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一世一元の制

明の洪武帝から始まる皇帝一代が一つの年号とする制度。

 年号(元号)は、漢の武帝紀元前140年に定めた建元元年に始まる。それ以後、各王朝の皇帝は、祥瑞(めでたいしるし)や天災を機会に年号を代えてきた(改元)。改元は皇帝は時間をも支配するという思想に基づき、皇帝だけの権限であった。
 1368年を建国した朱元璋は、洪武という年号を立て、皇帝一代一元として絶対に改元をしてはならないと定めた。皇帝は死後、廟号として太祖といわれるとともに、元号によって洪武帝と呼ぶ習慣ができた。これ以来明、清の皇帝はいずれも一世一元の制を守っていく。しかし、1911年の辛亥革命で清朝が倒されたことによって、皇帝もいなくなったので一世一元制は終わった。なお、中華民国は1912年1月1日の建国第一年を「民国元年」とする民国紀元が現在の台湾でも継承されている。中華人民共和国は年号制度を廃止し、西暦を用いている。

日本の元号制

 日本では1868年1月の王政復古宣言から明治維新が始まり、その際に一世一元となった。一世一元制はまさに皇帝の絶対権力の成立とともに始まったもので、中国の長い歴史の中で見れば、そう古いことではなかったが、日本は中国に倣ったわけである。1868年10月23日に慶応から明治に改め、同時に天皇一代は同じ元号を使うこととした。庶民は戊辰とか壬申とかのそれまでの干支を使っており、なかなか新元号に馴染まなかったようだが、明治政府は元号の普及に努め、1889年の大日本帝国憲法の制定と同時に皇室典範で元号を法制化した。1910年に韓国を併合し、韓国でも日本の年号が使われることとなった。
 日本が戦争に敗れたことによって大日本帝国憲法に代わって1946年11月3日、日本国憲法が公布され、皇室典範も改定されて元号の法的根拠は無くなったが、象徴天皇制の下で慣例として昭和の年号が使われ続けた。そのため元号法制定の動きが出て1979年に国会を通過し成立した。そこで元号は天皇の「皇位継承のあった場合に定める」となったため、一世一元の制が復活することとなった。アジアで元号を持つ国は日本だけとなった。
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