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絹/絹織物

桑を餌に育てた蚕から採る生糸を織り上げたアジア特産の織物。古代から中国の特産としてシルクロードを通じ西方に運ばれた。

 蚕(かいこ)の繭(まゆ)から採る生糸を原料にした布が絹織物。中国の原産で、西洋では知られていなかったので、大変に珍重された。ヨーロッパで中国を「セレス」ともいうが、それは「絹の土地」という意味であった。中国では伝説では黄帝が養蚕と絹織物の技術を広めたとされ、殷の甲骨文字にも絹の字のもとになった文字が知られており、早くから生産されていたことがうかがえる。漢の時代にはオアシスの道で西アジア、地中海世界まで運ばれたので、そのルートを絹の道=シルクロードと言うようになった。オアシスの道のみではなく海の道でも陶磁器と並んで重要な商品であった。また銅銭の流通を補う物品貨幣としても用いられ、唐の絹馬貿易ではウイグルの馬と交換された。宋代には江南の開発が進むとともに絹織物・生糸の生産も増加し、輸出品として珍重され、1004年の澶淵の盟など、北方遊牧民との講和の際には銀とともに主要な贈答品となった。

漢代の絹織物

 絹織物は、黄河流域で発達し、とくに(山東省)のものが有名だった。絹織物の素地は黄や白で、涅(くろつち)や丹(たん)によって黒色や赤色に染めあげられることが多い。絹はカイコのつくる繊維であり、現在のカイコと同じく桑の葉を食べて成長し、繭(まゆ)を作る。野生の蚕も用いられたが家畜化されたカイコ(家蚕)が用いられた。カイコは卵→幼虫→サナキ→成虫(蛾)と変化し、幼虫は桑の葉を食べながら約25日間に四回脱皮し、そのうち約2日間で繭を作る。そして10~15日程度で成虫になる。当時は一化性(一年に一世代)が基本で、毎年旧暦4月頃に卵を産む。家々では卵を大切に保管し年越しするが、放っておくと旧暦1月頃に孵化してしまい、そのころは桑の葉がないので幼虫は死んでしまう。おそらく氷室で卵を冬眠状態にして孵化を遅らせていたと思われる。旧暦3月頃に孵化の準備をし、旧暦4月中旬~下旬に幼虫を育てて繭をつくらせ、10~12日程度で乾燥もしくは冷凍して、カラカラ音がするくらいになったら繭を煮る。湯の中で繭をこすると糸がほぐれるので、道具を使って糸繰りをする。繭一粒あたり約1300m(約2g)の生糸がとれる。織物1反(36cm×12m)をつくるのに、おおよそ繭2480粒、桑2.2gが必要である。真綿というのは汚れたり穴があいた繭を灰汁(アク)で煮てやわらかくしたもの。カイコの飼育には桑の葉が必要である。背の高い桑(高桑)でも、桑摘みは女性の仕事だった。夜になると女性は集まって機織りや糸繰りをしながら女だけのコミュニティをつくった。女性は13歳ぐらいから機織りをおぼえ、14歳ごろから桑摘みをはじめるのがふつうだった。<柿沼陽平『古代中国の24時間』2021 中公新書 p.185-187>

クワコからカイコへ

 桑やその原種である柘桑(はりぐわ)には、それを食べて育つクワコという種類の昆虫がいて、同じように卵→幼虫→さなぎ→蛾に形態を変えていくので、蚕の近縁の昆虫だと思われる。ただしこちらは人間が飼うことはできない。クワコを馴化(じゅんか。飼えるように)したのが蚕だと思われる。ではクワコの馴化は、いつどこで行われたのか。絹や絹織物は遺跡から出て来ることは少ないが、仰韶文化期には穴のあいた繭(さなぎを取り出したあとの状態) がみつかっている。その頃蚕が飼われていたとしても、馴化の時期はそれよりずっと古かったにちがいない。おそらく旧石器時代の周口店上洞人はすでに蚕を飼っていたと考えられる。糸と織物は残っていないが、頭にごく小さな糸穴をもつ骨製の細い縫針が出土している。現在は中国のいずれかで始まったことは確かだが、それが華中か四川か、あるいは多発的に始まったなど、いくつかの説がありまだ定説はない。<布目順郎『絹の東伝』1999 小学館ライブラリー p.135-149>
 中国最古、つまり世界最古の絹織物は、浙江省呉興で出土した経(たて)糸54本、緯(よこ)糸48本の布で、前2760±100年頃の良渚文化の時期にあたるが、起源はもっと遡るにちがいない。<布目『同上書』p.98 ただしこの情報は1999年のもの>

