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フマーユーン

ムガル帝国の第2代皇帝。一時アフガン勢力にデリーを奪われ、イランに逃れた後に1555年に奪回した。

 ムガル帝国初代皇帝バーブルの跡を継いで、1530年にデリーで即位。ムガル帝国の支配力はまだ弱く、特にベンガル・ビハール地方のアフガン勢力が強大な敵対勢力であった。1539年と40年の戦いでフマーユーンは敗れ、デリーを放棄してシンド地方に逃れた。デリーにはアフガン系のスール朝が成立し、シェール=シャーがスルタンを称した。フマーユーンはシンドからイランに逃れ、サファヴィー朝のスルタンからシーア派の教義を受け入れることを条件に亡命を許された。1545年にシェール=シャーが暴発事故で急死し、スール朝が混乱した隙に、サファヴィー朝の軍事的支援を受けたフマーユーンはインド奪回に向かい、1555年にデリーを奪還した。こうしてインドでスール朝は滅び、ムガル朝が復活した。

Episode 皇帝の急死

 しかしその翌年、フマーユーンは礼拝の時を知らせるアザーンの声を聞いて、急いでモスクに向かおうとして、階段を踏み外して落ち、あっけなく死去してしまった。ムガル帝国は14歳のアクバル帝が第3代皇帝を継承した。<辛島昇編『南アジア史』新版世界各国史7 山川出版社 p.253>

世界遺産 フマーユーン廟

 デリーの郊外にあるフマーユーン廟(墓所)は1993年にユネスコの世界遺産に登録された。次のアクバル帝の時に建設されたもので、インドのイスラーム建築の代表的遺構、有名なタージ=マハルの原型となった建築様式と評価されている。庭園はイラン(ペルシア)風で、フマーユーンの妃がイラン出身であったことから、この廟もイラン人の建築家がたずさわっていることが伺われる。二重構造のドームを中心として四面にファザードを持っている。中央にフマーユーンの柩が安置されているが、実際の遺体はこの中にはなく、真下の地下深くに埋葬されている。このような仮の石室(模棺)を有する形式は中央アジアのトルコ系遊牧民の特徴であり、ムガル帝国の前身であるティムール帝国のティムールの墓などにも見られる。
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