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ガーナ王国

アフリカ西部、ニジェール川上流に成立し、8~11世紀に栄えた黒人王国。

 アフリカの西部、サハラ砂漠の南縁のニジェール川上流域(現在のマリとモーリタニアの国境地帯)に、8~11世紀に存在した黒人王国。ガーナ帝国ということもある。金や銀の産地として知られ、サハラ北部の岩塩と盛んに交易をしていた。首都は現在のモーリタニアのマリ国境近くにあるクンビ・サレー遺跡ではないか、と推定されている。この遺跡からは多層の石造建築物や墓所が発掘され、当時の人口は1万5千~2万と推定されている。またムスリム商人との交易を通じてイスラーム教も伝えられたが、ガーナ王国の王はイスラーム教に入ることはなかった。ムラービト朝のガーナ占領によって、アフリカ内陸のイスラーム化が本格化した。

塩と金の交易

 文字を持たない文化であったため、成立時期などは不明であるが、8世紀にアラブ人の記録に、「黄金の国」ガーナに遠征軍を送ったという記録が現れる。それ以前から、ガーナ産のと、サハラ産の岩塩の交易が行われていたらしい。(アフリカでは塩が貴重だったので、塩と同じ重量の金と交換したという。)また、ガーナ王国の王宮では犬も金の首輪をしていたという。これらの情報はイスラーム商人を通じてもたらされた。

ムラービト朝による征服とイスラーム化

 11世紀に北アフリカ・マグリブ地方のモロッコに起こったイスラーム教国のムラービト朝は厳格なイスラーム教スンナ派の信仰を掲げ、周辺への聖戦(ジハード)を展開したが、異教徒のガーナ王国に対しても、1076/77年に遠征軍を送り、都のクンビ=サレーを占領した。その後、独立を回復し、塩金交易は繁栄を継続したが、1235年にはマンディンゴ人に制圧されて、マリ王国に編入された。
注意 ガーナ王国の滅亡年 ガーナ王国の滅亡はムラービト朝によって征服された1076/77年とされることが多い。教科書でも東京書籍世界史Bなどがそれであるが、山川出版詳説世界史Bでは1150年となっている。参考書の山川版『詳説世界史研究』p.164では「(ムラービト朝は)1076年ガーナ王国を滅ぼすと・・・」とあるが、p.171ではガーナ王国(7世紀~1150)は「1076/77年、モロッコのムラービト朝の攻撃を受けて衰退した」とあって混乱している。小辞典・用語集では、山川出版のものは1150年、実教出版では1077年、三省堂ではムラービトによる占領により崩壊、とされている。しかし、角川世界史小辞典の「ガーナ帝国」の項では、1077年王都が陥落してイスラム化が進展したとして「その後いっそう発展し、帝国の南方に産する金の北アフリカへの輸出と、サハラ中央部に産する岩塩の輸入の中継地として栄えた。13世紀に衰退し、南方のマリ帝国に覇権を譲った」と説明されている。最新刊の山川出版世界各国史『アフリカ史』(2009)でもガーナ王国の滅亡は1077年や1150年ではなく、12世紀に衰退し、13世紀にマリ王国に取って代わられるまで存続したと記されている(p.248)。アフリカ史では史料的な制限から、厳密な年代が分からない場合が多いので、こだわる必要は全くないが、どうやら「ガーナ王国は1076/77年に滅亡した」と言うことは出来なさそうだ。
注意 ガーナ王国と現代のガーナ 現在、ガーナ共和国という国名の国家は、大西洋に面した西アフリカの海岸地方にあり、古代のガーナ王国の位置ではなく、直接の関係はない。もとは、イギリス領の「黄金海岸」(ゴールドコースト)であったところが、独立に際して、その指導者エンクルマが、ヨーロッパ勢力侵入以前に繁栄していたガーナ王国の名を用いたのであった。
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