Episode クワコとカイコのちがい

 野生のクワコと人間が飼うカイコは遺伝子からみて近親であることはたしかだが、外見上には大きな違いがある。クワコには腹部の背面に大きな蛇の目の斑文があるが、カイコにはない。野生のクワコの蛇の目の斑文は鳥の襲撃から身を守るための擬態と思われる。しかし人間に室内で飼われるようになってから、擬態は必要なくなったので、斑文は消えてしまった。<布目順郎『同上書』 p.150-158>
 こう考えれば、クワコからカイコに馴化したのは相当前、おそらく千年単位でなく万年単位であっただろうと思われる。それだけカイコと人間の付き合いはながかったということだ。

明代の絹織物

天工開物・花機
『天工開物』の花機
 中国の農民は蚕の食料のを栽培し、家内労働で生糸を生産していたが、商品作物として桑が栽培され、絹織物が手工業として大規模に生産されるようになったのは明代からであった。宋応星の著した『天工開物』には、複雑な構造を持つ絹織物の織機である「花機」について、図入りで解説されている。
 明代にはとくに長江下流の杭州蘇州は、綿織物と並んで絹織物の産地として栄えるようになった。そのため、この蘇湖(江浙)地方は、穀物生産から桑畑や綿花畑に転換したので、穀物生産の中心地域は長江中流の湖広地方に移っていった。

中国産生糸の輸出

 おりから始まったヨーロッパとの貿易では生糸が主要な輸出品となった。16世紀後半から19世紀初頭のスペインによる太平洋のガレオン貿易では中国産の絹織物や陶磁器が、メキシコのアカプルコをに運ばれ、そこからヨーロッパにもたらされた。その代価としてメキシコ銀が大量に中国に流入することになった。

ローマ帝国と絹

 松や樫、トネリコの葉を食べる種類の蚕はアジアからヨーロッパまで普通に見られていたが、それらは人間が飼育することは難しかった。桑の葉を食べる蚕が飼育に最も適しているがその技術は、6世紀の東ローマ帝国ユスティニアヌス大帝の時代には中国だけに限定されていた。希少で優雅な贅沢品であった絹は初めは上流の女性だけの物であったが、エラガバルス帝(在位218-222、女装したことで知られる皇帝)のころにはローマや属州の富裕な市民に広がっていった。需要が増え、1ポンドの絹が純金12オンスにもなった。
 容量が小さい割に高価な商品は陸路の輸送の経費を支弁できたから、隊商たちは絹を求めてシルクロードとして知られるようになるルートでアジア大陸を横断し、中国に向かった。しかし絹を直接ローマ人に売り渡したのはアルメニアなどの市場で仕入れたペルシア商人であった。ササン朝ペルシアが支配できたのはオクソス川(現在のアムダリア川)までで、この川を越えて絹を仕入れてくるのはソグド人商人であった。ソグド人商人はサマルカンドやブハラを拠点にして、60日~100日の道を遊牧民の盗賊を避けながら旅をし、陝西の中国の都市まで出かけてる必要があった。
 危険で日数のかかる陸上ではなく、海の道も開かれていった。ギリシア人商人の船が紅海からインド洋を横断してセイロン島にいたり、ベンガル湾を渡ってスマトラ島・マレー半島まで行き来し、彼らはマラッカやアチェで中国商人から絹を手に入れるというインド洋交易圏も盛んになった。しかし、ローマ帝国の衰退とともに、海上貿易は衰えていった。<E.ギボン/朱牟田夏雄訳『ロータ帝国衰退史6』1996 ちくま学芸文庫 p.85-90>

ユスティニアヌス帝と絹

 東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝(在位527-565)は、この重要な商品である絹の輸入がササン朝ペルシアの支配下にあるペルシア商人の手に委ねられていることを覆したと考えていた。そのころセイロン島から南京に渡ったキリスト教宣教師から、中国での絹の生産についての報告を受けた。それによると今では絹は日常の衣類となり、蚕を飼い絹を作ることはかつては皇后の仕事とされていたが、絹の製法は民間にも広がり、無数の蚕が飼育されているということだった。養蚕の実際を子細に見た宣教師は、この短命な昆虫(蚕)を運び出すのは不可能だが、卵を持ち出せば遠隔な地域でも無数の幼虫を増殖することができると報告し、喜んだ大帝は彼らに蚕の卵を持ち帰ることを命じた。
(引用)再びシナに戻って嫉妬深い国民を騙して蚕の卵を中空の杖に隠して首尾良く持ち出し、シナ帝国のこの分捕り品を持って意気揚々と帰還したこの通商の使節の功績はまことに多大である。彼らの指示で卵は適当な季節に堆肥の人工熱で孵化され、桑の葉で飼われたその幼虫は無事に異境の地で育って繭を作った。種を残すために一定数の成虫が取り分けられ、幼虫の餌になる桑の木も植えられた。新しい企図に伴う間違いは経験と反省で是正され、次の時代になるとソグディアナの使節は、今ではローマ人も本場のシナの人びとに少しも劣らず養蚕と絹の製法に精通した事実を承認したし、それ以後近代ヨーロッパの工業がシナとコンスタンティノポリスの双方を凌いだことは周知のことである。<E.ギボン『ロータ帝国衰退史6』 p.92>

