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議会/議会制度

中世ヨーロッパに始まる近代国家で発展した政治システム。身分制議会を経て近代的議会に成長し、近代以降の主権国家において普遍的な立法機関あるいは国権の最高機関として国民から選挙された議員によって構成されるようになっている。

 議会および議会制度の起源は中世ヨーロッパ諸国の生まれた身分制議会に求められる。特に13世紀以降発達したイギリス議会制度の中の身分制議会が近代議会制度の源流とされている。またフランスの三部会も中世の身分制議会の典型例であり、フランス議会の出発点となるが、フランス革命以降はまったく性格を異にする近代議会に生まれ変わる。

ヨーロッパにおける議会の成立事情

 身分制議会は、中世封建国家における、国王と領主層(貴族・聖職者)および都市の大商人らの、身分別の諸団体が、互いの利害の保護のために妥協点として成立させたという経緯がある。国王は当初は議会を必要とせず、せいぜい一部の宮廷貴族と協議しながら国政を専断できたが、周辺諸国との対立から戦争が頻発してくると、傭兵を確保するためにも巨額の費用が必要となり、貴族と聖職者(教会)という封建領主(荘園領主)や都市に対して課税する必要が出てきた。そのためには議会を招集して彼等の協力を得ようとした。一方、封建領主たちは自己の所領経営が貨幣経済の浸透によって自給自足が困難になると、国王の権力と妥協を図りながら所領を維持する方が得策と考えるようになった。さらに都市の大商人は、より広い販路での特権的な営業権を国王に保障してもらう必要が出てきた。これらの身分的団体の利害を一致させ、国家的な意志の統一を図る機関として身分制議会は成立した。従って身分制議会では、議員は国王が選び(イギリスの下院は州や都市で選挙されたが)、議会には法律や政策の提案権や弾劾権はなく、専ら国王の諮問機関と位置づけられ、課税などを承認する機関であった。身分制議会は英仏以外にも見られ、基本的には性格は同じであるが、歴史的な条件に応じて内容は少しずつ異なっている。

近代議会の成立事情

 それに対して近代議会は、市民革命によって成立したフランス議会を典型として、国民(この概念も近代以降に成立する)を構成する主体的個人が自己の意志に基づいて投票して代表を選び、立法府として機能し国家の最高機関と位置づけられる近代主権国家の合意形成機関である。フランスでは三部会が一院制であったので、国民公会など一院制が多かった(第三共和政以降は上下二院制)。イギリスではイギリス革命で立憲君主政の政体を確立し、議会は19世紀に選挙法改正を重ね、1911年の議会法上院の権限を抑え、下院の優越を実現し、近代議会を完成させた。アメリカ合衆国は国民が直接選挙で議員を選ぶ連邦議会を成立させ(それ以前に植民地議会の伝統があった)、二院制を採ったがそれは州の連合体であるという国家形態に対応するものであった。プロイセンやオーストリアなどは啓蒙専制君主のもとで形式的な選挙による帝国議会がつくられたが、皇帝や政府の権限が強かった。このように、近代議会の形成過程は、イギリス・フランスおよびその他の諸国で歴史的な条件が異なるため大きな違いがあるので、留意する必要がある。

参考

 議会の意味 日本語の「議会」の英訳には三つの語があてはまる。それは欧米での議会の形成過程の違いに対応している。
・パーラメント(Parliament):イギリス及び、イギリス連邦諸国(カナダなど)など立憲君主政下の議会。
・コングレス(Congress):アメリカ合衆国議会など、共和政国家の議会。
・ダイエット(Diet):旧神聖ローマ帝国であった国々や、プロイセンなど。日本の国会の英訳はこれにあたる。

イギリス議会の議場

イギリス議会
イギリスの議会(下院) 1730年
 第2次世界大戦の1941年5月10日、チャーチル首相就任一周年を、ドイツ空軍はロンドンのウェストミンスター宮殿への爆撃で祝った。その爆撃で下院は大破し、使用できなくなったので、戦後、修復が行われることになった。イギリス議会の議場は、二大政党制の国らしく、与野党が向き合うようなかたちで造られていたが、これを機にアメリカやフランスのように演壇を中心とした半円形の議場にしてはどうか、との声も上がった。しかしチャーチル首相はあくまでも旧来のかたちにこだわり、1950年10月に再開した議場は、伝統的なものとなった。
(引用)すなわち、入って正面に議長席があり、議長から向かって右側に政府側が、左側に野党側が座る。最前列(フロントベンチ)にはそれぞれの指導者層が、後方列(バックベンチ)には平議員らが腰掛け、論戦を繰り広げていく。チャーチルが特にこだわったのが、それぞれの最前列の目の前に引かれた赤い線である。1850年代に再建された議事堂以来、庶民院(下院)の緑色の絨毯に赤い線が引かれ、発言者はそれ以上前に出てはいけないとの規範が明確化した。それは中世以来、議員がお互いに剣を抜いても届かない距離として設定されたものだった。チャーチルはこれもしっかりと再現させた。<君塚直隆『物語イギリスの歴史下』2015 中公新書 p.189>
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