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モンゴル/モンゴル人

モンゴル高原で活動した遊牧民モンゴル人は、13世紀初めにチンギス=ハンがモンゴル帝国を建国。西アジア・ロシアから中央アジア、中国大陸をふくむ大帝国を建設した。帝国は元を宗主としてキプチャク、チャガタイ、イルの三ハン国で構成され、ユーラシアに交通網を敷いて支配した。14世紀には元が明に滅ぼされ、他のハン国もイスラーム化するなど変質してモンゴル人の支配は後退した。中国の明の時代にもしばしばその北辺を脅かしたが、清の時代にはその一部とされた。辛亥革命後に独立したが、1924年には外モンゴルに社会主義政権の人民共和国、内モンゴルは中国領に分断された。現在は前者は1992年に自由化してモンゴル国と改称、後者は依然として中国の自治区となっている。

モンゴル部からモンゴル民族へ

 現在では漢民族から見て北方民族の一つに含まれる、モンゴル高原(モンゴリア)で遊牧生活を送っていたアルタイ語系の騎馬遊牧民をモンゴル民族と称し、日本では蒙古と表記しているが、そのような「モンゴル民族」が成立したのは、13世紀の「モンゴル帝国」成立以降のことである。それ以前は北アジアの草原で活動する遊牧民族の一部族が「モンゴル部」と言われていたに過ぎなかった。同系列の遊牧民としては、古くは3~5世紀に活動した鮮卑(トルコ系説もあり)や柔然があげられる。唐代に蒙兀(もうこつ)として出てくる。彼らは6~9世紀には突厥ウイグルのトルコ系氏族の支配を受けていたが、10世紀には同系列の契丹(遼)が有力となった。12世紀ごろまでは多くの部族にわかれ、ケレイト部やタタール部などが有力であったが、13世紀初めに、その中のモンゴル部という小部族が有力となった。 → 現在のモンゴル国の地図

(1)モンゴル帝国(大モンゴル国)

チンギス=ハン

 1206年、モンゴル部のテムジンがそれらの部族を統合して、部族長会議であるクリルタイでモンゴル高原の全遊牧部族の君主であるハン(汗)の位に推戴されてチンギス=ハンとなり、モンゴル帝国(モンゴル=ウルス)を建国した。これ以来、同系列の遊牧民やそれに同化したトルコ系民族なども「モンゴル民族」に含まれるようになった。チンギス=ハンはウイグル文字を参考にしてモンゴル文字を制定した。

注意 モンゴルは民族名ではなく国名であること

 チンギス=ハンの国家の名は、「イエケ・モンゴル・ウルス」、つまり「大モンゴル国」である。この新国家に参加したすべての構成員たちは、たとえ出身・言語・容貌が違っても、みな”モンゴル”となった。この時モンゴルとは、まだ民族の名ではなく、あくまで国家の名称に過ぎない。一枚岩の”民族集団”とするのは誤解である。大モンゴル国家は、多種族混合のハイブリット集団であり、いくつかの一族ウルスを抱える多重構造の連合体として出発したのであった。<杉山正明『モンゴル帝国の興亡』1996 講談社現代新書 上 p.42-45>

モンゴル帝国のモンゴル民族

 チンギス=ハンから孫のフビライ=ハンの時期にかけて、13世紀のモンゴル帝国は急速に領土を拡大し、西アジア・ロシアから中国全体に及ぶ大帝国が形成され、モンゴル民族もその領域に拡大し支配層を形成していった。中国を支配したモンゴルは国号をとしたが、中国文化を取り入れることは少なく、征服王朝として支配した。元ではモンゴル人が支配層を形成し、西域出身者が色目人として経済活動などで重要な地位にあった。漢民族は旧金の支配下の漢人(女真人などを含む)・旧南宋支配下の南人に分けられて身分的に下位に置かれたが、厳密な階層を形成することはなく、漢民族も地主層として残り、漢文化の伝統が途絶えたわけではない。

