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活版印刷術

活字による印刷術。ヨーロッパでは15世紀にグーテンベルクが実用化し、宗教改革などで急速に広がり、文化の様相を一変させた。

 活版印刷とは、金属活字とインク、それに、そして活字に付いたインクをうまく紙に刷る印刷機、の4つの条件が必要であるが、それらの条件のそろった活版印刷は15世紀にヨーロッパで始まった。 → 文字

先行した中国・朝鮮

 中国では木版印刷はすでに唐の時代に始まり、宋代に普及していたし、ローマでも金属に文字を刻んで布にすることが行われていたが、それらは活版印刷とは言えない。11世紀のの時代に活字印刷が始まったとされるが、材料は金属ではなかった。宋の活字印刷は、三大発明の一つの活版印刷の先駆とされているが、宋の活字印刷の技術がヨーロッパに直接的に伝わったものではなかった。
 13世紀の朝鮮の高麗で本格的な金属活字が作られたことが記録の上で確かめられている。実物として残る金属活字印刷による刊本として、現在知られている最古の物は、1377年に刊行された『直指心体要節』で、現在フランス国立図書館に保存されている。高麗では大蔵経という仏教経典を作るための木版印刷が盛んに行われたが、一般的な書物の発行のための活版印刷としては進歩しなかった。朝鮮王朝(李朝)では1403年に銅活字を作る鋳字所が設けられ、世宗の時代には多くの金属活字による書物の刊行が行われた。
 いずれにせよ、木版印刷と活字印刷は、中国と朝鮮がヨーロッパのグーテンベルクによる活版印刷の発明に先立っていた。しかし、中国・朝鮮の印刷術は、書物の大量生産による知識の大衆化には繋がらなかった。複雑で多量の漢字を活字化することが困難だったことが考えられる。それに対してグーテンベルクのアルファベットの金属活字は、印刷技術、インクの改良などと一体となった発明として、おりからの宗教改革と結びついて、印刷革命と言われる文化の転換をもたらすインパクトがあった。

グーテンベルクの発明

 活字を別々に作り、紙に刷るという技法がどのようにしてヨーロッパに伝えられたか、判っていない。中国に殿堂に行ったキリスト教宣教師が伝えたことはあり得るが、はっきりはしていない。金属製の活字を作り、枠に収めてインクをつけて紙に印刷するという現在の活版印刷を始めたのは、一般にドイツのグーテンベルクといわれている。それは1440年ごろと言われているが、正確な時期や彼の素性などは正確には解っていない。グーテンベルクは最初の発明でなかったかも知れないが、彼が改良した印刷機は大量な印刷を可能に、彼自身も印刷所を最初に経営しているので、活版印刷の創始者の栄誉を担っていると言っていいだろう。
(引用)1440年のグーテンベルクの活字と鋳型による鋳造方式、加圧式の印刷機の発明は、ある意味で知の一大革命でしょう。発展するにつれ、あらゆる社会階層の人たちに本が行きわたり、その速度も増しました。知的発見、コミュニケーション、思想の伝達・論争、学知の流布が活気を帯びるに至りました。<澤井繁男『ルネッサンス』2002 岩波ジュニア新書 p.151>

活版印刷の広がり

 グーテンベルクは、1455年ごろ、「グーテンベルク聖書」といわれる聖書を印刷、刊行した。しかしそのときすでにグーテンベルクとの訴訟に勝ったフストとその女婿シェッファーも印刷所を設置しており、出版はグーテンベルクの独占ではなくなっていた。彼が1467年頃に亡くなると、シェッファーの印刷所の方が盛んになっていた。マインツの印刷業は1462年、ある事件で急速に衰え、それを景気としてあたら良い技術が他の都市に広がっていった。ドイツではバンベルク、バーゼル、ケルン、ニュルンベルクなどに広がり、イタリアでも、ローマ、ヴェネツィアでも始まった。印刷業の普及は1470年代に加速度を加え、フランス、オランダ、スペイン、ハンガリー、ポーランド、イギリスに広がっていった。

