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チャーチル

イギリスの首相。第二次世界大戦を指導し、大戦後も首相を務める。

 ウィンストン=チャーチル、第一次世界大戦中から第二次世界大戦、戦後の冷戦時代にかけてのもっとも著名なイギリスの政治家の一人。先祖は名誉革命時代に活躍した貴族のマールバラ卿。彼自身もハロー校から陸軍士官学校のエリートコースを歩む。インドや南アフリカで軍人生活を送り、1899年には南アフリカ戦争に新聞記者として従軍している。1900年に保守党から立候補して下院議員となり、政治活動を開始した。次第に自由貿易主義をとるようになり自由党に転じる。

第一次世界大戦でのチャーチル

 商務大臣、内相をつとめた後、海軍大臣となり第一次世界大戦を迎える。ガリポリの戦いで上陸作戦を進めたがケマル=パシャの率いるトルコ軍に敗れ、責任をとり辞職。17年にロイド=ジョージ(自由党)の連立内閣に迎えられ、軍需相、陸相などをつとめる。ロシア革命が起こると共産主義の勢力拡大に危機感を持ち、再び保守党に転じて蔵相となる。

宥和政策に反対

 1930年代になるとファシズムが台頭、ネヴィル=チェンバレン宥和政策を批判してナチスの脅威を説いた。第二次世界大戦が勃発して危機が高まる中、ドイツ軍がノルウェーに侵攻、イギリス海軍がそれを阻止出来なかったため、責任をとってネヴィル=チェンバレン内閣が退陣、替わってチャーチルが1940年5月10日に首相となった。

第二次世界大戦の戦時内閣を組織

 チャーチルが組閣を行ったちょうどその日にドイツ軍のオランダ・ベルギー侵攻が開始された。大陸のイギリス軍は追い詰められ、危機が高まったが、チャーチルはダンケルクからの撤退を決定、兵力の維持を図った。チャーチル内閣は挙国連立の戦時内閣(第1次)として、1945年まで戦争指導に当たる。

バトル・オブ・ブリテン

 1940年7月16日ヒトラーはイギリス本土上陸作戦実行を決意し、ロンドンなどに激しい空爆を行った。しかし、イギリス空軍はこのバトル・オブ・ブリテンで健闘し、チャーチルに鼓舞されたイギリス国民も空襲に耐えた。結局、ヒトラーは制空権を握ることが出来ず、イギリス本土上陸を断念した。しかし、ドイツ軍の空爆と、潜水艦によるイギリス封鎖作戦はなおも続き、イギリスも大きな犠牲をはらい、武器、物資、食糧の不足に苦しむこととなり、アメリカ合衆国の支援が不可欠となった。一方、ドイツ、イタリア、日本は同年9月、日独伊三国同盟を締結し、枢軸国を形成した。

大西洋憲章

 アメリカは原則的な中立策をとっていたが、大統領フランクリン=ローズヴェルトは41年3月には武器貸与法を成立させて支援を明確にした。6月に独ソ戦が開始されると、ドイツを共通の敵とすることになったソ連と提携し、英ソ軍事同盟を成立させた。さらに8月に両首脳は大西洋会談において大西洋憲章を発表して、戦争目的を明確にし、戦後国際社会の構築でも協力することを表明、ソ連もそれに賛同して、ここに連合国が成立し、チャーチルはその指導者として戦後世界の枠組みの中心的役割を果たしていくこととなる。1941年12月8日には日本軍の真珠湾攻撃から太平洋戦争が勃発、日本に宣戦布告した。またこれを機にアメリカが参戦し、日本及びドイツ・イタリアとも戦うことになり、チャーチルはそれを歓迎した。

戦後構想の構築

 チャーチルが参加した大西洋憲章以降の連合国の戦後処理構想は、41年12月の太平洋戦争の開始に伴ってアメリカ大統領とのアルカディア会談を行い、翌年1月の連合国共同宣言発表に合意した。これは連合国の結成の第一歩となり、戦後の国際連合結成につながっていく。43年1月にはカサブランカ会談で北アフリカ戦線を形成することに合意し、ドイツ・イタリアを追い込んでいった。43年11月にはカイロ会談でローズヴェルトともに蒋介石と会談、日本に対する無条件降伏を求めることで一致した。続いて12月にテヘラン会談で始めてソ連のスターリンを加えて米英ソ三国の最初の首脳会談を開いた。ここではソ連を警戒するチャーチルは、スターリンの要求する第二戦線の問題やポーランド問題で対立があったが、ファシズムに対する闘いを進める基本線では一致した。10月にはモスクワに飛びスターリンとの間でパーセンテージ協定でバルカン諸国の分割協定を作っている。

戦争の勝利

 1944年6月、ついにノルマンディー上陸作戦を敢行、さらにドイツ本土空爆を展開し、45年2月のヤルタ会談でドイツ・日本の敗戦を前提に戦後世界の構築について協議し、国際連合の設立を約束した。ドイツではソ連軍にベルリンに侵攻され、45年4月30日に、ヒトラーが自殺し、続いてドイツは無条件降伏してヨーロッパの戦争は終わった。

チャーチル退陣

 ヨーロッパでの戦闘が終わって実施された1945年のイギリスの総選挙では以外にもアトリーの率いる労働党が勝利した。国民は戦争に苦しんでいた国民は、平和の到来とともにチャーチルを見放した格好となった。ドイツの戦後処理とまだ交戦中だった日本に対する無条件降伏勧告について話し合われたポツダム会談には、チャーチルに替わって途中からアトリーが参加することとなった。

「鉄のカーテン」演説

 首相の座を譲ってからもチャーチルは国際的な活動を続け、反共主義者としてのリーダーとなっていった。戦後の国際政治ではソ連との対決姿勢をますます強くして、1946年には訪米中に「鉄のカーテン」の演説を行って冷戦時代の幕開けとなった。

第2次チャーチル内閣

 その後保守党を率いて1951年に再び選挙で勝利して第2次内閣を組織、55年まで冷戦下でのイギリス政治の舵取りを行った。その間も対共産圏強硬姿勢は変わらず、1952年には核実験を行い、米ソに続く、3番目の核保有国となった。なお、チャーチルは文筆家としても優れており、特に『第二次世界大戦回顧録』はよく読まれ、在職中の53年にはノーベル文学賞を受賞している。1955年に内閣を保守党のマクミランに譲って引退、1965年に死去した。
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ノートの参照
第15章5節 イ.ヨーロッパの戦争
第16章2節 エ.西ヨーロッパの経済復興と統合の進展
書籍案内

河合秀和
『チャーチル』
1998 中公新書

チャーチル
『第二次世界大戦回顧録抄』
2001 中公文庫
なお、完訳は河出文庫版の4冊がある。