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閔妃暗殺事件

1895年10月、朝鮮で実権を持っていた親露派の王妃閔妃を、宮中に乱入した日本公使らが殺害した事件。事件の背景には三国干渉によって親露派と結ぶ閔氏が台頭したことに対して、日本が反閔妃の大院君を利用して巻き返しを図ろうとしたことがあげられる。しかし王妃などに対する直接的な凶行は国際的な批判も受け、また朝鮮民衆の反日感情も強まったことから日本は朝鮮での発言権を弱め、かえって親露派が勢いづいた。

 みんびあんさつじけん。朝鮮王朝は、日清戦争の結果として1895年4月に締結された下関条約において、清の宗主権が否定されたことによって、属国としての立場から通常の独立国家であることが確定した。日本は朝鮮に対する強い指導権限を得たと判断し、並行して行われていた甲午改革といわれる近代化政策に介入し、その立場を強めようとした。ところが、直後のロシアを中心とした三国干渉があり、日本が遼東半島を清に返還せざるを得なくなったことで、朝鮮の政府内部にロシアと結んで日本の勢力を排除しようとする親露派が形成された。その中心には高宗の王妃として政治上の実権をふるうようになった閔妃(明成皇后、びんひ、ミンビ)がいる、と見られるようになった。
 そのような情勢のもと、1895年10月8日未明、日本公使三浦梧楼は公使館員、日本軍の京城守備隊などに日本人浪人を加えて朝鮮王朝の王宮に侵入させ、閔妃らを殺害し、死体を焼き払った。そのうえで大院君を王宮に入れ、高宗に対し、親露派を一掃し日本の協力の下で政治改革を進めることを強要した。この一連の王妃殺害事件と政権の交代を乙未事変(乙未は当年の干支)ともいう。

『閔妃暗殺』

 この事件は一国の公使が在任国の宮廷でその王族を殺害するという前例のない出来事であった。しかし当時日本では、事件は閔妃と大院君の内紛に三浦公使が巻き込まれたにすぎないという理解と、公使の行動も日本の国益を守る愛国心から出たものであるという同情が一般的で、国内から非難がわき起こることはなかった。また関係者の証言や記録もあえて真実は語らないという態度のものが多く、事件の実情は闇に包まれていた。そのなかで1988年に角田房子が『閔妃暗殺』を発表してベストセラーとなり、初めて日本でも広く知られるようになった。歴史書ではないが、両国の史料をよく調べた力作であるので、それにそって事件の詳細を見てみよう。

三浦梧楼という人物

 三浦梧楼は長州出身の軍人であったが、彼が韓国駐在の公使となったのは、前任の公使で同じ長州の井上馨の推薦によるもので、伊藤博文と山県有朋が決定した。井上は日清戦争後の駐韓公使として閔妃を何とか日本側に引きつけようと努力(例えば300万円の援助を約束するとか)を重ねたが、閔妃の親ロシア姿勢を変えることができず、最終的な手段として閔妃を除くことが必要と密かに考えるに至った。そこでその実行に適した人物として三浦が選ばれた。三浦はある〝決意〟をもって韓国に赴任した。三浦梧楼は戊辰戦争や西南戦争で活躍し、直情径行の人として知られて、士官学校校長や学習院院長を務めた人物である。
 閔妃殺害事件はさすがに対外的にも問題となったので、公使としての三浦梧楼の責任が問われ、事件後召還されて広島で裁判となった。しかし直接関与の証拠はないとして無罪となった。彼はその後も長州閥の旧軍人として優遇され、晩年には枢密院顧問となっている。彼の回顧録が公刊されていて、様々な自慢話が語られているが「朝鮮事件」の一節は、自分の判断で実行したと語るだけで詳細は言葉を濁しており、「我輩の行為は是か非か。ただ天が照臨ましますであろう。」と結んでいる。<三浦梧楼『観樹将軍回顧録』中公文庫 p.290>

