印刷 | 通常画面に戻る |

ヤルタ会談

第二次世界大戦の末期、1945年2月に開催されたアメリカ(フランクリン=ローズヴェルト)・イギリス(チャーチル)・ソ連(スターリン)の三国首脳による戦後処理に関する会談。ヤルタ協定を締結し、ヤルタ体制と言われる戦後世界の秩序で合意した。同時に秘密協定でソ連の対日戦参加を決定し、戦争終結への方向付けでも合意した。

ヤルタ会談
チャーチル、ローズヴェルト、スターリン
第二次世界大戦の末期、イタリアはすでに降伏し、ドイツの降伏も近いと想定された1945年2月4日~11日に開催された連合国の戦後処理構想に関する首脳会談である。参加者はイギリス首相チャーチル、アメリカ大統領F=ローズベルト、ソ連首相スターリンとその随員。
 1943年11月のカイロ会談テヘラン会談に続く三回目の連合国首脳会議であった。ヤルタ会談後の4月にF=ローズヴェルトは死去するが、5月にドイツが無条件降伏し、連合国首脳は最後の首脳会談としてポツダム会談を7月に開催、8月に原爆投下、ヤルタ協定に基づいたソ連の対日参戦が実行され、日本の無条件降伏によって終戦となる。
 ヤルタはロシアのクリミア半島の要塞都市で、クリミア戦争の激戦地となったセヴァストーポリの東南に隣接しており、保養地として有名なところ。1991年のロシアで起こったソ連共産党の保守派クーデタの時には、ゴルバチョフはヤルタの別荘に滞在中に一時軟禁された。それがきっかけとなって、一気にソ連の解体へと進んだ。

米英ソ三国首脳による戦後処理構想

 三国による戦後処理についての協議が行われ、国際連合の設立については、1944年8月~10月の国際連合憲章を検討する実務者会議のダンバートン=オークス会議で暗礁に乗り上げていた拒否権問題ではソ連の意向に沿ってそれを認めることで一致した。また、ドイツの戦後処理では米・英・ソ・仏の4国による分割管理などを決定したが、ポーランド・バルカン半島の処置をめぐってはイギリスとソ連の意見が対立した。2月、ヤルタ協定を発表して終了した。F=ローズヴェルトは会談中から病気で状態が悪かったが、帰国後の4月に死亡した。
 このヤルタ会談によって、第二次世界大戦後の世界政治のあり方=国際連合の設置と米ソ二大陣営の対立という、ヤルタ体制ともいわれる戦後体制を作り上げるとともに、ソ連の対日参戦に関する協定を秘密協定として締結、戦争終結への道筋をつけた。ここから始まる米ソを軸とした東西冷戦構造は、1989年のアメリカのブッシュ大統領(父)とソ連のゴルバチョフのマルタ会談まで継続することとなる。

ポーランド問題で対立

 ヤルタ会談の協議の大半はポーランド問題にあてられた。ドイツ占領下のポーランドはロンドンに亡命政府をおいていたが、その解放はほぼソ連軍の独力で進められていたため、米英の関与する余地がなかった。ソ連は国境を接するポーランドへの影響力を保持するため、地下に潜っていた労働者党(実質的な共産党)員を中心に、亡命政府とは別にルブリン委員会という戦後政権の受け皿となる組織を作った。ポーランド問題とは英米の支援を受けた亡命政府と、ソ連の支援を受けたルブリン政権とのいずれを戦後のポーランドの正統な政権として認めるか、の対立であった。ソ連はポーランド内で亡命政府とつながっている国内軍の弱体化を図るため、その将校を大量に殺害(カチンの森事件として戦後にその事実が明るみに出た)し、また亡命政府に同調して行われたワルシャワ蜂起を支援しなかったと言われている。
ポーランド国境問題 ヤルタ会談でも特にイギリスとソ連がポーランド問題をめぐって激しく対立したが、結局アメリカの仲介で戦後にポーランドで自由な選挙を行うことで双方が妥協した。もう一つの難問はポーランドの国境問題であった。亡命政権は当然、戦前のポーランドの全領土の回復を求めていたが、ここではカーゾン線と言われる旧国境を西に移動させた線までをソ連領とし、エルベ川までの旧ドイツ領をポーランド領とする、つまりポーランド領土を大幅に西にずらすということで米英ソ三国が同意した。ポーランド自身の意向を無視し、大国による妥協が図られたという格好となった。 → 戦後のポーランド

