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(1)朝鮮王朝

1392年に李成桂がひらいた朝鮮の統一王朝。訓民正音など独自の文化を発展させた。16世紀末には豊臣秀吉軍の侵入を受けて国土が荒廃、さらに北方を清朝に脅かされ、1637年からは事実上その属国となった。

 朝鮮において、1392年李成桂によって始められた王朝。高麗倭寇に苦しんで衰退する中、倭寇の撃退に成功した李成桂が高麗に代わり建国した。その後日本に併合される1910年まで存続した(1897年、国号を大韓帝国に変える)。都は漢城(現在のソウル)。 → (2)朝鮮王朝  (3)朝鮮王朝の危機  (4)帝国主義下の朝鮮

注意 李氏朝鮮とはいわない

 朝鮮王朝は、李成桂が建国し、李氏が王位を継承した王朝なので日本では李氏朝鮮(または李朝)という言い方をするが、韓国ではそのような言い方はされず、現在は日本でも李氏朝鮮と言う用語は使用しない。李成桂の立てた国の名称は、「朝鮮」そのものであり、この王朝でしか使われていないから、わざわざ「李氏」をつける必要はない。古代の朝鮮を区別して言う場合には「古朝鮮」という。「李朝」は文化史などでは現在もよく使われているが、世界史上ではベトナムの李朝もあるので、混同しないようにしよう。

15~16世紀 世宗の全盛期と士禍

 朝鮮は、第3代太宗の時の1403年永楽帝から冊封をうけて朝鮮王国として承認された。日本とは1443年に室町幕府との間で癸亥約条(嘉吉条約)を結んで、通商関係を定め、東アジアの国際的地位を安定させた。15世紀には世宗のもとで安定し、文化が開花し、訓民正音が作られ、1446年に公布された。また金属活字による活字印刷が盛んに行われた。
 また明から伝えられた朱子学は、世襲官僚である両班の政治理念、生活規範として受容され、高麗王朝の仏教に代わって、李朝では儒教が国家の理念として重んじられることになった。16世紀には朝鮮の儒教李退渓李栗谷などの大家が現れ、もっとも盛んであった。その一方で、16世紀には、両班のなかに首都の漢城に居住し大官の地位を占める建国以来の功臣の一族である勲旧派と、地方を基盤とした在郷両班である士林の二派に分かれ、特に権力を握る勲旧派による新興勢力である士林派に対する弾圧事件が続き、それを士禍という。

壬辰・丁酉の倭乱

 15世紀には日本とも積極的に日朝貿易を展開したが、16世紀には再び倭寇の動きが活発となって海岸地方を脅かすようになった。16世紀末には日本の豊臣秀吉の侵略(朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という)が起こった。1592年に侵攻を開始した倭軍は、都の漢城を陥落させ、さらに平壌を占領した。朝鮮は明の援軍を受け、平壌を奪回し、李舜臣の率いる水軍が各地で勝利して倭軍の補給路を遮断した。戦争は長期化し、一旦講和が成立したが、倭軍は1597年に再び侵攻し、今度は朝鮮南部で激しい攻防が繰り広げられた。その間、倭軍による略奪、破壊、さらに撤退する明軍による暴行などもあり、朝鮮の国土は荒廃した。1598年、豊臣秀吉が死去したため、倭軍は撤退を開始し、年末までにようやく戦闘が終わった。
 この戦争で朝鮮は国土の荒廃、人口の減少に留まらず、多くの陶工や活版工、織工が拉致され、また儒者も捕虜となって日本に連行され、生産力・文化面でも大きな打撃を受けた。朝鮮王朝政府は支配体制を再建するために儒教道徳による人心の安定をめざして、規律を強めた。

朝鮮王朝の文化

 朝鮮(李朝)を代表する文化的な遺産は、何と言っても世宗の時に制定された訓民正音をあげなければならない。漢字文化圏にありながら、朝鮮王朝政権が短期間に独自の文字を作り上げたことは、特筆に値する。また高麗が仏教を保護したのに対して、朝鮮王朝は儒教を国教として重んじ、李退渓李栗谷などを産み、独自の発展をとげてその社会に深く根を下ろしたが、反面、朝鮮の近代化を疎外する面も強かった。彼ら両班の文化を支えていたのが、高麗から続く活字印刷の技術だった。13世紀に始まった金属活字は朝鮮王朝時代の1403年には鋳字所が設けられて盛んに作られ、世宗の時には多くの実用書が刊行されている。
 美術・工芸の分野では、陶磁器が高麗の高麗青磁に代わって、明の正当技術の影響を受けながら、白磁の製造で独自の文化を高めた。李朝の陶磁器は日本にも輸出され、室町から安土桃山時代の茶道の流行のなかで、茶人に珍重された。そして16世紀末の豊臣秀吉の侵略の際に、多くの陶工が日本に連れ去られ、有田焼・萩焼・薩摩焼などが起こった。また儒者の姜沆(カンハン)は捕虜として日本に連れ去られ、日本の朱子学者に大きな影響を与えた。

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(2)朝鮮王朝

17世紀に、北方に興った女真の侵攻を受け、清朝が成立すると、1637年に敗れ、事実上その属国となった。18世紀まで両班内部の党争が続き、国力は衰えるも、独自の文化を形成していった。