暗殺決行

 三浦の計画では、皇帝が親露派の閔妃に動かされて、日本軍人を顧問としている理由で解散させられることになった訓練隊が反乱を起こし、その混乱に乗じて閔妃を殺害、反閔妃の大物大院君を担ぎ出して親日派政府を樹立するというものであった。当初、1895年10月10日に決行と決めたが、訓練隊の解散が早まりそうになったため急遽、8日深夜に変更、三浦は公使館員堀口九万一や民間人の漢城新報社長安達謙蔵(後の政治家)、同社員の小早川秀雄らとはかり、実行要員として大陸浪人と言われるようなごろつき連中をあつめ、日本軍の馬屋原少佐にも連絡して態勢を整えた。大院君の決起という形をとるため浪人の岡本柳之助らがその幽閉先に向かい、寝所に押し入って強引に説得した。しかし大院君がすぐに腰を上げなかったため予定より時間をくっていまい、王宮に着いたのは明け方になってしまった。そのため、夜陰に乗じて閔妃を殺害するという計画は不可能となり、王宮に侵入しようとした日本軍と侵入者たちと王宮守備隊との銃撃戦となった。宮中に乱入した日本兵と抜刀した民間人は、閔妃をさがして駆けめぐり、女官などに手当たり次第に暴行を加えた。たまたま宮中にいたアメリカ人顧問やロシア人技師もそれを目撃した。この乱戦の中で閔妃は斬殺されたが、直接の下手人はわかっていない。後の裁判では日本の軍人だったという証言もあったが、他に数名の民間人が自分こそは下手人だと名乗るものがあり、結局は不明とされた。事件後宮中に入った三浦公使は閔妃を確認するとすぐに焼却を命じ、遺骨は宮中に埋められたとも、池に投げ込まれたとも伝えられている。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 現在は新潮文庫>

事件のその後

 その時の伊藤博文内閣の外相陸奥宗光は病気療養中で、西園寺公望文相が外相臨時代理を務めていた。西園寺は未曾有の事件に不審を抱き、ただちに小村寿太郎政務局長を現地に派遣した。小村が10月17日に西園寺に出した調査報告は三浦公使が使嗾(そそのかす)したものと断じたので、同日、公使を召喚し、罷免した。
 国際的な批判を受けた日本は三浦梧楼らを裁判にかけたが、証拠不十分で無罪となった。朝鮮の金弘集内閣は日本の圧力を受け、事件の解明を行おうとしなかったために民衆の反日感情は強まり、1896年1月、王妃である閔妃の殺害に憤激して「国母復讐」を掲げ、最初の反日武装闘争である義兵闘争が起きる。日本兵を含む政府軍が義兵鎮圧に向かい、首都の防備が手薄になったすきに、親露派はクーデタを起こし、高宗をひそかにロシア公使館に移して金弘集政権を倒して親露派政権を樹立した(2月)。閔妃暗殺事件は結局日本に有利な状況を作り出すことはできず、その後、ロシアはさらに朝鮮への影響力を強め、日本との対立が深刻化して日露戦争へと向かっていく。

参考 彼らを駆り立てたもの

 実行犯の一人である小早川秀雄は「朝鮮とロシアの関係をこのまま放置しておくならば、日本の勢力は全く半島の天地から排斥され、朝鮮の運命はロシアの握るところとなり、・・・これは単に半島の危機であるばかりか、まことに東洋の危機であり、また日本帝国の一大危機といわねばならない。この形勢の変動を眼前に見る者は、どうして憤然と決起しないでおられようか」と書いている。彼は韓国に来る前は熊本の小学校の先生だった。
(引用)このように全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて、一点の疑いも抱いてはいなかった。《逆効果にはなりはしないか。日本を窮地に追いこむ結果になりはしないか》と思い悩んだり、ためらったりした人はいない。彼らの多くが、殺人は刑法上の重大犯罪であり、特に隣国の王妃暗殺は国際犯罪であることを知らなかったわけではない。しかしそれが、〝国のため〟であれば何をやっても許される、それをやるのが真の勇気だという錯覚の中で、殺人行為は「快挙」となり、〝美挙〟と化した。<角田房子『閔妃暗殺』1988 新潮社刊 p.306>
 角田房子の著作は現在では細部で誤りが訂正されているが、大筋では事件を正しく捉えている。どのような視点から見ても事件を正当化することはできない。また、無視したり、忘却することはできない。日本にとっても忘れたい事件であるが、事実に目を向けていくことが現在の日韓関係を良くしていく上でも必要である。<作成 2013/‎3/‎25>