ソ連の対日参戦に関する協定

 ソ連は日ソ中立条約があるため、日本との戦争に加わることはできなかったが、米ソはアジアにおける対日戦を終わらせるために、ソ連の参戦を強く要求、スターリンはその条件として日本からの領土回復、中国における権益の回復をあげた。英米もその要求を呑み、ソ連の参戦が決まったが、日本とは中立条約があること、中国の代表(蔣介石を想定)が参加していないことから、この協定は秘密とされた。

ヤルタ協定

1945年2月、ヤルタ会談によって成立した、アメリカ・イギリス・ソ連の三国首脳が合意した大戦後の国際体制構想。特にその中の「ソ連の対日参戦に関する協定」(秘密協定)をヤルタ協定とすることもある。

 ヤルタ会談で合意された内容は、最終日の1945年2月11日に発表された。その主要な4項目の合意事項は次の通りであるが、第4項は秘密協定とされ、4ヶ月後に公表された。ヤルタ会談の合意事項すべてをヤルタ協定とすることもあるが、日本では別個の秘密協定として締結された第4項(ソ連の対日戦参戦規定)のみを「ヤルタ協定」とする場合もある。
  1. 国際連合の設立:45年4月25日にサンフランシスコで国際会議を開催し憲章を決めること、安全保障理事会で大国の拒否権を認めること。(補足①)
  2. ドイツの戦後処理問題:ドイツの無条件降伏の確認、その戦後処理では米・英・ソ・仏の4ヶ国で分割管理すること、2年以内にその戦力排除と賠償取立てを決定すること、戦争責任者を処罰すること。 → ドイツ4カ国分割占領
  3. 東欧諸国問題:ポーランドの臨時政府を民主的基盤のうえに改造し、すみやかに自由選挙を行うこと、ドイツから解放された諸国に主権と自治を回復させ、民主的な政府を樹立させること。
  4. ソ連の対日参戦問題:ソ連はドイツの降伏後3ヶ月以内に対日参戦すること、その条件は南樺太及び千島列島のソ連帰属(→北方領土問題)、旅順租借権のソ連による回復、大連に関するソ連の優越的地位、南満州鉄道および中東鉄道(旧東清鉄道)経営へのソ連の参加権、外蒙古(モンゴル人民共和国)の現状維持など。この第4項は、秘密条項であった。(補足②) → 日本の無条件降伏
 この協定によって、米ソ2大国による世界支配という大戦後の「ヤルタ体制」が形成されたという大きな意義をもつ。
ウクライナとベラルーシの国連加盟 補足① ソ連は、拒否権問題でアメリカに全面的に妥協した見返りとして、国際連合にウクライナベラルーシ(当時は白ロシア)を加盟させることを要求した。この二国はソヴィエト社会主義共和国連邦に属しており主権国家としての条件は十分ではなかったが、イギリスもイギリス連邦自治領インドを加盟させるため同調し、ローズヴェルトも妥協した。
中国に関する秘密協定 補足② ヤルタ会談には中国(中華民国蔣介石)は招かれなかった。にもかかわらず、ヤルタ協定の秘密協定で、ソ連の旅順と大連の権益保障、満鉄線・東支鉄道への経営参加、外蒙古は現状維持(つまりモンゴル人民共和国を認めること)など、中国の主権を著しく侵害する内容が盛り込まれていた。これはソ連の参戦を促すためにローズヴェルトが妥協した結果であり、中国軍の日本に対する反撃が進んでいない以上、やむをえないという判断であったが、それを知った蔣介石は、中国の主権が取引材料にしたこの合意内容を「売華」「侮華」の密約と呼んで激怒した。しかし、米英ソ三大国との実力差から受け入れざるを得なかった。ソ連参戦後の8月14日(日本の無条件降伏表明の前日)には中ソ友好同盟条約を結び、ヤルタ密約を認める代わりに東北地方の主権、新疆の管理権の回復などをソ連に認めさせた。<石川禎浩『革命とナショナリズム』シリーズ中国近現代史③ 2010 岩波新書 p.222>

