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インド航路の開拓

ポルトガルによって進められた東廻りでアフリカ南端を越え、インド洋を北上してインドに達する航路は、1498年、ヴァスコ=ダ=ガマ船団によって開拓された。

 ポルトガルの遠洋航海事業は、15世紀前半のエンリケ航海皇子の頃に始まり、15世紀末のジョアン2世(在位1481~95年)の時代にバルトロメウ=ディアス喜望峰に到達、インド航路の開拓の可能性が生まれ、次のマヌエル王のとき、1498年にヴァスコ=ダ=ガマカリカットに到達して達成された。これは大航海時代のヨーロッパとアジアの接触の始まりであった。
 以後、ポルトガルは毎年のように艦隊をインドに派遣し香辛料貿易を独占し、16世紀のリスボンの繁栄がもたらされた。ポルトガルのインド航路開拓にあたっては、アラビア海で活発に交易を行っていたムスリム商人と衝突が避けられなかった。1509年、ポルトガルはディウ沖の海戦でエジプトのマムルーク朝海軍を破り、アラビア海の制海権を獲得した。翌年、インドのゴアを占領、インド交易の拠点とした。ポルトガル本国でインド航路の起点となったのが首都のリスボンであり、16世紀には世界貿易の中心地として栄えた。

インド航路の中継地

 当時の航海技術では、インド航路には食料や飲料水を補給する寄港地が必要であった。アフリカの最南端、喜望峰の東方にポルトガルが築いた寄港地がケープ植民地であったが、その維持が困難であったため放棄してしまった。その後、1652年にオランダ東インド会社がこの地に上陸し、その後、19世紀にインド支配のための寄港地を求めたイギリスとの間でこの地をめぐって争いが続く。イギリスはナポレオン戦争のさなかの1806年にこの地を占領し、1814年のウィーン議定書で領有をみとめられ、ケープ植民地の経営を本格化させる。その結果、先に入植していたオランダ系のブール人を排除しようとして大きな問題となる。
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