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遣隋使

日本の飛鳥時代、607年に聖徳太子が小野妹子を隋に派遣。煬帝に国書提出。同時に留学生・留学僧を派遣した。彼らは隋から唐への変革を体験、帰国後の大化の改新に大きな役割を担った。

 607年聖徳太子が小野妹子をに派遣したのが第1回。なお、『隋書』には600年にも日本からの使節が来航した記録があるが、『日本書紀』には見えていない。
 607年7月に派遣された使節一行は、翌608年3月に洛陽(隋の副都東京といわていた)で煬帝に謁見した。通訳には同行した鞍作福利があたった。

隋の煬帝との交渉

 小野妹子の持参した聖徳太子が煬帝にあてた国書には、「日出ずる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや」とあったため煬帝は不快に思い、外交担当の大臣の鴻艫卿に「蛮夷の書、無礼なるものあれば、今後は上聞するなかれ」と命じた。
 遣隋使の国書には「聞くならく、海西の菩薩天子、仏法を重興す、と。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来たりて仏法を学ばしむ。」と述べた。海西の菩薩天子とは、仏教の復興に努めた隋の初代皇帝文帝(隋)をさしており、文帝は北周の武帝によって弾圧(三武一宗の法難のひとつ)された仏教と道教を復興させることに努め、さらにしだいに仏教に熱心になり、盛ん仏教を保護した。そのことを百済を通して知った聖徳太子が、仏教による国造りに学ぼうとしたのだった。
 文帝から煬帝に代わったことを聖徳太子は知らなかったが、遣使の目的に仏教興隆があったことは確かで、煬帝も無下に追い返すことはせず、帰国する小野妹子と共に、日本への使節として裴世清を派遣した。煬帝が日本との国交を受け入れたのは、当時高句麗遠征を計画中であったことから、その背後にある日本とは友好関係を持とうとしたものと考えられる。

隋の使節裴世清の来日

 608年4月、小野妹子は隋使裴世清(はいせいせい)と随員12人は筑紫に帰着した。隋使がいっしょだとの報せにあわてた朝廷は、難波に置かれた迎賓館の高麗館のとなりに新たに隋使の宿泊施設をつくるさわぎとなった。6月15日に隋使が難波津に停泊したとき、満艦飾の船30艘をかりだして出迎え、新しい館に案内した。

Episode 小野妹子の外交テクニック

 このとき妹子は、隋帝から授けられた国書を、百済国を通過した日に、百済人に略奪されました、といいわけした。その内容が、聖徳太子の期待した対等の外交関係とはほど遠く、そのまま見せられなかったからに違いない。群臣たちは妹子を流刑に処すべきだと述べたが、天皇は勅をくだして責任を問わなかった。妹子の苦渋を察したからであろう。<礪波護『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』1997 中央公論社 p.16/『日本書紀』推古天皇16年6月条>
 秋8月3日、隋の使節裴世清は飛鳥に到着、聖徳太子は75頭の飾り馬をしたてたパレードで出迎えた。難波から飛鳥までに展開された華やかな歓迎は、大国の使節が初めて訪れたという画期的な出来事を内外に宣伝しようとする聖徳太子の政治感覚のするどさをあらわしている。

留学生・留学僧の派遣

 裴世清の帰国に際し、小野妹子が再び送使の大使として同伴し、このとき高向玄理ら4人を留学生、僧旻・南淵請安ら4人が留学僧として同行した。小野妹子は翌年帰国したが、留学生・留学僧はその後も長く中国に留まり、多くを学んだ。ところが彼らが隋にわたった608年から10年後の618年、隋が滅び、唐王朝が成立するという激変が起こり、彼らは身近にその変化を体験することとなった。その後日本では622年に彼らを送り出した聖徳太子も没した。630年、大和王権は第一回遣唐使として犬上御田鍬を派遣、その帰国に同行して、632年に僧旻は24年ぶりに帰国した。高向玄理と南淵請安はさらに長く、32年後の640年に帰国した。
 帰国した僧旻、高向玄理、南淵請安らは、いずれも645年の乙巳の変から始まった大化の改新において、隋唐の政治変革での体験を生かし、大和王権が中国風の律令国家に変身する改革に大きく寄与した。
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