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ヘンリ3世

13世紀のイギリスプランタジネット朝の国王。シモン=ド=モンフォールの反乱が起き、王権制限が進み、議会制度が芽生えた。

 イギリス(厳密にはイングランド王国の、プランタジネット朝の国王でジョン王の子(在位1216~72年)。 → イギリス

初期議会の始まり

 1216年、父の死によってわずか9歳で即位。有力諸侯はたびたび諸侯会議を開催して王政を支え、戦費や王の借財返済のための増税を了解した。1225年の「諸侯大会議」はパーラメントと呼ばれ、カンタベリー大司教と司教11人、大修道院長20人、伯(アール)9人、諸侯(バロン)23名など65名が出席、これがイギリスの議会の原型となった。また諸侯大会議はウェストミンスターで開催されることが定着し、開催時期も年4回が定例となった。この初期議会が現在に続くイギリス議会制度の基礎となった。

大陸進出の失敗

 1232年、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、父のジョン王が失った領土の奪還をめざすようになり、その財源をめぐって、議会と対立が再燃することとなった。フランスに残るイギリス(イングランド)領はアキテーヌ地方南部のガスコーニュだけであったが、フランス王ルイ9世もその併合を狙っていた。ヘンリ3世はマグナ=カルタの規定を無視して軍役代納金などを諸侯に課し、1242年、ガスコーニュ遠征を強行した。しかしさしたる成果もなく、遠征は失敗した。
 さらにそのころ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と争っていたローマ教皇インノケンティウス4世が、ヘンリ3世を味方にするため、1252年、その次男のエドマンドをシチリア王国の王に推挙してきた。ヘンリ3世はシチリア島遠征をくわだて、島を支配するマンフレッド(フリードリヒ2世の私生児)と戦うための戦費調達を諸侯会議に諮った。しかし、有力諸侯は出兵を拒否し、シモン=ド=モンフォールを中心に1258年「オックスフォード条項」を提出、諸侯の政策決定への関与、公正な裁判などを要請した。
 ヘンリ3世は大陸遠征を継続できなくなり、1259年、フランス王ルイ9世と条約を結び、ノルマンディとアンジューなどフランス北西部への権利を放棄し、そのかわりアキテーヌ地方のガスコーニュのみを領有することで合意した。これによってヘンリ2世の1154年から続いたアンジュー帝国は消滅した。<君塚直隆『物語イギリス史上』2015 中公新書 p.100>

シモン=ド=モンフォールの反乱

 ヘンリ3世はこれらの対外政策を遂行するため、マグナ=カルタの規定を無視して諸侯に重税を課した。そのため貴族の反発が強まり、貴族は結束して課税を拒否し、シチリアへの出兵を拒否した。やむなくヘンリ3世は1258年「オックスフォード条項」(貴族の代表による国王の政治に対する監視機関の設置、議会の定期的開催など)を承認して妥協を図った。
 ヘンリ3世はまもなくそれを破棄し、ローマ教皇とフランス王ルイ9世の支持を取り付け、反国王派を排除しようとした。それに対して反国王派の貴族は、シモン=ド=モンフォールを中心にして、1264年5月に反乱を起こし、ヘンリ3世と皇太子エドワードらを捕虜にしてしまった。
モンフォール議会 シモン=ド=モンフォールは貴族・僧侶・各州の中小領主および都市の代表を召集して開設を解説することを要求、ヘンリ3世はそれを認め、モンフォール議会が1265年に召集された。
モンフォールの戦死 しかし、大貴族は必ずしもモンフォールを支持したわけではなかった。まもなく脱走した皇太子エドワードがシモン=ド=モンフォールと戦って勝ち、モンフォールも戦死して反乱は収束した。エドワードは1272年に即位してエドワード1世となり、祖父と父王の権威失墜を回復し、貴族との融和を図り模範議会を召集する。 → イギリス議会制度
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