 17世紀には、東アジア全体で大きな変化が生じた。中国では明が衰え、その東北で朝鮮とも接する満州地方で女真が台頭、李氏朝鮮をも脅かすようになる。日本では江戸幕府が成立し、朝鮮王朝との交渉が始まる。その間、朝鮮王朝では王権をめぐって両班層の有力氏族が対立する党争が続いた。

17~18世紀 清の属国化と鎖国

 満州で女真ホンタイジが後金を建国すると、朝鮮に対して服属を要求、朝鮮が親明の立場をとると、1627年に侵攻してきた。これは丁卯胡乱という。さらに国号をに改めてからも臣従を強要し、朝鮮がそれを拒否すると、1637年に大軍を以て侵攻した。こちらは丙子胡乱という。時の仁祖は漢城の南の南漢山城に拠って抵抗したが、翌年降伏し、清を宗主国として従属することとなった。
燕行使と朝鮮通信使 朝鮮はそれ以後、毎年、清朝に朝貢のための使節として燕行使を派遣することを義務づけられた。しかし、朝鮮の両班層は非漢民族王朝である清に対しては政治的・外交的には従ったが、文化面では明の正統的な文化を継承しているという自負を持っており、小中華思想ともいうべき意識を持ち続けていた。一方、日本との間では徳川氏の江戸幕府が国交回復に転じたため、朝鮮通信使をほぼ将軍の代替わりごとに派遣し、鎖国時代の日本に文化的な刺激を与えた。

党争

 かつては士林といわれ、保守派から弾圧された改革派の世襲官僚(両班)は、朝鮮王朝の整備が進む中で次第に優勢となり、政権の中枢を占めるようになった。しかし16世紀後半になると血統で結びついた党派が形成され、中央政界では派閥を形成して争うようになった。一般に党争とは、官僚が1575年に、東人(改革派)と西人(保守派)の二派に分れて論争し、政権を争うようになってからをいう。東人はさらに西人への対応のちがいから穏健派の南人と強硬派の北人に分裂した。(東西南北とは彼らの都ソウルの中での拠点のちがいから分けられた。)
 16世紀末から17世紀初頭の壬辰・丁酉の倭乱女真の侵攻という危機を乗り切った後、朝鮮の儒教の小中華思想という独自の価値観が形成される中で、より厳格に儒教理念を高めようとする保守派と、清や江戸幕府との交流の中から新しい理念を得ようとする革新派が次第に形成されるようになり、1683年に保守派の老論と革新派の少論に分裂した。こうして両班・知識人が老論・少論・南人・北人の「四色(サセク)」という4党派のいずれかに属する状態となった。その中でほぼ一貫して優位を保ち、政権にあったのは、保守強硬派の老論であった。老論の中心にあった安東金氏は1800年に即位した純宗の外戚として政治の実権を握った。
 この17~18世紀まで続いた有力両班層の政治的なあらそいである党争は、表面的には儒教の理念をめぐる学派争いと結びついていたが、その実体は、王位継承で優位な立場を狙う権力闘争であった。そのような不毛な議論と抗争を続けている間に、朝鮮王朝の国力は衰退し、また19世紀に顕著になる欧米、さらに隣国日本の朝鮮への侵攻という新たな動くに対応できなかった背景、要因となっている。

英祖と正祖

 党争が続いた朝鮮王朝中期に、王権の強化に努めた国王として英祖(在位1724年~76年)がいる。彼は保守強硬派の老論のバックアップで即位したが、党争の弊害を除くために蕩平策をとり、主要ポストを老論と対立する党派から同数を登用し互いに牽制させようとした。また学問を好み朱子学を学び、税制の改革、法典の整備に努めた。また民が王宮の太鼓を叩き、それを聞いた王に直接訴えることができるという申聞鼓を復活させ、朝鮮通信使が日本から持ち帰ったサツマイモを救荒作物として奨励した。印刷術が改良され、おびただしい書物が刊行されたのも、英祖と次の正祖の時代であった。

Episode トンイの息子とその晩年

 2003年の『冬のソナタ』、翌年の『チャングムの誓い』は日本で大ヒットし一気に韓流ブームが起こった。韓国ドラマには歴史物も多く、特に朝鮮王朝の王を主人公とする作品が次々と現れ、観た人も多いと思われる。その多くは荒唐無稽であるが、われわれに朝鮮王朝の歴史を身近に感じさせるようになったことは確かだ。その中で2011年に始まった『トンイ』が話題となった。この主人公のトンイは賎民の解放を目指す秘密結社「剣契(コムゲ)」の首領の一人娘で、捕吏の手を逃れるために王宮に潜り込んで女官となり、さらには王の寵愛を受けるという話だった。話は創作だが、主人公トンイ(崔同伊)は実在の人物で、朝鮮王朝第21代英祖の実母である。英祖は王朝中期の英主として知られることになった。
 ところが英祖の晩年には悲劇が待ち構えていた。健康が思わしくない英祖は15歳になった王世子に代理聴政をさせたが、この王世子が老論の専横をおさえるため反対党の人士を登用しようとした。反発した老論は英祖の継后の貞純王后を抱き込み、王世子が謀叛を企てていると讒訴した。それを信じた英祖は、なんと王世子を米櫃に閉じ込めて餓死させてしまった。後に英祖は王世子を死に至らしめたことを後悔し、思悼世子と諡(いみな)した。さらに後に思悼世子の子が正祖として即位すると父に荘献世子という諡号を贈った。<金重明『物語朝鮮王朝の滅亡』2013 岩波新書 p.6-7>
正祖と華城建設 1776年(アメリカ独立宣言の年)、52年という朝鮮王朝で最も長く在位し、中興の名君と言われた英祖は永眠し、思悼世子の子が正祖として即位。正祖はわが父を死に追いやった老論を抑えるため、英祖の蕩平策を徹底し、王権を強化するために親衛隊として壮勇営を創設し、地方官の不正を糺す秘密の監察官として暗行御史(アメンオサ)を地方に派遣した。24年に及んだ正祖の治世は朝鮮王朝最後の光芒といえる繁栄をみせた。この時代、形骸化した朱子学を批判し、現実に根ざした経世済民の額を目指す実学が興った。実学者は進んで西欧の知識を取り入れようとして、キリスト教にも近づいた。正祖は実学者の丁若鏞(ていじゃくよう)らを抜擢し、非業の死をとげた父(荘献世子)の陵として華城の建設にあたらせた。
 なお、正祖は韓国の歴史ドラマで日本でもテレビ放映された『イ・サン』のモデルとなった王である。