印刷業の始まり

 印刷物はその初期においては、手写本の安価な代用物にすぎなかったが、次第に手写本に取って代わるようになった。それとともに、書物は商品となり、印刷部門と出版部門を分業化して企業化していった。印刷業の初期の企業で最大のものはニュルンベルクのアントン・コベルガーで、彼は1470年、30歳で企業を興し、1513年まで、24台の印刷機、100人以上の労働者、植字工、機械工、校正者、製本師、彩色工を擁し、ドイツだけでなく周辺諸国に販売店をおいた。このような企業としての出版業は初期においては自由に競争し、宗教改革と人文主義の隆盛にあわせて盛んになった。<以上、エリク・ド・グロリエ/大塚幸男訳『書物の歴史』初刊1954 文庫クセジュ1992 p.68-78 などによる>

写本時代から活字本時代へ

 ヨーロッパでは活版印刷の前の書籍の発行は写本によって行われていた。8世紀ごろから修道院に写本室が設けられ、写字生によってラテン語の聖書などが写本として作られるようになった。13世紀ごろから大学が設立されてからは付属の図書館の需要によって写本が修道院ではなく専門業者(書籍業)の手によって作られ、多くの職人が働き書写、彩飾、製本などの分業が行われていた。この頃はラテン語だけでなくギリシャ語の書物も多数出版された。
 注意すべきはルネサンス初期の14世紀、ダンテやペトラルカ、ボッカチオらの時期はまだ活版印刷前の写本時代だったことである。また15世紀後半の活版印刷時代になっても、16世紀前半までは写本の需要も多く、一気に活版印刷に転換したのではない。
 グーテンベルクが活版印刷を発明したのが1440年であるが、ヨーロッパでの活版印刷所のある都市の数は1470年までに約19都市であったものが、1500年までには約255都市に増えている。活版印刷による書物の刊行が普及したのは1500年以降のことで、それまでは美しさの点では手写本に勝てず、写本の需要は減らず、写本筆写者の仕事も減らなかった。書名(タイトル)を美しい手書きで描いた表紙を付けるのが普通であったが、1520年をすぎると表紙も活版印刷で書名、著者名、印刷所マーク、内容紹介、献呈者名、出版者名、出版年が印刷され、目次や挿画も加えられるようになった。現在の書物の原型が出来たのはこの頃である。<澤井繁男『ルネッサンス』2002 岩波ジュニア新書 p.142-156>

活版印刷術の意義

 活版印刷術の発明は、ルネサンスでの人文主義の興隆と同時代であり、文化史上の重要な出来事であったが、それに留まらず、この技術を使って出版された新約聖書の普及はルターの宗教改革を支えた最大の武器であった。それまで修道院の聖職者によって書写されていたラテン語の聖書が、ドイツ語され、安価な価格で民衆も読めるようになったのだった。またルターは自分の著作を印刷することによって、その主張を民衆に広げることに成功した。
 活版印刷はその後急速に普及し、出版・新聞などの普及をもたらす大きな「情報革命」となった。近代文明は活版印刷によってもたらされたと言っても過言ではない。ところが、20世紀末に急速に普及したコンピューターとインターネットによって、情報媒体として活字利用が後退し、人類は第二の「情報革命」に突入している。 → 関連サイト 印刷博物館 東京小石川にあります。

参考 活版印刷術の日本への渡来

 1579年にゴアのインド総督から日本に派遣された巡察使ヴァリニャーノは、日本での布教の推進のために、セミナリオ(教会学校)とコレジオ(宣教師育成のための新学校)の建設を目指し、そこで必要な書物を印刷するために必要なグーテンベルク式の活版印刷機を始めて日本にもたらした。この印刷所で日本最初の甲板印刷本が三十数種出されており、世界の稀覯(きこう)本となっており、日本の書物と出版の歴史に大きく貢献している。しかし、カブラルら日本に先着していた宣教師たちは、ヴァリニャーノのやりかたは日本の実情に合わない無駄遣いだと批判的であったため、印刷所は財政難を理由に閉鎖されてしまう。そのまま存続していても江戸幕府の禁教令によって破壊されたであろう。天草の河内浦にある天草コレジョ館にはこの日本最初の活版印刷機が復元されている。ヴァリニャーノは天正遣欧使節をローマ教皇のもとに派遣することを計画、実行した人物である。<若桑みどり『クワトロ・ラガッツィ』上 2003 集英社文庫>
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書籍案内

エリク・ド・グロリエ
/大塚幸男訳
『書物の歴史』初刊 1954
文庫クセジュ 1992

若桑みどり
『クワトロ・ラガッツィ
―天正少年使節と世界帝国』
2008 集英社文庫

澤井繁男
『ルネッサンス』
2002 岩波ジュニア新書