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日露戦争

1904年、満州と朝鮮への侵出をはかるロシアと日本が衝突した帝国主義戦争。日本が実質的に勝利し、大陸進出を果たした。ロシアでは戦争中に第一次ロシア革命が起こり、ツァーリズムの動揺が表面化した。

 ロシア帝国ツァーリズム政治体制は、ニコライ2世のもとで国内の矛盾を深刻化させていたが、シベリア鉄道やの敷設などのアジア方面への勢力拡大でそれを解消しようというねらいがあった。日本は明治維新で近代化を開始し、1880年代に富国強兵路線を明確にしながら大陸進出をめざした。日本は1894年の日清戦争で清の朝鮮への宗主権を排除したものの、その後にロシアは三国干渉、東清鉄道の敷設権獲得、1898年の旅順・大連の租借、1900年の義和団事件で出兵した後も満州に駐兵を続けるなど、急速に満州・朝鮮への侵出を進めた。これに対して日本は、同じくロシアの東アジア侵出を危惧するイギリスとの間で1902年、日英同盟を締結してイギリスの支援を得、ロシアとの対決に備えた。

日露戦争の開戦

 山県有朋ら主戦論者が警戒していた、ロシアのシベリア鉄道建設は、本線の開通より前、1903年7月東清鉄道が開通、ウラジヴォストークへ直行することが可能となった。この開通の直前の5月、大山巌参謀総長は明治天皇に対し、シベリア鉄道・東清鉄道が開通し、その軍事的輸送体制が整備される前に、満州のロシア軍を攻撃すべきであると上奏した。
 開戦を急いだ日本は、1904年2月10日、ロシアとの全面対決に踏み切った。このように日露戦争は、帝国主義的な膨張政策を採る両国の衝突として起こった帝国主義戦争であった。
 日本は日露戦争において、その軍事費として17億円を必要としたが、そのうち8億円はロンドンとニューヨークで外債を募集してまかなった。イギリスとアメリカは外交的な面だけではなく、経済的にも日本を支えていたと言える。その意図はロシアのアジア進出を抑えるために日本を支援すると言うことであった。ロシアは、フランス資本とドイツ資本の支援を受けた。この両国は、ロシアがアジア進出に専念することでヨーロッパでの野心を弱めるであろうことを期待していた。
 日本にとって日露戦争は、ヨーロッパ諸国と戦った最初の戦争であったが、世論の分裂の無かった日清戦争に対し、国内にはかなり根強い戦争反対の声が起こっていた。キリスト教の立場からの内村鑑三や、社会主義の立場からの幸徳秋水ら、歌人の与謝野晶子等の戦争反対の声は非戦論として知られている。しかし、元老山県有朋と軍部の主戦論を抑えることはできず、明治天皇も開戦に意志が固まり、日清戦争からわずか10年後であったが、開戦することとなった。

戦争の経過

 1904年(明治37年)2月に開戦、ほぼ1年かかってロシア軍の旅順要塞を占領し、05年3月の奉天会戦で大勝し、5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破った。すでに1905年1月に血の日曜日事件を機に第1次ロシア革命が起こっていたロシアは戦争継続が困難となり、日本もこれ以上の戦線の拡大と戦争の長期化は国力の限界を超えるおそれがあることが明確になってきた。

日露戦争の講和

 日本は、日本海海戦の直後に、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトに斡旋を依頼、それを受けて1905年8月から、アメリカ東海岸のポーツマスで講和会議が開催された。日本代表小村寿太郎とロシア代表ウィッテの交渉は難航したが、1905年9月5日に妥協が成立、ポーツマス条約を締結し講和した。
(引用)ここでわれわれに注目されることは、日本側においてこのロシアとの講和についての準備が、戦争開始直後から始められ、すでに半年たつかたたないかのころには、講和条件についての構想が桂太郎首相、小村寿太郎外相から示されたことである。そこには政治と戦略、政戦両略の統合的な考察がうかがえる。この点においても、太平洋戦争の際の指導者との違いが見いだされると言えよう。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.33>
T=ローズヴェルトの意図 ローズヴェルト大統領は、戦争前はロシアの満州進出に反発し、日本の大陸政策を支持する態度をとったが、日本が圧勝し、極東での日露間の戦力バランスが破れて日本側が圧倒する事態となることも避けなければならず、むしろ日露の間で極東での力のバランスが保持される状態が望ましいと考えた。<細谷千博『同上』 p.34>
ポーツマス条約 要点は日本が、①韓国保護権、②遼東半島南部(旅順・大連)租借権、③南満州鉄道の利権、④南樺太の割譲、⑤沿海州などの漁業権、が認められたことであるが、日本は賠償金を獲得することはできなかった。ロシアがマイナスを最小限に抑えたという内容であったが、それはウィッテの外交手腕が大きかったことによるとされている。

「日本の勝利」のアジア・ヨーロッパに与えた影響

 日露戦争は実際には勝敗は決しないまま講和に至ったというのが正しいが、日本国民とアジアの諸民族にとっては勝利そのものであると受け止められた。アジアの新興国がヨーロッパの大国を破ったとされた「日本の勝利」は、ヨーロッパ諸国の経済支配を受けていたトルコ、イランなどアジア諸国に影響を与えた。1906年におけるイラン立憲革命、1908年のトルコの青年トルコの運動、また第一次世界大戦後のムスタファ=ケマルのトルコ革命などである。またフランス植民地支配下のベトナムではファン=ボイ=チャウドンズー運動が始まる。一方の欧米では日本の台頭は日本人、ひいてはアジアの黄色人種全体への警戒心となって現れ、アメリカでの日本人移民排斥運動やドイツのヴィルヘルム2世の「黄禍論」の提唱などが現れている。