世界遺産 水原華城

 ソウルの南の水原に建設された華城は、1794年に着工し、96年に竣工した。述べ37万人を動員したが正祖はそれを賦役によらず、すべて賃金を支払って動員し、完成させた。総延長5㎞の城壁に囲まれ、楼閣・塔・城門を備えた軍事的要塞を兼ね、学術・農業・商業の中心としての機能も持つ理想都市として建設された。この水原華城は、1950年からの朝鮮戦争で破壊されたが、現在は復興され、1997年に世界遺産に登録された。 → 世界遺産 韓国 華城

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(3)朝鮮王朝の危機

19世紀、朝鮮王朝の内部では、有力な外戚による勢道政治が行われ、矛盾が深まる中で民衆反乱が相次ぎ、キリスト教や実学の取り締まりなど社会不安が進行した。くわえて欧米による開国要求の外圧が強まったが大院君政権は攘夷を実行して撃退した。1873年に高宗が親政を開始、それを支える閔氏が政権に加わると、1876年に日本の圧力によって日清修好条規を締結、開国策に転じた。開国による混乱の中で1882年に起こった壬午軍乱に介入して鎮圧した清が宗主権を強化したのに対して、宮廷内で成長した急進的な開化派が1884年に甲申事変を起こしたが、それも清によって抑えられた。

勢道政治と民乱

 朝鮮王朝末期の19世紀、政治は国王の外戚が実権を握り、政権を私物化するという状態となった。このことを勢道(せど)政治といっている。もともとかつての士林が公論に基づく政治を世道政治と言っていたが、有力者に政治が左右されようになると、「世道」は政権の最高実力者を意味するようになり、「勢道」とも書かれるようになって国王の外戚が権勢をふるうことを意味するようになった。
 1800年、正祖が急死(毒殺の噂もあった)したためわずか11歳の純祖が即位すると、勢いを復活させた老論の代表的存在の安東金氏(安東を本貫とした金氏一族)が外戚(王妃の出身士族)として政権を握った。この安東金氏はその後二代にわたって王妃を出し、絶大な権力をにぎった。この勢道政治のもとで国王は単なる飾り物となり、朝廷には不正と贈収賄が横行した。
キリスト教・実学の弾圧と民乱 権力を回復した保守強硬派である老論の重臣は正祖の進めていた改革をすべて中止し、キリスト教(天主教)の弾圧、実学の取り締まりを行い丁若鏞らを逮捕した。また、税収は国庫に入らず安東金氏のような有力者の懐に入っていったため財政難は解決せず、その矛盾は民衆に対する課税の強化となったため、反発した民衆はたびたび反乱を起こした。それは民乱といわれ、1811年洪景来の乱以来、何度も起こった。1862年には最大の民乱といわれる壬戌民乱が南部一帯で起こった。これらはいずれも鎮圧されたが、徐々にそのエネルギーは高まっていったと言える。1860年には、慶州で崔済愚東学という民間宗教団体を組織し、後の1894年の甲午農民戦争へとつながっていく。19世紀は民乱の時代とも言われる。

大院君の内政と外交

 1863年12月に朝鮮王朝の大きな転換期が訪れた。国王に高宗が即位し、政治の実権を国王の実父の大院君が握り、改革を開始した。その内政は勢道政治の弊害を改めることをかかげ、重税の緩和や商工業の保護など、民乱の原因となっていた政治の腐敗をただす姿勢を見せたので、中流の両班や下層民の一定の支持をえた。
 大院君の統治で最も特徴的なことは衛正斥邪の思想による強硬な排外政策をとったことである。キリスト教を弾圧し、アメリカ・イギリス・フランスの侵略に対しては激しく抵抗して攘夷を実行し、外国勢力を次々と撃退させた。この1863~73年の大院君時代は、隣国の日本においても開国か攘夷かで大きく動揺しながら、明治維新の転換期を迎えていた。
激しい攘夷 大院君の統治で世界史的に注目されるのはその積極的な対外強硬策である。1866年2月、キリスト教弾圧を行いフランス人宣教師を処刑した事に対して9月以降、フランス艦隊が謝罪と開国を要求して江華島に来寇した。大院君に交渉を拒否されたフランス軍は江華島に上陸、江華府(朝鮮王朝の臨時の都)の文化財を略奪するなどの乱暴を働いたが、朝鮮側は虎猟の名人などの活躍でフランス軍を撃退した(丙寅洋擾)。その間、1866年9月2日には大同江に侵入したアメリカ船が民衆の反撃に遭って焼き打ちされ、全滅するというシャーマン号事件も起きた。
 1871年には、アメリカ艦隊がシャーマン号事件の謝罪と通商条約締結を要求して来寇した。アメリカ艦隊が江華島海峡から漢江に入り漢城に迫ったのに対し、朝鮮軍は砲撃を加え、砲台占拠を目指して上陸したアメリカ兵と白兵戦を展開し、7月3日までに撤退させた(辛未洋擾)。
 大院君はこの1866年の丙寅洋擾、71年の辛未洋擾でフランス、アメリカの軍事侵攻を撃退することに成功し、漢城と主な都市に「斥和碑」という石碑を建て、その勝利を誇り、攘夷の正当性を訴えた。しかし、国際情勢は次第に朝鮮の開国を現実のものとして迫ってきた。すでに1860年の北京条約で清から沿海州を獲得したロシアは、朝鮮と北東で国境を接することとなり、さらに半島への進出を図るようになってきた。

