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アグラブ朝

800~909年、アッバース朝から自立しチュニジアに成立したイスラーム王朝。シチリア島も支配した。

 北アフリカの現在のチュニジアに、8世紀末に自立したイスラーム政権をアグラブ朝という。アッバース朝カリフ、ハールーン=アッラシードの時代は、イスラーム帝国の全盛期とされているが、その広大な領土では次第に中央のバグダードのカリフの統制に従わない勢力も台頭し、イスラーム世界の分裂が始まった時代でもあった。マグリブ地方のチュニジアに対して、ハールーン=アッラシードは太守としてイブラーヒム=イブン=ル=アグラブを派遣したが、アグラブは形式的にはアッバース朝の宗主権を認めた上で実質的には独立国家の君主として統治した。それがアグラブ朝(800~909)である。
 アッバース朝の宗主権を認めたと言うことは、アグラブ朝はスンナ派を奉じたと言うことであり、隣接するアルジェリアのルスタム朝ハワーリジュ派、さらに西方のモロッコのイドリース朝シーア派勢力とは対立した。都はカイラワーンに置かれたが、その地は西方イスラーム教の聖地の一つとされ、現存するカイラワーン=モスクは西方イスラーム建築の代表として貴重であり世界遺産に登録されている。

地中海進出とシチリア島占領

 アグラブ朝はまた、積極的な地中海進出を図ったことでも重要である。彼らの艦隊はシチリア島、コルシカ島、イタリア半島、フランス南岸を攻撃し、カール大帝のもと全盛期を迎えていたフランク王国に大きな脅威を与え、さらにローマを襲撃している。その艦隊の活動はクレタ島やエーゲ海にも及び、地中海を制圧する勢いであった。
 アグラブ朝のイスラーム勢力は、827年にはシチリア島侵攻を開始し、878年にはシラクサを占領してほぼ全島を支配、パレルモがその中心都市として栄えるようになった。さらに902年には残った島東部のタオルミナのビザンツ帝国軍を追い出して、シチリア島を完全に支配した。
 しかし、10世紀初め、チュニジアにシーア派イスマーイール派の宗教運動を背景として起こったファーティマ朝が急速に台頭して、909年にアグラブ朝は滅ぼされた。 → チュニジア
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