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アラウンパヤー

1752年、ビルマにコンバウン朝(アラウンパヤー朝)を建国、1757年にはビルマの統一を実現、首都ヤンゴンを建設した。

 トゥングー朝滅亡後のビルマの混乱状態の中から、ビルマ人の「救世主」として現れたのがアラウンパヤーであった。彼は1752年に上ビルマ(イラワディ川上流)の村々を統合して挙兵しコンバウン朝を建て、下ビルマのモン人勢力を次々と撃破し、1757年にモン人の拠点ペグーを陥れ、ビルマの統一に成功した。このコンバウン朝はパガン朝トゥングー朝に次ぐビルマ史上、三度目の統一国家であった。コンバウン朝は彼の名からアラウンパヤー朝とも言われる。

勝利者アラウンパヤー

 アラウンパヤーはイラワディ川中流の右岸の故地コンバウン(そのころはシュエボウといわれた)に生まれ、自らはアウンゼーヤ(勝利者)と称した。1752年、下ビルマのモン人が、前年にタウングー朝を倒し、さらに北上してくると、周辺の64ヶ村をまとめてモン軍と戦い、さらに1年のあいだに古都アヴァをモン人から奪回して、勝利者であることを実証した。アラウンパヤーはコンバウンを都に新王朝を建て、南進して中部ビルマを平定した。

ヤンゴンの建設

ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ
(トリップアドバイザー提供)

 アラウンパヤーはペグー攻略の前の1754年、イラワディ川デルタ地帯の聖地ダゴンを占拠し、その地を、ヤンゴンと改称した。ヤンは「敵」を、ゴンは「撃滅する」といういみで、合わせて「敵を撃滅する」となるが、同時に「戦争の終わり」を意味していた。このヤンゴンは後にイギリス殖民地時代にその英語なまりでラングーンと言われるようになり、イギリスの拠点の一つとして繁栄した。その後も長くラングーンという英語表記が続いたが、1989年、ビルマの社会主義政権のもとで、正式にもとのヤンゴンに戻した。
シュエダゴン・パゴダ ダゴンには伝説によるとブッダから拝領した遺髪を、モン人の兄弟が宝石の器に収めて祀ったというシュエダゴン・パゴダがあった。はじめは15,6mほどしかなかったパゴダであったが、改築を重ねるうち、15世紀の終わりごろには今日見るような100mに近い高さのある建造物に成長した。アラウンパヤーはこの門前町ダゴンを城壁と環濠をめぐらした城塞都市に造り替えてモン人の襲撃に備えた。
 現在もヤンゴンの黄金に輝くシュエダゴン・パゴダには各地から仏教徒が参詣に集まり、歩みは途絶えていない。
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