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アウラングゼーブ

17世紀後半~18世紀初頭、ムガル帝国全盛期の皇帝。ヒンドゥー教徒との融和策を放棄し、地方の反乱が起こる。その死後、帝国の衰退が始まる。

 インドムガル帝国第6代皇帝(在位1658~1707年)。アウラングゼーブ帝は、熱心なスンナ派イスラーム信徒であったので、ムガル帝国のアクバル以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄、1679年ジズヤの復活、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。(ヒンドゥー教だけではなく、イスラーム教以外の宗教、仏教やジャイナ教も否定され、寺院が破壊されたり仏像が壊されたりした。)

地方の反乱

 そのため、各地で非ムスリムの反乱が起こったのでアウラングゼーブは軍隊を送って鎮圧、1681年には自ら南ンド遠征を行い、その領土を最大にまで拡大した。しかし、その強硬姿勢は非ムスリムの激しい反発を買い、デカンのマラーター王国、パンジャブのシク教などの勢力が一斉に反旗を翻した。1707年、デカン遠征の途中、アウラングゼーブ帝は89歳で没した。
 その死後は、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、各地の州太守(総督)は独立し、ラージプート諸王国(ヒンドゥー勢力)は次々と離反していった。また、農村には、ザミンダールといわれる徴税権を認められた地主層が農民を支配するようになった。18世紀のそのような状況の所に、イギリス・フランスの植民地侵略が始まる。

Episode 熾烈な後継者争いの勝者アウラングゼーブ

 1657年、父のシャー=ジャハーンが重病との報せが入ったとき、アウラングゼーブはデカン太守として都を離れていた。後継者争いは熾烈で、他の3人の兄弟の誰かがこのままでは皇帝になる。急遽都に戻ったアウラングゼーブは、ただちに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になった。すでに40歳に近かったという。このあたりの詳しい話が、当時ムガル王朝に医者として滞在していたフランス人のベルニエが著した『ムガル帝国誌』に詳しい。同書は、モンテスキューやマルクスなどが、アジアの専制国家を論じる際の材料とされたものだが、読み物としても実におもしろく、一読の価値がある。幸い、岩波文庫で訳出されている。<ベルニエ著・関美奈子訳『ムガル帝国誌』上下 岩波文庫 2001>