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北元

1368年、元が明に大都を追われた後、モンゴル高原に退いて立てたモンゴル人の国家。1388年にフビライの系統の大ハーンが殺害されて終わった。

 1368年、大都を放棄し、ついで上都(開平府)も軍に追われたの順帝(トゴン=テムル)は、モンゴル高原に退いた。その後、モンゴル人勢力は「北元」を称し、カラコルムを都に三代の「大元ハーン」が約20年存続する。

北元後のモンゴル人

 この時期は、まだ明の中国支配も完全なものではなく、北元はたびたび明を圧迫し、1372年には明の遠征軍を撃退するほどであった。しかし、部族対立や食糧不足などから次第に弱体化し、大ハーンのトクズ・テムルは1388年、明に対する攻勢をかけようとしたがかえって洪武帝の明軍の反撃に遭って敗北、内紛からモンゴル部族のアリクブカの子孫によって殺害されてしまった。アリクブカの子孫が大カーンを継承し、フビライの血統は絶えたので、それ以後のモンゴルを元の後継者とは認めず、韃靼と呼んだ。モンゴル高原にはその後もチンギス=ハンの後継者と称する大ハーンを頂くモンゴル民族の遊牧社会は継続した。

北元後のモンゴル人

 その後、モンゴル高原東部を支配したチンギス=ハン一族の後継を名のるモンゴル人は、明や清では「韃靼」と漢字表記され、一般にはタタール部と言われている(この語には注意が必要。詳しくは韃靼の項を参照)。それに対して、西部のモンゴル人の一部族であるオイラト部(漢字では「瓦刺」と表記する)が次第に有力となり、二つの勢力が抗争する形となる。
 この二勢力は時として南下して長城を越え、明との攻防を展開する。特に、オイラトのエセン=ハンは、1449年に土木の変で明の正統帝を捕らえ、北京に迫ったことで知られる。このようなモンゴル人の南下に対して、明は万里の長城を改修して防衛にあたった。
 しかし、女真の勢力が強大となり、1634年にモンゴル地方に及ぶと、その女真の立てたに服属することとなる。1368年の元の滅亡から、1634年までを「北元時代」ととらえる見方もある。<宮脇淳子『最後の遊牧帝国』講談社選書メチエ 1996>
 清の乾隆帝は、さらにモンゴル高原への進出を果たし、1757年に全モンゴルは清朝に征服され、その藩部の一つに組み込まれることとなった。
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