大院君の引退と朝鮮の開国

 1873年高宗が成人に達してことによって大院君は引退した。高宗は親政を開始し王妃の閔妃の一族が要職に登用される勢道政治が復活した。そのころすでにいち早く明治維新を成し遂げ、近代国家の体裁をとった隣国の日本の明治政府は、1875年に軍艦を江華島を派遣して強制測量を実行した。それに対して朝鮮側が発砲して江華島事件が起きると、明治政府は軍事的な圧力を加え、1876年日朝修好条規を締結して朝鮮の開国を強要した。
日朝修好条規 日朝修好条規(江華条約)の内容は、第一項で「朝鮮は自主の邦」と明記したものの、日本の治外法権が認められたこと、関税自主権もない(関税の規定そのものがなかった)という日本にとって有利な不平等条約であった。かつて日本がアメリカ・イギリスなど西欧諸国と結んだ不平等条約を裏返しにして朝鮮に押しつけた、ということになる。開国に伴い、釜山・元山・仁川の三市が開港することになり、日本はイギリス製綿布を中継貿易で売り込み、朝鮮からは主に米、金地金が日本に入った。そのため、朝鮮では米が不足するようになって米価が高騰し、1880~90年代の農民反乱の背景となっていく。
開化派の台頭 日本との国交が開始され、かつての朝鮮通信使に代わり、朝鮮修信使が派遣されると、日本の近代化の状況が知られるようになり、修信使の一人だった金弘集や、名門出身の金玉均・朴泳孝などの若手官僚の中に、外国に学んで改革を実践しようとする開化派が台頭し、宮廷内での保守派との対立が激しくなっていった。
 保守派は開国したことに対して衛正斥邪思想にもとづいて反対し、また宗主国である清との関係を守ろうとする勢力は大、つまり清に事(つか)えることを主張したことから事大党といわれおり、それらの勢力の背後には大院君が控えているとみられ、高宗の政治は不安定な状況が続いた。
第二の開国 朝鮮は1876年の日朝修好条規で開国した、といわれるが実は欧米諸国に対しては開国していなかった。それは朝鮮が依然として清朝を宗主国とする属国である、という建前が残っていたからであった。しかし、宗主国である清朝そのものがすでにアヘン戦争の結果、1842年南京条約を締結して開国しており、80年代には朝鮮が欧米諸国に扉を閉じていることは現実的ではなくなってきた。また清の李鴻章は日本やロシアの朝鮮への進出を牽制するにも、欧米諸国に対しても朝鮮を開国させることが有利と考えた。清が仲介してまずアメリカとの交渉が行われ1882年5月、朝米修好条約が調印された。内容は日朝修好条規と同じ不平等なものであった。続いて1886年までに清・イギリス・ドイツ・イタリア・ロシア・フランスとの間で同様の条約を締結した。これらの西欧諸国への開国は「第二の開国」ともいわれるが、1882年5月の朝米修好条約締結が正式な開国といえる。 → 朝鮮の開国

高宗・閔氏政権の開化政策

 高宗閔妃とその政権は、開化派の主張に沿って対外的には開国政策、国内的には国力強化をめざす自強政策をとるようになり、1881年1月、近代的な行政機構として統理機務衙門を設置すると共に軍制改革に着手、西洋式軍隊として別技軍を設け、日本軍人を訓練担当に招いた。この改革に必要な経費は増税でまかなわれたが、閔氏一族は利権を私物化して国費は宮中で浪費され、政治の腐敗が進行した。一方、開国によって貿易が開始され、特に米穀は大量に日本に輸出されるようになり、そのため米価を初めとする物価騰貴が民衆を苦しめるようになった。増税と物価高騰に苦しめられた民衆の中に、閔氏政権とその背後にある日本への反発が強まっていった。