閔妃暗殺事件 2023/2/15 <追記>

 以上、角田房子氏の『閔妃暗殺』を紹介したが、歴史事実として閔妃及び閔妃殺害事件について、最近の歴史書ではどのように説明されているか、改めて検証してみよう。
事件の発生 1895年10月8日未明、朝鮮王朝の王宮(景福宮)で、王妃の閔妃、宮内大臣李耕植が殺害された。襲撃したのは日本軍京城守備隊(公使館付武官楠瀬幸彦ら)、公使館員(堀口九万一ら)、公使館警察官、大陸浪人と言われた一般人(安達謙蔵ら)からなる日本人と、訓錬隊幹部禹範善が指揮する朝鮮人部隊が加わっていた。宮中には国王と王太子、閔妃がいたが、最も奥まった乾清殿にいた閔妃は踏み込んだ暴漢に殺害され、さらに兵士らによって遺体を焼かれた。王妃を守ろうとした侍衛隊長洪啓薫は戦死した。同日深夜、事件に先立ち岡本柳之助(朝鮮宮内府顧問)は漢城郊外に蟄居中の大院君を訪ねて説得、宮中に伴い、閔妃殺害後に大院君は高宗に会い、事態を収束させることを告げ、10日には閔妃を廃妃とした。
日本政府への報告 10月8日の公使館員らの動きを知らされていなかった日本領事館一等書記官内田定槌は事件当日に東京の原敬外務次官に第一報を送り「王妃を殺害したのは守備隊のある陸軍少尉である」と伝えた。事件が一段落してからの外務省への正式な報告では、内田書記官は「独り壮士輩のみならず、数多の良民、及び安寧秩序を維持すべき任務を有する当領事館員、及守備隊迄を煽動して、歴史上古今未曾有の凶悪を行うに至りたるは、我帝国の為実に残念至極なる次第に御座候」と報告した。<金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009 高文研 p.249,254>