ヨーロッパの絹織物

 地中海世界では6世紀に東ローマ帝国のユスティニアヌスが養蚕を奨励したことが知られているが、本格的に広がったのは8世紀にイスラーム教徒がシチリア島に蚕や桑を持ち込み、絹が特産として貿易品とされるようになってからで、12世紀にイタリアやフランスのリヨンにも広がり、盛んに絹織物が生産されるようになった。

絹の東伝

カイコの来た道 日本では弥生時代前期末以降の遺跡から絹織物の断片が出土しているので、カイコを飼い絹を採ることが行われていた。それは中国の漢代にあたるので、広く捉えれば漢文化の日本列島への伝播の一つであった。それがどのようなルートであったかは、出土する絹糸の断面の数値分析などで行うが、時期によって異なっている。出土資料の増加によってさらに新説が出て来ると思われるが、現在の有力な説として、弥生前期末から中期前半には華中方面からもたらされた蚕が多く、中期中葉から後期前半後に朝鮮半島の楽浪方面からの要素が強まり、その後は中間的なものに変わるという説明がある。<布目『同上書』p.90 1999年刊>
雲南からの伝来の可能性 日本の弥生時代前期にあたる漢では、養蚕法を始め、桑種子や蚕種を国外へ持ち出すことは厳禁されていたから、困難であったにちがいない。1~2世紀の頃、中国の一君主の娘が西域の于闐(うてん、ホータン)国王のもとへ嫁するにあたり、蚕桑の種を持参するようにとの要望に応えるため、綿帽子の綿の中にそれらの種を隠して関所を通り抜けることに成功したという話があり、蚕・桑を持ち出すことが難しかったことがわかる。その点からすると、日本には山桑が自生した(魏志倭人伝にもも出て来る)ところに、漢民族以外の人びとが蚕と養蚕、絹織物の技術を伝えたことも考えられる。その候補には越族や苗族が上げられる。倭人は入れ墨をしていた(魏志倭人伝)がそれは越人の習俗だった。また絹織機には日本古来のものと雲南の苗族のものがよく似ているという。<布目『同上書』p.93-95>

日本の絹織物

 絹は人間が用いる繊維の中で最も細く、美しく染料に染まり、光沢も素晴らしい。かつ、細い繊維を束にしたときの強さや摩擦に対する抵抗力は、他の繊維に比べても高い。弥生時代の絹は、わが国独自の風格を備え、丈夫で軽く、ふっくらしていて素朴な美しさをもっていた。古墳時代の遺跡からも弥生時代の名残を留める絹織物が出土しており、中には絹と苧麻の交織もみられる。奈良時代には繭も大きくなり太い糸が撮れるようになったが、中国・唐代の方が太く、充実している。中国の絹織物の方がすぐれているのは、中世から江戸時代までも同じで、ながく日本は中国からの生糸(白糸)の輸入が続いた。<布目『同上書』p.130-131>
白糸の輸入 中世から江戸時代には日本の家内工業で中国から輸入した白糸を原料に絹織物を生産していたが、有名な西陣織などの原料は初めは南蛮貿易によってマカオから来るポルトガル商人、後には長崎に来る中国商人からの輸入に依存していた。またその対価として石見産のが用いられた。江戸幕府は生糸の輸入を糸割符制度で管理した。
生糸の輸出国へ 江戸中期から国産生糸の増産が盛んになり、特に幕末に外国貿易が始まった18世紀後半から、主要な日本の輸出品となった。開国後、開港場となった横浜には上州(群馬)・信州(長野)などの農村で生産される生糸が集められ、輸出港として急成長した。その後、養蚕は全国の農家が副業として行い、蚕の餌としての桑畑が急増した。八王子から生糸を横浜に運ぶルート(後の国鉄横浜線)は日本のシルクロードと言われた。幕末から明治に賭けて、生糸は日本の近代化を支えた最大の輸出品となった。

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