壬午軍乱

 旧軍の兵士は、別技軍より古い装備を持たされるなど冷遇されたことも不満であったが、特に給与としての米穀の支払いが13ヶ月にわたって滞ったことで強い不満を持ち、1882年に反乱を起こした。首都漢城の貧民も同調し、兵士と貧民が立ち上がって壬午軍乱となり、反乱軍は宮中に押し入って閔妃政権を倒し、日本公使館をも襲撃して大院君を政権に復帰させた。
 この壬午軍乱は兵士の給与遅配に対する怒りと貧民の物価高、増税に対する怒りが結びついたものであるが、同時に高宗・閔妃政権が開国を実行し、政府内でも開化派といわれる勢力が台頭していることへの反発から起きたもので、衛正斥邪を依然として掲げる保守派の代表、大院君を担ぎ出したものであった。大院君が最初から仕組んでいたという疑いも強い。しかし、この頃すでに朝鮮の開国の支援に転じていた清の李鴻章は大院君の復活を認めず、宗主国の権限を行使して軍事介入に踏みきり、大院君を拉致して天津に幽閉し、閔妃政権を復活させた。公使館を焼き打ちされた日本もただちに軍隊を派遣したが、清と折衝の結果、その了解のもとで朝鮮との間で済物浦条約を結んで損害賠償、公使館警備のための日本軍の駐留などを認めさるにとどまった。結果的には、壬午軍乱によって清の朝鮮に対する宗主権が強化され、清は朝鮮の内政・外交に対し、強い力をもつこととなった。

開化派の分裂

 朝鮮の宮廷では近代化を図ろうとする開化派高宗閔妃とその政権を支えていた。しかし、壬午軍乱をきっかけに開化派の中にも清の宗主権を否定して独立を目指す金玉均や朴泳孝らの急進派は独立党(日本党)とも言われるようになり、それに対して開化派ではあるが、宗主国である清とも妥協しながら実務的に政治を運用していこうという穏健派(壬午軍乱で清の介入を求めた金允植と魚允中ら)が分裂し、その対立も始まった。高宗・閔氏政権は清を宗主国としながら、開化派の中の穏健派を登用するようになり、急進派である独立党は次第に排除されるようになった。

甲申政変

 それに対して急進派独立党の金玉均らは強い危機感を抱いた。彼らは1884年に閔氏一派の排除と日本に倣った改革を目指して甲申政変を起こした。金玉均らは日本軍の介入を前提に保守派要人を殺害しクーデタを決行したが、介入した袁世凱など清軍が日本軍を排除して鎮圧に動いたため、反乱は失敗し、金玉均らは日本に亡命した。この事件後、日本と清は1885年4月に天津条約を結んで、双方の軍の撤退、次に出兵する際には互いに事前通告すること、などを約した。日清両国軍はこれによって撤退したので、朝鮮にはこれ以後10年間は外国軍隊がいない状態となった。
宗主国清の存在 甲申政変は失敗して急進開化派が排除され、高宗の下で閔氏一族と保守派が復権、穏健改革派も協力する政権に復帰したが、清の宗主権としての存在は一層強まった。清の実力者李鴻章は配下の袁世凱を総理交渉通商事宜という立場で常駐させ、高宗・閔妃に圧力を加えた。それに対して、日本も退勢を挽回するために外交攻勢を強めることとなった。その結果、朝鮮をめぐる日本と清の対立は次第に先鋭化していった。並行してロシアの朝鮮への関心が強まっていた。朝鮮内部にも清の過度な介入を牽制するためにロシアに近づこうという動きが国王高宗とその周辺に強まった。それを警戒する清は、天津で幽閉していた大院君を帰国させ(85年8月)、国王・閔妃を牽制しようとした。帰国後の大院君は閔氏政権によって事実上の幽閉状態に置かれ、かつてのような力をふるうことはできなかったが、それでも彼を利用するという勢力が跡を絶たず、不安定要因となり、この後もたびたび表舞台に現れることとなる。

国際的な緊張続く

巨文島事件 このころ、アフガニスタンでするどく対立していたロシアとイギリスの二国が朝鮮周辺でも衝突した。1885年4月、イギリスは極東艦隊を朝鮮南部の巨文島に派遣し、占領して海軍基地を建設しようとした。これはロシアが朝鮮西北の永興湾を占領する動きを見せたことへの対抗措置だった。この件は清の李鴻章が仲介してロシアが朝鮮のいかなる所も占領しないと約したためイギリスが撤退して解決したが、帝国主義的紛争が朝鮮半島周辺に及んでいることを明らかにし、日本も警戒するようになった。
 宗主国という立場に立つ清に対し、日本、ロシア、イギリス、アメリカが影響力を競うという厳しい国際環境にあったと言える。その中で、朝鮮をスイスやベルギーなどをモデルとした永世中立にするという構想が生まれていることは注目できる。
防穀令 1876年に貿易が開始されて以来、朝鮮の穀物の日本への輸出量は増大し穀物不足から物価高騰が続いていた。1889年は凶作でもあったため政府は防穀令を定めて米、大豆などの穀物の輸出を制限した。そのため日本の穀物輸入業者が損害を受けたため、日本政府がその廃止を要求し、政治問題化した。93年まで紛争が続いたが、朝鮮側が賠償金を支払うことで終息した。日本では朝鮮での貿易上の不利益を解消する要求が強まっていった。