事件の背景と経過

 1895年春の三国干渉によって日本が遼東半島を清に還付したことから、朝鮮王朝内で閔妃を中心として親ロシア派の勢力が強まった。それに対して反閔氏政権の巻き返しが始まる情勢となった。まず大院君は4月に孫の李埈鎔が東学と結んで国王の廃位を目論んだという陰謀が明るみに出たことによって、蟄居させらていたので、閔妃に反撃する機会を狙っていた。親日派の中心にいた朴泳孝はかつての甲申政変の首謀者で、日本に亡命していたが、日清戦争中に日本公使井上馨の推薦で朝鮮に戻り、金弘集内閣に協力していた。朴泳孝は軍の改革を進めようとして日本士官によって訓練された訓錬隊を編制し、王宮を警備に当たらせようとしたが、高宗・閔妃は強く反対し、7月6日に朴泳孝は閔妃を除こうとした疑いで反逆罪に問われてしまった。そのため朴泳孝は難を避けて、二度目の日本亡命に向かった。訓錬隊に代わってアメリカ人士官の指導のもとで侍衛隊が設置されたので、訓錬隊には閔妃を恨むものが現れた。
日本公使三浦梧楼 三浦梧楼は9月1日、漢城に入り、3日に前任者井上馨と共に国王高宗に信任状を提出した。その後も井上と引き継ぎの協議をしている。井上は親露派に関心を向けている閔妃を日本側に取り込もうと300万円の寄付と電信電話線の朝鮮への譲渡を提案していたが、いずれも閔妃に拒否されていた。それをうけて三浦公使はより強い手段で日本の立場を守る必要があると考え、公使館の杉村濬、朝鮮政府とパイプのある岡本柳之助らと秘密裏に協議し、大院君、訓錬隊の禹範善らとも連絡をとりながら計画を練った。構想では大院君と訓錬隊がクーデタをおこして閔妃政権を倒し、その混乱を日本軍が鎮定して親日派政権を樹立しようとしたものと思われる(杉村濬の残した手記などで確かめられる)。 ただし最初から閔妃の殺害を計画していたかはわからない。三浦公使は、かつて日清戦争直前の1894年7月23日に、日本軍が朝鮮王宮を襲撃して占領し、大院君を擁立して親日政権を建てたことが「成功体験」としてあったので、今回もその再現を狙ったとも考えられる。
閔妃殺害の実行 襲撃は日本人、朝鮮人からなる多数の実行者によって行われた。殺害現場は凄惨なものがあった。直接に殺害した人物を一人として特定することは困難で、日本の軍人、兵士、いわゆる壮士の中には自分こそ最初の一太刀をふるったとか、とどめを刺したとか、死体を確認したとか、運んで火葬にしたとか、様々な証言がある。集団で行われた殺害行為であり、一人の行為ではないので、「誰が閔妃を殺したか」という問は意味をなさない。閔妃殺害集団の主力となっていたのは日本人であったが、朝鮮人の訓練隊員が加わっていたことも事実である。<詳細は、木村幹『高宗・閔妃』2007 ミネルヴァ書房 p.246-256 を参照>
国際問題化 計画では閔妃殺害は深夜に行い、実行者は暗いうちに宮廷外に出る予定だったが、大院君引き出しに手間取り、結局犯行を終えて引き上げるのが早朝となってしまい、宮中にいたロシア人政治顧問やアメリカ人軍事顧問に、日本人が血刀を下げて意気揚々と引き上げるところを目撃されてしまったため、国際問題化した。14日、アメリカの『ニューヨーク・ヘラルド』は「日本人は王妃の部屋に押し入り、王妃閔妃と内大臣、女性三人を殺害した」という第一報を10日に漢城から発進したが、東京でさし止められていた、と報じた<原田敬一『日清・日露戦争』2007 岩波新書 p.193>。またイギリス人のジャーナリストは事件の詳細を取材し、英字新聞に発表した。このあたりの事情は、事件の前後に朝鮮に滞在したイギリス女性旅行家イザベラ・バードの記した旅行記『朝鮮紀行』(講談社学術文庫刊)に詳しく記されている。<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.351-361>
裁判 事件の国際問題化に困惑した日本政府は10月15日に外務省政務局長小村寿太郎を派遣、現地調査に当たらせた。小村は三浦梧楼公使、杉村公使館員、岡本朝鮮政府顧問など被疑者40数名を帰国させ、日本で裁判を受けさせることになった。他に関与した軍人は広島の第五師団で軍法会議にかけられることになった。
 朝鮮政府では日本に対する不信の増大を背景に大院君と親日派は力を失い、訓錬隊は解散となり、閔妃廃妃の詔勅も撤回された。12月1日に閔妃の死が正式に発表され、葬儀が執り行われた。同時にその死因は訓錬隊と日本公使館、そして日本人壮士の王宮襲撃にあったことが発表され、その処罰がなされることになった。金弘集政府は事件の収束を早めようと裁判を急ぎ、朝鮮王朝法部は謀反事件の犯人として朴鉄、李周会、尹錫禹の三名を逮捕し、12月29日に死刑判決が出された。彼らはいずれも計画には参加していないと主張したが、実行に加わったことを自白したため、有罪とされた。日本人実行犯に対しては、当時の朝鮮王朝では日朝修好条規が日本人に治外法権を認めている不平等条約であったので、日本人を裁く事はできなかった
 朝鮮で朝鮮人三人の犯行と確定したことを受け、1896年1月20日、広島地方裁判所の予審において三浦前公使以下は事件への関与は認定されたものの、閔妃殺害の実行に関しては証拠不十分として免訴となり、広島の軍法会議でも全員無罪という判決となった。領事裁判権の時代だったので漢城の日本人に対する領事裁判も行われたが、取り調べる側の領事にも王宮侵入に加わった者がいるありさまだった。<山辺健太郎『日韓併合小史』p.120>
事件の影響 訓錬隊と日本公使館守備兵による王宮襲撃事件としての閔妃暗殺事件は、朝鮮王朝内の親露派、親米派にも深刻な危機意識を引き起こし、彼らの中に米露両国の公使館に避難し、対抗する形で武装クーデタを企てるものが現れた。11月28日、アメリカ人ダイらに率いられて王宮攻撃を試みたが王宮の親衛隊に阻止されて失敗した。これは「春生門事件」ともいわれ、国王周辺は極度の緊張感に覆われた。親露派・親米派のクーデタを鎮圧した親衛隊の背後には依然として宮中に留まっている大院君がいるのではないか、と疑われたからである。<木村幹『前掲書』p.258-260>
 そのような緊張が続く中、民衆の中に「国母」閔氏を殺害した日本人の犯行に対する非難が高まっていたが、金弘集内閣は日本に妥協的でその関与責任の追及をしなかったことで不満が強まっていった。金弘集内閣は開化政策を進めることで民衆の不満を解消しようと12月に断髪令を出した。しかしそれは伝統的な髷を切る事への民衆の素朴な反発を呼び起こすこととなり、各地で武装した民衆運動が起こった(初期の義兵闘争)。
 いずれにせよ、閔妃暗殺は、国際的な批判を呼び起こして朝鮮における日本の国際的な発言力を弱めたこと、一時的な親日政府を作ったものの、民衆の反日意識を初期の義兵党争へと点火させたこと、高宗を露館播遷に追いこみ親ロシア派の台頭を許したこと、などから日本外交の大きな失点となった。
高宗の露館播遷 1896年2月11日、国王高宗は突然、景福宮からロシア公使館に遷るという「露館播遷」を決行した。それはロシア公使ウェーバーの後援による親ロシア派の一種のクーデタであり、それによって日清戦争以来の親日的な姿勢を保ってた改革派政権が崩壊したことを意味していた。露館播遷に反対した総理大臣金弘集らは激昂した民衆に撲殺された。
 高宗は同時に詔勅を発表し、「禍乱の張本人」として閔妃事件の時の軍務大臣趙義淵、訓錬隊隊長禹範善、その他の名前を挙げ、民衆に直ちに斬首して朕の観覧に供せよ、と呼びかけた。恐れた趙義淵は逃亡し、禹範善は日本に亡命した。禹範善は王太子(後の純宗)も「国母」を殺害した人物して名前を挙げており、日本亡命後に朝鮮王朝の放った刺客によって殺されている。

