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コンバウン朝

1752年、アラウンパヤーがビルマに建国した王朝。ビルマを統一し、タイに進出してアユタヤ朝を滅ぼすなど有力であった。19世紀にイギリス=ビルマ戦争を戦い、敗れてビルマはイギリスの植民地とされた。

 ビルマ人が18世紀後半に建てた統一王朝の一つ。1752年~1885年。アラウンパヤーがビルマ中部のコンバウンを都に建国したので、アラウンパヤー朝ともいう。コンバウン朝はビルマ(現ミャンマー)の歴史上、パガン朝タウングー朝に続いてビルマ人がビルマを統一した、三つめの王朝である。

アラウンパヤーによるビルマ統一

 タウングー朝では、イラワディ川中・上流のビルマ人と下流域の下ビルマのモン人の対立が続き混乱していた。1752年、モン人が反乱を起こしてタウングー朝を滅ぼし、さらに北上してくると、イラワディ川中流のビルマ人を結集したアラウンパヤーがモン軍の進撃を食い止め、同年に出身地コンバウンを都として、コンバウン朝を創建、1757年にモン人の拠るペグー(現在のバゴー)を陥れ、統一に成功した。  アラウンパヤーはこの間、聖地ダゴンを占拠した際、これをヤンゴン(英語表記でラングーン)と改称した。それは「敵の撃滅=戦争の終わり」を意味していた。

コンバウン朝の隆盛

 ビルマの王朝は常に東方に支配領域を拡張することに務め、たびたびタイへの侵攻を繰り返していた。コンバウン朝も3代目のシンビューシン王はタイ系のラーンサー王国(チェンマイ)、ラーンサン王国(ヴィエンチャン)に遠征、次の目標をアユタヤ朝に定め、北と南から兵を進めて挟撃し、ついに1767年にアユタヤの町を焼き討ちして破壊し、滅ぼした。このとき、数万のタイ人をビルマに連行して労働力として使役したという。
 このようなコンバウン朝の勢力拡大を以前から警戒した清の乾隆帝は、1769年には北方から侵攻してきた。清は雲南地方を併合して、雲南の兵を主力にビルマ遠征を行ったが、このときもコンバウン朝のビルマ軍は清を撃退した。清朝側は雲南の併合に成功し、朝貢を認めさせたので遠征は成功とされている。コンバウン軍は清軍との戦争のためにタイからは戦力を引き上げたので、タイでは1768年タークシンが立ってトンブリー朝を建てた。
 コンバウン朝の第6代のボードーパヤー王(在位1782~1819)は西側への拡張を試み、アラカン山脈を越えてアラカン地方を平定しビルマ領を最大にした。コンバウン朝ビルマの西方進出は、インド植民地支配を確立しようとしているイギリスに警戒心を抱かせた。

イギリス=ビルマ戦争

 19世紀にはビルマの西側に接するインドへの侵攻を開始した。そのころすでにイギリスは、隣接するインドのベンガル地方の植民地化を進めていたので、両者は利害が衝突、イギリスは植民地拡大の好機と捉えて、イギリス=ビルマ戦争が始まった。
  • 第1次 1824年~26年、ビルマのアッサム占領、ベンガル侵入に対し、イギリスのインド総督アマーストが宣戦布告。ビルマが敗れてアッサムなどの権利を放棄し、領地割譲と賠償金支払いに応じた。
  • 第2次 1852年、イギリスがラングーン港のイギリス船に対する課税を拒否したことに端を発し、イギリスがビルマを挑発して開戦、南部のペグーなど併合した。
  • 第3次 1885年~86年、ビルマがフランスと結ぼうとしたのをイギリスが阻止しようと開戦。ビルマは敗北し、85年にコンバウン朝は滅亡し、1886年1月1日にインド帝国の一州としてイギリス植民地に併合された。 → ビルマの植民地化
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