資料 ヤルタ協定(ソ連の対日参戦に関する協定)

 ソヴェト連邦、アメリカ合衆国およびイギリス三大国の指導者たちは、ドイツが降伏しヨーロッパにおける戦争が終結したのち、二ないし三ヶ月後にソヴェト連邦が以下の条件により連合国の側に立って対日戦争に参加すべきことに合意した。
第一条 外モンゴル(モンゴル人民共和国)の原状は維持される。
第二条 1904年の日本による背信的攻撃によって侵害された旧ロシアの諸権利は回復されなければならない。
(a)南サハリンおよび隣接島嶼はソヴェト連邦に返還されるべきである。
(b)大連商業港は国際化され、ソヴェト連邦の優越的な利益が保障され、旅順口の租借権がソヴェト社会主義共和国連邦の海軍基地として回復されなければならない。
(c)中東鉄道(東清鉄道)および大連への出口となる南満州鉄道は中ソ合弁の会社によって共同で運営されなければならない。その際、ソヴェト連邦の優越的な利益が保障され、中国が満州における完全な主権を享受することとする。
第三条 クリル諸島(千島列島)はソヴェト連邦に引き渡されなければならない。
外モンゴルおよび上記の諸港湾、鉄道に関する合意は蔣介石大元帥の合意を必要とする。合衆国大統領はスターリン元帥からの助言に基づいて同合意を得るための諸措置を講じる。
三大国首脳は、日本敗北後、ソヴェト連邦のこうした諸要求が確実に実行されるべきことに合意する。
ソヴェト連邦の側からは、中国を日本の支配から解放する目的で同国に軍事力による援助を提供するため、ソヴェト社会主義共和国連邦と中国の友好同盟条約を中国国民政府との間で締結する意向を表明する。
<歴史学研究会編『世界史史料』10 2006 岩波書店 p.399-400>
POINT  スターリンの領土的野心 この秘密協定で明らかなことは、対日戦に参加する条件としてあげた、ソ連の領土拡張要求である。樺太南部と千島列島(ここでは明確な線引きをせずクリル諸島としている)の回復だけでなく、大連・東清鉄道・南満州鉄道での優越権の保障、旅順の租借権の回復などは、かつての帝国主義国家と同じ領土的野心を隠していない。また、スターリンは中国での交渉相手を中国共産党の毛沢東ではなく、国民党政権の蔣介石としていることも注目できる。このような強引なスターリンの要求をF=ローズベルトが受け入れたのは、すでに病のため体力をなくしていた(4月死去)ことも理由と考えられるが、ドイツの降伏はまだであり、ソ連を参戦させるという大義を前に、妥協を止むなしと判断したためであろう。しかしながら、ソ連参戦が秘密協定だったことは(4ヶ月後に公表されたとはいえ)、かつてレーニンが第一次世界大戦中に出した平和についての布告で秘密外交の禁止という原則にも反しており、スターリン体制の覇権主義的体質が現れていると言わなければならない。

ヤルタ体制

ヤルタ会談での米英ソ三国首脳の合意であるヤルタ協定でつくられた、第二次世界大戦後の国際体制。1945年から冷戦終結の1989年までを言う。

 1945年2月の連合国首脳会談であるヤルタ会談で合意されたヤルタ協定によってつくりだされた、国際連合の枠の中での、アメリカ合衆国とソ連という二大国の力の均衡を前提とした国際秩序が生まれた。この、第二次世界大戦後の「冷戦」時代の国際秩序を、ヤルタ体制という。ナポレオン戦争後のウィーン体制、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制に倣ったものである。このヤルタ体制は、大きく変動しながら、枠組みそのものは1989年12月2日の米ソ首脳のマルタ会談による「冷戦終結宣言」まで続き、「ヤルタからマルタへ」と言われた。