モンゴル帝国のユーラシア支配

 モンゴル軍の旺盛な征服活動はチンギス=ハン以後も、西ではバトゥによる東ヨーロッパ、フラグによる西アジア遠征、東では元の遠征活動が日本列島、東南アジアの諸地域に及んだ。それぞれ大きな脅威となり恐れられたが、同時に交易圏の拡張という側面があった。
 モンゴル帝国(大モンゴル国)が成立したことによって、ユーラシア大陸の東西をむすぶ大交易圏が成立、陸上ではジャムチという駅伝制度が整備され、さらに大運河の建設、海の道とといわれる海路の盛況など、タタールの平和といわれた安定のもと、商業が発達した。その盛況はマルコ=ポーロイブン=バットゥータの旅行記に見ることができる。

モンゴル民族の宗教

 モンゴル民族は長くシャーマニズムに止まっていたが、宗教には寛大で、時代によって仏教やネストリウス派キリスト教、イスラーム教などの影響を受けた。特に中国を支配した元や、16世紀のモンゴル民族はチベット仏教を保護したことが注目できる。中央アジアのチャガタイ=ハン国、西アジアのイル=ハン国、南ロシアのキプチャク=ハン国ではそれぞれ先住民のトルコ系民族と同化が進み、またイスラーム化した。

元滅亡後のモンゴル民族

 1368年元の滅亡後は明によって圧迫され、その支配領域をモンゴル高原だけに限定された北元となる。モンゴル民族の国家が消滅したわけではないことに注意する。また元以外のハン国のモンゴル人は、次第に現地の民族と同化し、特にキプチャク=ハン国、チャガタイ=ハン国、イル=ハン国でいずれもイスラーム化が進み、変質していった。

その他のモンゴル系国家

 1370年ティムール朝を中央アジアに建国したティムールチャガタイ=ハン国のモンゴル系部族出身であった。ティムールはチンギス=ハンの直系であると称することによって権力の正統性を得ようとした。ティムール帝国を構成していた民族は、「トルコ化したモンゴル人」ということが出来る。
 また1526年に北インドにムガル帝国を建国したバーブルは、ティムールの5代の孫であり、チンギス=ハンの15代の孫であると称し、はじめ中央アジアのサマルカンド付近を根拠にしていたモンゴル系の民族が建てた国家である。ムガルというのもモンゴルから来た国号である。彼らは征服王朝としてインドを支配するうちに、インド人に同化していった。

(2)明・清時代のモンゴル

モンゴル帝国滅亡後のモンゴルとモンゴル人。中国本土に漢民族主体の明が成立すると次第に圧迫され、モンゴル高原に後退した。その後度々明の北辺を脅かし、一時は北京にも迫ったが、中国本土の支配を復活させることはなかった。女真人が中国本土を制圧、清を建国すると、度々征討を受け、藩部として服属することとなった。

明による征服

 中国における漢民族支配を回復した洪武帝は、さらにモンゴル高原の支配を目指し1388年北元を滅ぼした。その後、明で靖難の役の混乱が起こると、モンゴル人のタタール部とオイラト部の二部族が有力となり、再び中国の北辺を脅かすようになったので、中国の混乱を収めた永楽帝は、1410年からモンゴル遠征を開始、自ら軍を率いて、5回にわたる親征を行った。しかし永楽帝の遠征は外モンゴルの支配には至らず、モンゴルはなお勢力を維持することとなった。

オイラトとタタール

 15世紀中頃にはモンゴル民族の一部族であるオイラト部エセン=ハンが有力となり、明を圧迫した。エセン=ハンは1449年土木の変では明の正統帝を捕虜にしたが、北京攻略には失敗し、オイラト部は衰えた。
 ついで16世紀中頃には韃靼(タタール部)のダヤン=ハンがモンゴル民族を再び統一し、次のアルタン=ハンはたびたび明の領土を侵し、明にとって北虜南倭の北虜として恐れられた。
 しかし、17世紀になるとモンゴル高原の東方の森林地帯でツングース系の女真が次第に台頭してモンゴルにも脅威を与えるようになった。

清朝のモンゴル支配

 太宗ホンタイジ以来、モンゴル方面の攻略を進め、1634年に内モンゴルのチャハル部を征服、1691年までに外モンゴルまで勢力を伸ばした。17世紀には西モンゴルにオイラト系のジュンガルが有力となり、清の康煕帝は遠征軍を送ってそれを抑えようとした。18世紀に乾隆帝の攻勢を受け、1757年に全モンゴルは清朝に征服され、その藩部の一つに組み込まれることとなった。清朝はモンゴル王侯を通して政治・経済・文化の中国化を進め、またモンゴル人を八旗に組み込んで軍事力とした。またジュンガルに圧迫されて東モンゴルに移動したハルハ部も清朝に服属し、外モンゴルから内モンゴルに広がった。

