印刷 | 通常画面に戻る |

大元ウルス

モンゴル帝国における元の正式な表記。

 フビライは1271年(至元8年)、新しい国号を「大元」と名づけた。正式には「大元イエケ・モンゴル・ウルス」=大元大モンゴル国、略して大元ウルスという。ウルスとはモンゴル語で「国家」を意味する。高校教科書等では一般に、「」とのみ表記する。元という文字は、易経の「大いなるかな、乾元」から採ったという。乾元とは天、もしくは宇宙を意味し、トルコ・モンゴル族で言えば、彼らがすべての源として共通に崇める「テングリ」にあたり、「大元」すなわち「大いなるみなもと」とはテングリの尊称となり、フビライは自らの新国家を「大いなるテングリの国」と命名した。(唐の太宗も突厥を服属させたとき天可汗=テングリカガンの称号を贈られた。)
 また、フビライはすでに1260年に、モンゴルとして初めての年号を定め、「中統」と言い、アリクブケとの「帝位継承戦争」に勝った1264年には「至元」に改元したさらに1267年には新首都「大都」の建設に着手、これで国号・年号・都をもつ世界国家となった。

元の大統合のプラン

 モンゴル帝国が中国する=大元ウルスはどのようなプランで行われたのであろうか。それは「軍事と通商がタイアップした国家」であり、次の3つの要素が組み合わされていた。
  1. モンゴル支配の根源である「草原の軍事力」。モンゴル騎馬軍団を中心としてさまざまな人種から成る軍事のシステム化。
  2. 国家行政機構と財政基盤の確立。そのために中国の伝統と富と生産力(中華の経済力)を手に入れること。
  3. ユーラシア全土にわたる物流システム。大カアンの権力のもとで、イラン系ムスリム商人の経済力を取り込む。
加えて、もう一点、注意しておきたいことがある。それはクビライ政権が「海上への視野」をもっていたらしいことである。クビライの「陸の帝国」は、「海の帝国」としての側面も兼ね備え、「陸と海の巨大帝国」をつくりあげた。陸と海の起点として新たに建設されたのが大都である。大都は運河で外洋と結ばれていた。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 下 p.19-22,39-43>
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

杉山正明
『モンゴル帝国の興亡』下
講談社現代新書