残された謎

  • 日本政府はどこまで関わっていたか 現在は日本では三浦梧楼公使と現地の外交官・軍人・大陸浪人といわれる民間人が謀議したことまでは明らかになっており、実行にも彼らが加わったことは確実なので、日本の関与とされるのは避けられないが、問題は政府・外務省や軍の中枢(大本営や参謀本部)は知っていたかどうか、である。政府や軍中枢が事前に知っていたか、については否定的な見解が多い。ただし、最近では前公使井上馨の関与、あるいは朝鮮半島の電信線の確保を図るという軍事目的が強かったとみて当時の実質的な軍の最高の地位にいた川上操六参謀副長が、三浦梧楼と共謀したという視点も提出されている。<金文子『前掲書』2009>
  • 大院君ははたして首謀者であったか 事件の首謀者は大院君であり、実行犯の中心は訓錬隊の朝鮮人兵士だった、日本人はそれに協力しただけである、とする説は当時の朝鮮政府の公式見解であり、日本人の関与を否定する際によく引き合いに出される。大院君が首謀者である可能性は、その閔妃に対する敵愾心の強さから、当然考えられるが、日本の協力がなければ軍事クーデタは不可能であっただろう。その際、大院君側が日本に働きかけたというのは、それまでの日本に対する姿勢から見て非現実的で、やはり、いつものように日本側が大院君を利用したとみるのが妥当であろう。
  • 何のために凶行に至ったか 閔妃殺害は意図されていたが、偶然だったか、という議論は、当日の日本軍人、壮士たちのさまざまな証言から、当初から殺害目的であったことはあきらかである。では何のため殺害したのか、という問が残る。平たく云えば、当時の漢城にいた日本人の中に、日清戦争で勝利して朝鮮を独立させてやったのに、ロシアにその立場を奪われる、という危機感を持つようになり、愛国心から立ち上がった、という心情なのであろう。事件が明るみに出たときには、事件は血気にはやった民間人がやったことだと、まず宣伝された。もしそうだとすれば、近代的な外交交渉を掲げる法治国家であれば、そのような暴発は国家が抑えるのが通常であろう。ところが徐々に明らかになったことは公使や軍人の公的な立場にあるものの関与だった。そのレベルになると、三国干渉を受け入れざるを得なかったことで傾いた朝鮮での日本の地位を、なんとか回復するための国家的意図があった、ということになる。それは日露戦争期の保護国化を経て、1910年の韓国併合へと向かっていく。

