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武臣(人)政権/崔氏政権

朝鮮の高麗において、12世紀後半から約百年の間存在した武人による軍事政権。崔氏政権がその例。モンゴルの侵攻を受けて崩壊した。

 武臣政権とは朝鮮の高麗において、一時期有力武臣が国王から実権を奪って成立した政権のこと。武人政権ともいう。その代表的な例が12世紀末から約100年にわたり存続した崔氏政権である。ほぼ同じ時期に日本でも源頼朝による最初の武家政権である鎌倉幕府が成立している。また、ともにモンゴル帝国の侵攻によって試練を迎えている。

高麗の状況

 高麗王朝は11世紀に安定期を迎えていたが、その実は、国王の外戚を有力な両班貴族の文班である金氏と李氏が独占し、その血縁関係にあるものが政府の中枢を占めるという事態となっていた。しかし、12世紀に入ると、北辺にツングース系の女真が迫り、さらに都開城に対して高句麗の古都西京(現在の平壌)に都を移そうとする勢力が反乱を起こすなど、危機が迫ってきた。しかし国王とその周辺の両班貴族は安逸に流れ、手をこまねいている間に、武班といわれる武人の発言権が強まっていった。
 1170年、武人の鄭仲夫が軍事クーデターを起こし国王毅宗を暗殺して明宗をたてるという事件(庚寅の乱)が起こった。権力をにぎった鄭仲夫は文官を弾圧して実権を握り、武人(武官)が政治にあたる武人政権(武臣政権)が開始された。それに対する文人官僚の抵抗もあって権力闘争が激化する中、最終的に権力を手中に収めたのは崔氏であった。
(引用)武臣政権が生まれた背後には、特権的な両班貴族と民衆の間の社会的分化があり、文臣優位とする武臣蔑視の風潮があって、それが武臣による王室の軽視や文臣の排除という、下克上の原動力となっていた。・・・武臣政権の登場は一時的な反乱とは異なり、その後の高麗に大きな影響を与えることとなる。<武田幸男他『朝鮮―地域からの世界史1』1993 朝日新聞社 p.66>
 1196年、武人の崔忠献は反対派を抑えて明宗を廃して神宗を迎え、さらに神宗が死ぬと煕宗を立てるなど王位を意のままに動かし、権勢を振るった。その子崔怡(さいい)は1225年からその私邸で政治を執るようになり、その妻を皇后に倣って葬るなど、権勢を極め崔氏政権は4代にわたって世襲された。

武臣政権の実態

 武人政権は、たいていは私兵・門客を養った実力者が武力で実権を奪取したもので、安定した政治機構は生まれず、高麗の政情ははなはだ不安定であった。武人政権の争いに対応して、社会各層にわたり、また全国各地で大小の反乱が波状的に、あるいは集中的に起こった。記録に現れただけでも百年でおよそ80の反乱が起き、しかもそれらはすべて武官政権に対する抵抗であった。しかもその中心となったのは農民や奴隷であり、彼らの実生活の要求に基づいた性格が強かった。これらの農民反乱のエネルギーが最後に集約されたのが三別抄の乱であった。
 13世紀に入るとモンゴル軍の侵攻が始まり、それにたいして武臣政権は抵抗の姿勢をとったが維持できず、開城を引き渡して王都を江華島に移した上で1259年に降伏した。1270年には武臣の林衍(イムヨン)が殺され、武臣政権は終わりを告げた。
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書籍案内

武田幸男/宮嶋博史/馬渕貞利
『地域からの世界史1
朝鮮』1978 朝日新聞社