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(3)モンゴル人民共和国

外モンゴルは辛亥革命の年、1911年に中国からの分離独立した。1917年にロシア革命がおきるとその影響を受け、モンゴル革命がおこり、1924年には2番目の社会主義国として人民共和国となった。その後一貫してソ連寄りの姿勢を続け、国内ではモンゴル人民革命党による一党独裁が続いた。この間、同じモンゴル人の居住する内モンゴルは中華民国、さらに中華人民共和国領にとどまり、現在は内モンゴル自治区となっている。

 1911年に辛亥革命で清朝が倒れると、北モンゴル(いわゆる外モンゴル)では、チベット仏教のラマ(高僧)を主権者とする国家の独立を宣言した。1915年には、中華民国政府から自治権を与えられた。

モンゴル革命

 その後ロシアの影響を受けるようになり、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起こり、ソヴィエト政権が成立したことはモンゴルにも大きな影響を与え、社会主義勢力がモンゴルに波及してモンゴル社会主義革命となった。1924年にチョイバルサンなどの社会主義者が指導するモンゴル人民革命党が政権を獲得して「モンゴル人民共和国」が成立した。これは、ロシアに次ぐ史上2番目の社会主義国であった。同じモンゴル人の居住地であるゴビ砂漠南部の南モンゴル(内モンゴル)にもその影響がおよんだが、その地は中国(中華民国)領にとどまった。

日本の侵出 ノモンハン事件

 モンゴル人民共和国は、アジアにおける社会主義国としてその後も続いたが、大陸に侵出した日本は、1931年の満州事変を機に、翌年3月、内モンゴルの東側に隣接して満州国を作ると、内モンゴルにも進出してその東半分を領有した。それによって社会主義国であるモンゴル人民共和国とその背後のソ連との関係は緊張し、関東軍は防衛線を拡張しようとしてたびたびモンゴル領内に侵攻すると、日本の関東軍とソ連・モンゴル連合軍は1939年5月、ノモンハン事件で衝突した。本格的な機械化部隊との戦闘となった関東軍が敗色が濃くなる中、第二次世界大戦勃発直前に停戦した。

戦後のモンゴル

第二次世界大戦後もソ連と中国の間に挟まれてたその位置から、中ソ対立時代には苦しい状況が続いたが、ほぼソ連寄りの立場を守った。

モンゴルの自由化

 ソ連のペレストロイカの動きに続き、1989年に始まった東欧社会主義圏の激動は、1991年のソ連解体にまで行き着いたが、モンゴルものその動きが波及し、同年にはモンゴルでも最初の自由選挙が行われ、早くも翌1992年に社会主義を放棄し、国名も「モンゴル国」と改称された。

現代のモンゴル人

 現在、モンゴル人とされるのは、広い意味でモンゴル語を話す人々のことである。モンゴル人はモンゴル国だけでなく、中国の内モンゴル(内蒙古)自治区、ロシアなどにひろく居住する。また、現在も日本の大相撲では多くのモンゴル人力士が活躍している。その草分けであった旭鷲山が大島部屋に入門したのは1991年、まさにモンゴルで自由選挙が行われた年である。 → モンゴル国の「モンゴル人力士登場の世界史的意義」参照。
 旭鷲山と共にそのとき日本に来た旭天鵬は日本に帰化し、いまや部屋持ちの親方である。その後、朝青龍・白鵬・日馬富士・鶴竜とモンゴル人横綱が続いた。彼らモンゴル人力士は民族的な意識が高く、いまでも毎年行われる藤沢巡業では、元の日本遠征(元寇)の時の使者として来日し、片瀬で鎌倉幕府によって処刑された杜世忠などのモンゴル使節の墓のある常立寺を参拝し、モンゴル人の英雄のしるしである青い布を五輪塔に掛けていく。もっとも朝青龍はその行事を時々サボったそうです。
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書籍案内
田中克彦『モンゴル』表紙
田中克彦
『モンゴル 民族と自由』
1992 岩波ライブラリー