 現在の一般的な近代の歴史理解では、1895年の朝鮮王朝王妃の閔妃を暗殺した事件に、日本の公使館や軍人、民間人が深くかかわっていたことは認められている。角田房子の『閔妃暗殺』が出た頃に比べれば大きく変わった。ところが、2000年代に入ってからか、日韓関係の風向きが怪しくなるにつれて、事件への日本人の関与を否定するような論調が現れている(wikipedia 乙未事件の項参照)。しかし実は、日本の事件当時の公式見解こそが、閔妃暗殺事件の本質は朝鮮内部の政治抗争であり、それに日本の一部の軍人、民間人が巻き込まれたものであり、日本人実行者は犯罪行為は認められず、国としても関与していない、というものだった。最近のネットで散見するような見方は、戦前の言説をなぞっているだけなのだ。
 第二次大戦後の研究の自由の進展でようやく日本公使館、軍、民間人の行為が明らかにされたのだが、国家レベルでは公式見解は変わっておらず、ましてや謝罪はない。120数年前の過去の出来事として忘却しよう、という姿勢のようだ。今必要なのは、戦前の公式見解に戻るのではなく、また事件を忘却したり、無視するのではなく、また歴史教育の現場では、微妙な問題だからと云って触れるのを避ける、といったことではなく、歴史の文脈の中に事実を正しく位置付けていく作業であろう。
<追記について> このサイトの「閔妃暗殺事件」の項が、角田房子の『閔妃暗殺』を根拠としている事への批判のメールをいただいたことから、改訂をしようと思ったことがきっかけです。メールでは、「角田氏の著作が一部は間違えているが大筋では間違いない」という根拠はあるのか、という質問でした。そのため、改めて角田氏以後の朝鮮史関係の主な本を勉強し直しすることにしました。その結果、まさに大筋では間違いないことが確かめられましたので、記事を改訂することはせず、<追記>としてその後の勉強で判ったことの要点のまとめることにしました。高校生の受験勉強にはいささか馴染まないかも知れませんが、歴史の事実を探求するという作業の一例ともなるかと思い、公開します。
 なお、角田氏の著作で誤りとされる部分の一つは、表紙に使われた閔妃の写真ですが、それは最近の研究では閔妃ではない、とされるようになっていることを含みます。またメールをくれた人は、閔妃を「国母」とするのは誤りで、角田の本が信用できない証拠だ、と言っています。しかし、閔妃は民衆からは「国母」と云われており、実子の王太子も「国母」と呼んでいますから間違いとは云えないと思います。またメールでは閔妃は宗教に凝って大金を貢ぐといった人で、国民からは恨まれていたと書いてありました。閔妃が「悪女」だとう説も戦前の暗殺事件直後から盛んに宣伝されたことで、それは殺されても仕方ない女だったんだ(福沢諭吉あたりが盛んに宣伝したと言われています)、というニュアンスがあり、いただけません。ここでは閔妃を弁護しても仕方がありませんが、閔妃の項でその人物像としてイザベラ=バードの観察を多く引用しておきました。
 またメールではわたしの記事は角田の本の誤りである日本人犯人説をくりかえすだけで、偏向しており「歴史を偽造」するものだ、このような自虐的な記事を書くから韓国の人が誤解し、日韓関係を悪くしているのだ、という見解が述べられていました。これには曲解も甚だしいと呆れるばかりですが、メールへの反論も含めて勉強の結果を<追記>として書き加えました。また誤解を避けるため、引用、紹介に当たっては、偏らないように極端な論者は避け、定評のある著者や広く認められている新書など(残念ながら日本語文献だけですが)からに限定しました。勿論、すべての参考文献に当たったわけではないので、まだ勉強は続くことになります。<2023/2/15 記>
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書籍案内

角田房子
『閔妃暗殺』
1988 新潮文庫
観樹将軍回顧録
三浦梧楼
『観樹将軍回顧録』1988 中公文庫

木村幹
『高宗・閔妃』
2007 ミネルヴァ書房

金文子
『朝鮮王妃殺害と日本人』
2009 高文研

イザベラ・バード
/時岡敬子訳
『朝鮮紀行』
1998 講談社学術文庫


山辺健太郎
『日韓併合小史』
1966 岩波新書

森万佑子
『韓国併合』
2022 中公新書