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白蓮教

民間に広がった浄土教系の仏教教団。元末に弥勒信仰と結びついて勢力を拡大し、紅巾の乱を起こした。明清では弾圧されたが清末には白蓮教徒が反乱を起こし、動乱の契機となった。

 白蓮教は仏教の一派で、起源は東晋の僧慧遠が402年に廬山の東林寺で門弟たちと結成した白蓮社にさかのぼる。唐代に善導によって大成され浄土宗として宗派となり、禅宗とともに盛んになった。宋代には読書人(士大夫などの知識人層)のなかの念仏結社が白蓮社と言われるようになった。南宋の頃から民衆に広がって有力な宗教結社となり、元のモンゴル人支配への不満のなかでさらに大きな勢力となった。

弥勒信仰と結びつく

 元朝の末期には浄土信仰と共に、弥勒仏の下生(弥勒仏が救世主として現世に現れること)を願う弥勒信仰(下生信仰)と結びつき、その勢力は黄河と淮河の流域を中心に、各地に拡大していった。
 本来、念仏を唱えて阿弥陀仏の浄土へ往生を願うのがその信仰であったが、やがて弥勒仏による救済を求める弥勒信仰を加え、唐代にはイランから伝わったマニ教(イランで起こり、中国に伝わり摩尼教、または明教と言われた)と混合して、世界は明と暗の二宗(根源)あって、明は善、暗は悪であり、弥勒仏が下生(現世に現れること)して明王が支配するようになれば明宗が暗宗にうち勝って極楽浄土が出現すると説くようになった。このような現世否定、来世願望の考え方は、現状に不満な民衆を引きつけ、大きな勢力となったので、南宋も元も危険な邪宗として取り締まりの対象となった。

紅巾の乱

 元末の1351年に起こった紅巾の乱を主導した韓山童韓林児は、自らを弥勒菩薩の化身と称して、その下生を実現することを掲げた。その動乱から台頭した朱元璋もはじめは白蓮教徒であったが、権力をにぎって明王朝を建てると、白蓮教を邪教として取り締まった。

清末の白蓮教徒の反乱

 次の清朝政権も白蓮教は取り締まりの対象となったがその信仰は民間に根強く残っていた。清朝の全盛期の18世紀にはその動きは見られなくなったが、乾隆帝の時代の人口急増、銀の流通による貧富の差の拡大、などの社会矛盾が表面化した1796年に、四川などの生産力の遅れた地域で白蓮教徒の乱を起こした。
 この反乱は漢人の地域有力者が結成した自衛団である団練の力によって抑えられたが、清朝末期の混乱の始まりとなった。その後も白蓮教徒はたびたび弾圧を受けながらも、中華民国時代の近年まで民間信仰として続いた。
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