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(4)帝国主義下の朝鮮

1880年代には封建的な王政を維持しながら開化政策を進めるという朝鮮王朝の矛盾は深刻な社会不安となって現れ始めた。1894年に東学が蜂起して甲午農民戦争が起きると政府は清に出兵を要請、甲申政変以来清の宗主権が強まっていたことに反撃の機会を狙っていた日本軍も出兵して日清戦争となった。日本は開戦直前に王宮を占領して親日政権による甲午改革を推進させ、日清戦争で勝利して下関条約によって清の宗主権を否定し朝鮮は独立国となった。しかし三国干渉によって日本は後退し、ロシアの影響力が強まった。1897年に朝鮮王朝は国号を大韓帝国(略称韓国)と称号を変えた。その間、満州・朝鮮をめぐる日本とロシアの対立から1905年に日露戦争が起こると、日本は韓国に迫って1905年に保護国化し、さらに1910年には韓国併合を実行して植民地化した。19世紀末から20世紀初頭、朝鮮は日清戦争から日露戦争へと云うアジアの帝国主義国間の抗争の中で日本の植民地となるという試練を迎えた。

東学の運動の始まり

 開国後の朝鮮では外国商品に市場を抑えられ、民衆の生活は苦しくなり、1860年代に始まっていた東学という反キリスト教教団の活動が活発になってきた。彼らはもともと西洋文明に対する反発を強く抱いていたが、80年代に外国人(日本人も含む)の商業活動が農村内部まで及んできたことから、外国勢力と開国を許した政府に対する反発を強めるようになった。1892年、東学は教祖崔済愚の冤罪を訴えて第二代教祖崔時亨が大規模な集会を開き、漢城では東学が外国人を襲撃するために押しよせるのではないか、という噂が広がり、日清両国を初め、ロシア、イギリスの外交官にも緊張が走ったが、このときは高宗が宣撫使として魚允中を派遣し、東学側も5月に解散していったんは収まった。

甲午農民戦争と日清戦争

 1894年2月に再び東学は全琫準に率いられて全羅道古阜郡で大規模な農民反乱を開始した。これが本格的な東学の反乱の始まりであったが、それは実体からも甲午農民戦争といわれるものであった。朝鮮王朝の高宗は軍隊を派遣して鎮圧を命じると共に、袁世凱に対して清の援軍を要請した。東学の反乱軍の行動は迅速で、5月末には全羅道の全州を占領したため、朝鮮は直接の清軍の派兵を要請した。日本は、甲午軍乱の時に締結された済物浦条約で、公使館保護のための軍隊派遣を主張した。6月、清軍が仁川南部の牙山に上陸すると、日本軍は天津条約の規定に基づき、ただちに出兵に踏みきり、清軍に先んじて漢城に入った。朝鮮政府は日清両軍の衝突を回避するため、急きょ東学と交渉し、東学側も応じたため反乱はいったん収束した。
日清開戦の大義名分 しかし、日本は朝鮮での清の勢力を排除する好機と捉えて開戦の口実を作るため、1894年7月23日、軍を漢城の王宮に入れて占領し、朝鮮に清軍撤退の命令を出させ、清がそれに応じなかったことから、朝鮮国王の要請によって清軍を排除するという大義名分を得て1894年7月25日に豊島沖で清の戦艦を砲撃し、開戦に踏み切った。正式には1894年8月1日に双方が宣戦布告をしたこの日清戦争は、日本は朝鮮の独立を支援することを掲げ、清は宗主国として朝鮮を守る義務があるとして応じた。朝鮮王朝は中立を宣言したが、戦争の本質は日本と清による朝鮮の支配権をめぐる争いであった。その戦場となったのは主に朝鮮の本土と黄海であって、多くの朝鮮の民衆が犠牲となった。また、東学によって組織された朝鮮の農民は、日本の軍事行動にたいして抵抗を開始、日本軍はそれを反乱として捉え、朝鮮政府軍と協力する形を取り、徹底した討伐を行った。これを第二次甲午農民戦争ともいう。

日清戦争戦争下の甲午改革

 日本公使大鳥圭介は日清間の開戦より以前の1894年7月23日、日本軍を率いて朝鮮王宮を襲撃し、抵抗する朝鮮軍守備隊と交戦して駆逐し、占領した。壬午軍乱、甲申政変に続いて、日本軍が朝鮮王宮を軍靴で踏み込んだことになる。大鳥公使は大院君(74歳)を王宮に迎えて政権に復帰させ、そのもとで高宗と閔妃は外部との連絡を断たれ、閔氏一族の高官は解任された。代わって新政権を託された穏健開化派の金弘集が軍国機務処総裁に就任、魚允中、金允植、兪吉濬ら穏健開化派を結集して、朝鮮王朝初の本格的開化派単独内閣を樹立した。この開化派内閣は日清戦争下にある日本の圧力にもかかわらず、国政上の大きな権限を認められ、発足から3ヶ月の間に208件もの新法令を公布し、改革を実行した。この甲午改革の要点は次の5点である。<趙景達『近代朝鮮と日本』2012 岩波新書 p.121-122>
  1. 行政機構の改革 総理大臣の下に議政府が置かれ内務・外務・軍務・法務・学務・農商務・工務・度支(たくし、財務)の八衙門を置き、宮中・府中の分離を進めた。また近代的な警察機構として警務庁が置かれた。
  2. 人事の改革 科挙制度の廃止。門閥や両班・常人の差別無く広く人材を登用する。
  3. 身分制度・家族制度の改革 両班・常人などの身分を廃止し奴婢や賎民を解放し、あわせて寡婦の再婚の自由、早婚の禁止、縁坐法の廃止などを定めた。
  4. 財政改革 財政機関の度支部への一元化、銀本位の新貨幣の発行、複雑な税目の地税・戸税への統合と金納化、度量衡の統一など。
  5. 清国年号の廃止 清の年号使用を止め、朝鮮建国の1392年を元年とする開国紀年が採用された。
 日本は朝鮮公使を大鳥圭介から元老の一人井上馨に代え、10月以降、高宗・閔妃とも直接交渉し、また金弘集内閣を動かして、甲午改革に事細かく介入した。この甲午改革は、10年前に失敗した甲申政変の再現であり、日本の指導で朝鮮の近代化を上から進めようというものであったが、それは共にアジアの解放を目指そうという理念からではなく、朝鮮に対して前近代的な宗主権という縛りをつづける清との関係を打ち切り、日本の朝鮮に対する政治的、経済的な力を確立しようという意図のもとでの介入だった。
 1895年1月7日には国王高宗は「洪範十四条」を全国に宣布し、その中で「今後は他国を頼ることなく、国歩を回復して隆盛にし、生民の福祉を図って、自主独立の基を鞏固にする」ことを誓った。これは清国との宗属関係を破棄した独立宣告文としての意味もあった。
 しかし、甲午改革は国王の権力と立場を維持しようとする高宗・閔妃の抵抗、日本の干渉によって順調ではなかった。甲申政変で日本に亡命していた朴泳孝は、日清戦争後に井上馨公使の後援で朝鮮に戻って開化派内閣に加わっていたが、金弘集と権力闘争を行って敗れ再び日本に亡命するということもあった。背後では人事に介入する閔妃の存在が大きくなっていた。閔妃の周辺には漢城の貞洞にあったロシア公使館やアメリカ公使館に出入りしていた李範晋、李完用などの官僚が集まるようになり、彼らは貞洞派と言われるようになった。<趙景達『同上書』p.124>

