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エドワード1世

13世紀末のイギリスのプランタジネット朝の国王。スコットランドとの戦費調達のため、模範議会を召集。ウェールズにも侵攻。身長が高く長脛王と言われた。

 イギリス(厳密にはイングランド王国の、プランタジネット朝ヘンリ3世の次の国王エドワード1世(在位1272~1307年)は、プランタジネット家のフランス貴族的要素を払拭してイギリス人として統治にあたった最初の国王と言える。彼は模範議会を召集するなど、貴族とも協調して法的な整備を行い、大ブリテン島の統一を目指してウェールズを制圧してケルト人をイギリスに組み込み、さらに北のスコットランド征服を試みた。 → イギリス

最初のイギリス的な国王

 ノルマン朝・プランタジネット朝の国王や貴族たちはノルマン人の子孫であったので宮廷ではフランス語を用いてきたが、エドワード1世は英語も自由に話すことができ、外国使節とも英語で応対した。すでにシモン=ド=モンフォールの時に公式文書は英語で書かれるようになっており、この頃には聖職者もラテン語と英語を用い、学校ではフランス語は教えられなくなったきた。エドワード1世は模範議会を召集しただけでなく、現在まで続く多くの法令を制定し、またウェールズとスコットランドの統合を試み、現在のイギリスの原型ができた時代であるといえる。
 彼は「イギリスのユスティニアヌス」と言われている。また、身長2mの大男だったので、長脛王(ロングシャンクス)というのがあだ名だった。しかし、映画『ブレイブハート』(1995年メル=ギブソン監督・主演)ではスコットランドの英雄ウィリアム=ウォリスと戦う、策略に長けた悪逆な王として描かれている。

ウェールズ侵攻

 ケルト人系のブリトゥン人の子孫の多いウェールズにはイングランドに対する反感が根強かった。13世紀までには各部族を統合したグウィネズ家が有力となり、ヘンリ3世から「ウェールズ大公(プリンスオブウェールズ)」の称号を得ていた。エドワード1世は宗主権をかかげてグウィネズ家に臣従礼をとることを求めたが、当主サヴェリンはそれを拒否したので、1277年にウェールズ遠征を実行、サヴェリンを降伏させ、州を置いて直接統治に乗り出した。
プリンス・オブ・ウェールズの起源 1282年、ウェールズの諸部族が反乱を起こすとエドワードは直ちに鎮圧し、ウェールズ併合を宣言するとともに長男のエドワードをウェールズ大公に任命した。現在でも、イギリス王室の皇太子のことをプリンス・オブ・ウェールズという。これは、エドワード1世が、ウェールズを併合した時、長男のエドワード(2世)にその称号を与え、ウェールズに対するイングランド王の権威を示したことに始まる。なおこのプリンスはローマのプリンケプスを語源とする「大公」の意味である。

Episode 赤ん坊のウェールズ大公

 1282年12月、ウェールズの反乱を鎮圧したエドワード1世長脛王は、自らウェールズ大公になることも考えたが、ウェールズ人の反発も考慮に入れなければならなかった。ウェールズの諸部族は、①ウェールズ生まれ、②英語を話さず、③生まれてから一度も罪を犯していない者、の三つの条件を満たせば自分たちの「大公(プリンス)」として受けいれると応えた。しばし熟考した長脛王は、「それでは1年後に集まるように」とだけ言って解散させた。1284年4月26日、カーナヴォン城に集まったウェールズ諸侯を前に、長脛王は「これがそなたたちの大公である」といいつつ、前日にこの城で生まれた自分の長子エドワードを紹介した。三条件を満たした赤ん坊の登場に、ウェールズ人はぐうの音も出なかったかもしれない。もっともその後も二度ほど反乱が起こったが、長脛王はいずれも鎮圧し、皇太子エドワードが17歳になった1301年、正式に「ウェールズ大公」(プリンスオブウェールズ)に叙任した。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.117>

スコットランドとの死闘

 この時代、イングランドをめぐる国際情勢には、フランスとスコットランドとの三角関係といえるものがあった。
 エドワード1世もまた、祖父ジョン、父ヘンリ3世と同じく大陸への出兵を行った。アキテーヌ(ギエンヌ)公として、唯一イングランド領として残っていた地方の南部のガスコーニュは豊かなワインの産地であったので、フランス王も併合の機会を狙っていた。エドワード1世はガスコーニュに出兵してそれに備えていたが、1294年フランスのフィリップ4世はアキテーヌ公領の没収を宣言し、軍を進め「ガスコーニュ戦争(またはギエンヌ戦争とも言う)」とも言われる英仏戦争が再発した。
 さらにそれまでイングランドに従っていたスコットランド王国がフランスと同盟したので、エドワード1世は翌年、スコットランドを急襲して、古来スコットランド王が戴冠の際に使っていた「スクーンの石」を没収し、ウェストミンスター修道院の「エドワード証聖王の椅子」の下にはめ込んでしまった。この暴挙に激怒したスコットランドの民衆は平民出身のウィリアム=ウォレスを指導者に立ち上がり、1297年のスターリングの戦いでイングランド軍を破った。大陸から急きょ戻ったエドワード1世は1298年7月にウォレス軍を鎮圧した。
 エドワード1世は1305年、ウォレスを処刑したが、すると翌年、スコットランド王家の血を引くロバート=ブルースがスコットランド国王と称してエドワードに挑戦、エドワードは再び北上して制圧に向かった。しかし遠征の途上、1307年に病死し、スコットランド制圧の戦いは未完に終わった。

模範議会の召集

 このスコットランド遠征の戦費としての増税を国家的に認めてもらうために、1295年模範議会を召集した。スコットランド征服は激しい抵抗を受け失敗したが、国内政治上では祖父のジョン王、父のヘンリ3世の失政を挽回し、議会の同意を得て種々の法を制定して王権を安定させることに成功した。 → イギリス議会制度
 実際にはエドワード1世は戦争の勝利を梃子に議会に妥協を迫り、議会はマグナ=カルタの規定を掲げて抵抗するという緊張関係が続いており、事実、1302~05年の間は議会が開催されなかった。この休会期間にエドワードはスコットランドの反乱の鎮圧に成功し、議会も率先して課税に応じるようになった。
(引用)このようなエドワード1世の苦悩は、当時のイングランド経済の実態をよく反映していた。「国王の直属封臣」などとは名ばかりで、イングランドの土地の四分の三は100の主要な教会・修道院と200人弱の世俗諸侯らによって支配されていたのである。しかも14世紀初頭に至っても、イングランドは相変わらずの農村社会だった。衣料・建設・鉱業・金属加工・塩業などの主要産業が現れるようにはなっていたが、経済の主力は農業や牧羊業であり、国王が「課税」対象として戦費を都合してもらえる相手は、議会構成員の大半を占める聖俗双方の地主貴族たちに変わりはなかったのである。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.115>
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君塚直隆
『物語イギリス史 上』
2015 中公新書