 講談社学術文庫