下関条約

 日清両軍の戦いの戦場となったのは、前半は平壌の戦いなど朝鮮国内が主であり、海戦も朝鮮に隣接する黄海で行われた。後半になって日本軍が鴨緑江を越えて中国本土に侵入、旅順などの遼東半島と満州南部に広がり、海軍も山東半島の威海衛攻撃が主要作戦となり、末期になって澎湖島など南方に広がった。さらに下関講和条約成立後、日本軍は台湾に出兵した。
 朝鮮にとっては、日清戦争勃発の要因となった第一次甲午農民戦争と、日本軍との激しい戦闘を行った第二次甲午農民戦争では朝鮮南西部だけでなく、全土で戦闘が行われた。このように日清戦争は単に日本と清国の戦争であっただけでなく、朝鮮にとっても重大な意味をもつ戦争だったのであり、特に日清間の下関条約も朝鮮の歴史にも重要な意味をもつこととなった。
独立国であることの確定 日清間の講和交渉は翌年3月に行われ、その結果、1895年4月に下関条約が締結された。その第1項で改めて朝鮮の独立国家であることが規定され、清は朝鮮の独立を認め、宗主国との立場から退いた。その他、日本は日清戦争の勝利によって巨額の賠償金とともに、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲を受けるなどアジアの大国化への第一歩を踏み出した。

三国干渉と日本の後退

 日清戦争に勝利した日本は、朝鮮半島から清の勢力を排除することには成功したが、それによって一挙に朝鮮半島を支配下におくことはできなかった。何よりも独立を達成した朝鮮の中に、主権国家として自立しようという運動が起こったことと、下関条約締結直後の1895年4月23日にロシア・フランス・ドイツの三国干渉が行われ、5月、日本が遼東半島を還付しなければならなかったことに象徴的に見られる、ヨーロッパ列強のアジアへの干渉が強まったためであった。朝鮮にとっては特に東北部で国境を接するロシアの存在が重視され、朝鮮をめぐるロシアと日本の力関係は一気にロシアの有利に傾いた。
 同年6月5日、日本政府は1年前の1894年6月の大鳥公使による王宮占領計画から続いた朝鮮王朝への積極干渉施策を改め「対韓不干渉政策」への転換を決定した。<木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.234>

親露派の台頭と閔妃暗殺

 特にロシアは南下政策を強め、アジアへの進出を積極的に展開したロシアが三国干渉の中心となって日本に遼東半島を還付させたことをうけ、朝鮮内部でロシアと結ぼうとする勢力が台頭した。特に王妃の閔妃とその一族が高宗を擁し、ロシアとの結びつきを強めていることを恐れた日本は、駐韓日本公使の三浦梧楼が命令して、1895年10月、閔妃暗殺事件を引き起こした。
 事件は三浦公使に率いられた日本公使館員、日本兵、それに民間人である日本人壮士が中心であったが、朝鮮政府配下の訓錬隊の朝鮮人も加わっていた。彼らは日本人将校によって訓練された部隊だったが、近くロシア人将校を教官とした部隊にとりかえられることになっていたことに対する不満を持っていた。
 宮廷内には高宗・閔氏を守る親衛隊がいたが侵入を阻止することができず、閔妃は侵入した暴漢によって惨殺され、その死体は焼かれた。三浦公使は大院君を連行して宮中に迎え入れ、閔妃一族と親露派を排除した新政府を穏健開化派の金弘集らに組織させた。三浦公使は首謀者は大院君とし、そのクーデタによって起こった混乱を日本が鎮めた、という筋書きにしようとしたが、宮中にいた外国人によって日本人による閔妃殺害の事実は国際的にも知られ、大きな問題となった。
反日感情の悪化 朝鮮政府は、閔妃は王妃を廃されたと発表、事件の実行犯として訓錬隊の幹部らを死刑にして事件の沈静化を図った。日本人については不平等条約である日朝修好条規で治外法権が認められているので裁くことはできなかった。日本側は国際的な非難があったため、三浦公使らを日本に召喚して裁判にかけたが、閔妃殺害の実行犯を特定できないとした。現在も事件に関しては日本政府、外務省、日本軍のいずれも証拠はないので直接の関与はなかった、とされている。しかし、公使を含む日本人が関与していたことはあきらかであったので、この事件は朝鮮民衆の強い反日感情を生み出し、事件を曖昧にしている政府に対する批判を強めていった。
断髪令 金弘集内閣は、内外の強い非難にさらされたが、同年12月、かねて開化派政権として実現したかった断髪令を強行した。同時に日本と同様の陽暦に切り替えられ、年号も建陽と改められた。開化政策を目に見える形で実施し、国民の支持を得ようとしたものだったが、国民の反発は保守派だけでなく、断髪することは先祖から受け継いだ身体を傷つけることになるという素朴な恐れを抱く民衆に強い動揺をもたらし、各地で断髪令反対の暴動が起こり、政府はますます窮地に追いやられることになった。

