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ケープ植民地

アフリカ大陸最南端の地。アジアへの中継地として重視され、15世紀末にポルトガルが最初に基地を設け、ついでオランダ人が1652年から入植、1814年にイギリスが植民地とした。帝国主義時代にイギリスは周辺に領土を広げ、1910年に南アフリカ連邦をつくった。1961年から南アフリカ共和国となっている。

 大航海時代の1488年にポルトガルバルトロメウ=ディアスがはじめてアフリカ大陸南端の喜望峰に到達し、次いで1498年にヴァスコ=ダ=ガマがインドのカリカットに到達して、インド航路が開拓された。ポルトガルはインドへの航路の中間点の喜望峰の近くに適地を見いだし、入植を開始した。しかしポルトガルはこの寄港地の維持に苦慮し、まもなく放棄した。1652年に、オランダがオランダ東インド会社への補給基地としてケープタウンを建設した。

オランダ人の入植

 1652年にケープタウンに入植した最初のオランダ人は、ヤン=ファン=リーベックというオランダ東インド会社員で、バタヴィアに勤務経験があり、アフリカ南端のケープタウンがオランダ本国とジャワ島のバタヴィアを結ぶ中継地として最適であると目をつけ、家族を含む80人でまず入植した。リーベックはケープ植民地(南アフリカ)に入植したオランダ人、つまり後にブール人(ボーア人)といわれる人々の先祖として、後の南ア共和国のアパルトヘイト時代には紙幣にもその肖像画が描かれていた。<宮本・松田編『新書アフリカ史』 p.355>
 17世紀末までに移住してきた入植者は600人程度であったが、ブールとはオランダ語で農民を意味しており、彼らの多くは貧しい農民であった。ボーア人は勤勉に努力しながら、現地のアフリカ人を制圧してゆき、彼らを奴隷として大農園経営を行うようになった。またケープタウン港は、オランダ船がジャワ島のバタヴィアや、日本の長崎との往復の貴重な補給地として重要な役割を果たしていた。

イギリスの植民地支配

 1806年、ナポレオン戦争の際に、イギリス軍がこの地を占拠、イギリス領に編入して植民地支配を始めた。1814年にウィーン会議の結果のウィーン議定書でイギリス領とされた。これ以後は「イギリス領ケープ植民地」という。
 ナポレオン戦争の時にケープタウンに上陸したイギリス人は約5000人であったが、19世紀中頃にイギリス人の入植者が増大し、オランダ系白人であるブール人を圧迫するようになった。特に植民地政府が英語を公用語として強要し、オランダ語から派生していた現地の言語アフリカーナー語の使用を禁止したこと、1834年から本国に準じて奴隷制度が廃止されたため、それまで彼らが経営していた大農園で黒人奴隷を使役できなくなったことが、彼らの不満となった。
 そのためにブール人は1830年代後半から40年代にかけて、北方に新天地を求めて移住するグレート=トレックを行い、トランスヴァール共和国オレンジ自由国を建設した。
 その後、支配者であるイギリスはオランダ系ブール人の両国の併合を狙い、1899年から南アフリカ戦争(ボーア戦争)という帝国主義的な侵略戦争を行い、1902年に征服し、植民地を拡大した。
 1910年にはケープ植民地・ナタール・トランスヴァール・オレンジの4州から構成する南アフリカ連邦を発足させ、イギリス帝国内の自治国とした。これによって植民地時代は終わった。 → 現在の南アフリカ共和国

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