ロシアの台頭

高宗のロシア公使館移住  1896年2月11日、国王高宗は突然、景福宮からロシア公使館に遷った。この国王の「露館播遷」はロシア公使ウェーバーの派遣したロシア兵に守られて行われ、虚を突かれた開化派内閣は機能不全に陥った。国王はロシア公使館内から国民に現内閣の要人の首を斬れ、と呼びかけた。王宮に駆けつけた首相金弘集らは興奮した群衆によって撲り殺され、その他の閣僚は変装して逃れた。高宗は直ちに保守派と親露派・親米派からなる内閣を組織したが、ロシア公使館を出ようとせず、そこから前内閣が出した改革法令を矢継ぎ早に廃止し、断髪令も否定した。
 高宗の露館播遷は1年に及び、その間、ロシアの影響力は絶対的となり、ロシア軍による宮廷と漢城の警備が行われ、日本の存在はますます影響力を失った。
 この高宗の思い切った行動は、単にロシアへの依存を強めようとしただけではなく、改革が開化派内閣によって進められることで、朝鮮王朝国王としての専制的な権力が失われることに対する抵抗であったと考えられる。朝鮮はこの段階で立憲君主政や、議会政治をは理念としては理解されていたとしても、19世紀末とはいえ、近代社会を支えるブルジョワジー、市民層が十分成長していなかったと言えるだろう。
朝鮮をめぐる日露交渉 ロシアは1896年6月、ニコライ2世の戴冠式参列のためにモスクワに来た清朝・日本・朝鮮の代表と個別に会談するという戴冠式外交を展開した。このとき、清朝の李鴻章と外相ロバノフの交渉では露清密約を結んで満州を横断する鉄道である東清鉄道の敷設権を認めさせるとともに、日本が清・朝鮮を侵略したときにはロシアは清に協力するという密約を結んだ。
 一方、ロシア外相ロバノフは日本の特使山県有朋との間で「山県=ロバノフ協定」を結び、日露合意の上で朝鮮に財政支援することなどの公開条項とともに、両国が朝鮮に出兵する事態となったときは緩衝地帯を設ける、などの秘密条項を定めた。さらにこの時ロシアは朝鮮からの特使閔泳煥に対しロシア人の軍事教官、財政顧問を派遣することを了承させるなど、巧妙な外交によって朝鮮への影響力を強めていった。

大韓帝国

 高宗は1897年2月、王宮に戻った。その上で、専制君主としての実権を確立するために、国号を改めることを構想した。それは下関条約で清の宗主権が否定され、近代的な独立国であることが認められた以上、清国や日本と同等の格を持たなければならない、という発想に基づいていた。1897年10月、国号を大韓帝国(略称が韓国)に改めることが内外に打ち出され、高宗は国王から格上げされた皇帝を称し、国家は「帝国」と称するようになった。
 帝国を称する根拠は、韓民族は古代の三韓や、高麗といった時代の半島内の多くの民族を統合した民族であり、韓民族を統治する国家であるから「大韓帝国」と称することがふさわしい、というものであった。
 しかし、19世紀の末に発足した大韓帝国は、まもなく東アジアにおける帝国主義国家として登場したロシア帝国と日本の抗争に巻き込まれ、急速にその独立国家としての存在が危機にさらされていくことになる。

日本の韓国併合

 その後、日露戦争と戦後の過程で日本は3次にわたる日韓協約を韓国に押しつけ、保護国化を進めた。この間、大韓帝国皇帝高宗1907年ハーグ密使事件をとがめられ、7月に退位した。
1910年の日本の韓国併合によって韓国は独立を失い、日本の植民地となった。朝鮮の日本植民地支配は、1910年8月から第二次世界大戦終結の1945年8月まで36年間続くこととなる。

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書籍案内

岸本美緒・宮嶋博史
『明清と李朝の時代』
世界の歴史 22
1998年 中公文庫

糟谷憲一
『朝鮮の近代』
世界史リブレット45
1996 山川出版社

趙景達
『近代朝鮮と日本』
2012 岩波新書

金重明
『物語朝鮮王朝の滅亡』
2013 岩波新書