ロシアに与えた影響

 ロシアの一般国民のこの戦争のとらえ方は、はじめは極東で起こった小国日本とのトラブル程度であり、ロマノフ家が勝手に起こした戦争という醒めた見方が多かった。しかし、最終的には敗戦に至らなかったものの、旅順・大連の放棄、日本海海戦でのバルチック艦隊の敗北は大きな衝撃を与えた。特に、旅順陥落の直後に食糧不足に抗議するペテルブルクの労働者、市民の請願行動を軍隊が弾圧した血の日曜日事件が起こり、そこでの民衆虐殺はツァーリズムに対する幻想を完全に払拭させた。また、黒海海軍の水兵は戦艦ポチョムキンの反乱を起こして革命ののろしを上げた。
第一次ロシア革命 こうして戦争継続は困難となったため9月に講和に応じ、1905年10月17日にはウィッテが中心となってニコライ2世の名で「十月宣言」を出を出し国会(ドゥーマ)の開設を約束した。これが第1次ロシア革命であるが、12月には労働者のゼネストを押さえ込んだツァーリ政府は、その内部危機をさらなる帝国主義政策・膨張政策によって解消しようとしてバルカン方面への進出を強め、第一次世界大戦へと突入していく。

日本への影響

 日露戦争では日本も大きな犠牲を払った。戦争で徴用された国民は110万人、そのうち戦死者は4万人を超え、負傷者は7万人に及んだ。戦費も膨大となり、15億円以上を要して国民生活を圧迫した。日本国民の多くは、日露戦争はこれだけの大きな犠牲を払って「勝利した」と信じた。報道は戦勝一色で、これ以上戦争が続けることはできないほど日本の国力を消耗したことは国民に知らされなかった。
日比谷焼打ち事件 そのため1905年9月5日に締結されたポーツマス条約で、賠償金を獲得できなかったこと、その他の獲得したものが少なかったことは犠牲と釣り合いが取れないと受け止められた。締結日の9月5日には民衆が日比谷公園に約3万人が結集して講和条約反対を叫び、一部は暴徒化して戒厳令が布かれた。民衆は外相小村寿太郎に対する怒りを爆発させ、騒動は数日間収まらなかった。交渉を終えた小村は調印直後から体調を崩して発熱し、帰国を延期しなければならなかった。
韓国保護国化と関東州設置 しかし小村寿太郎は賠償金よりも重大なものを獲得したと自信をもっていた。それは韓国(大韓帝国)を保護国とすることと、関東州(旅順・大連)の租借・南満州鉄道の営業権を獲得したことである。小村はポーツマス条約締結直後にセオドア=ローズヴェルト大統領と面談してこの二点を進めることの了解を得ており、帰国後の閣議(第一次桂太郎内閣)で閣議決定を行い、それにもとづいて同年中に伊藤博文を韓国に派遣して第2次日韓協約を強制し、保護国化を実現した。小村寿太郎みずからは全権として清国に乗り込み、清国の強い抵抗を押し切って、12月に「満州に関する日清条約」を締結してロシア権益の継承を清国に認めさせた。韓国を保護国化し中国大陸の一部である遼東半島南部の関東州の租借権を獲得したことは、帝国主義国家としてのアジアにおける日本の立ち位置を明確にしたことを意味していた。

日露戦争後の世界

 日露戦争で東アジアでの後退を余儀なくされたロシアは、こんどは再びバルカン方面への侵出をはかることとなる。この動きは、必然的にバルカン問題でのパン=ゲルマン主義をとるドイツ・オーストリアとの対立を深刻化させる。一方、ドイツのヴィルヘルム2世の「世界政策」はフランス・イギリスを警戒させ、列強は利害関係を図りながら、軍事同盟のバランスによって平和維持を図ろうとするようになる。それが、日露戦争の前後に締結された様々な秘密軍事同盟である。露仏同盟日英同盟英仏協商日仏協約日露協約英露協商がそれであり、いずれも植民地分割協定を含んでおり、帝国主義諸国間の妥協の産物であった。中国大陸への進出で立ち後れたアメリカは、門戸開放・機会均等の要求を以前として掲げ、日本とロシアによる満州分割に強く反発、日米対立の出発点となる。

帝国主義世界分割

 また日本は日露戦争中から戦後にかけて、3次にわたる日韓協約を締結して朝鮮(大韓帝国)保護国化を進めた。それまで朝鮮に利権を持っていたイギリス・アメリカも日本を支援した手前、日本の朝鮮での優越を認めざるを得なくなった。1905年7月の日本とアメリカの桂=タフト協定(覚書)ではアメリカは日本の朝鮮での優越権を認め、日本はアメリカのフィリピンでの優越権を認めている。同年8月の第2次日英同盟ではイギリスは日本の朝鮮に対する「指導、監理及び保護」を承認し、日本はイギリスのインドなどでの権益をみとめている。ここに日露戦争が帝国主義的な世界分割の一部であったことが明確に出ている。また、1907年7月には日露協約(第1次)を締結、満州は日露で南北に分割、外モンゴルはロシア、韓国は日本の勢力圏とすることで合意が成立した。

日本の韓国併合

 日露戦争後、列強との協定で国際的合意をとりながら韓国保護国化を進めた日本は、1909年10月に初代統監伊藤博文が朝鮮人の安重根に暗殺されたことを機に、一気に併合を進めい、1910年8月22日に韓国併合を強行するに至る。さらにポーツマス条約によってロシアから継承した旅順・大連の租借権をもとに関東州への進出を図り、後の満州国建国への足場を築いた。日本はこの勝利によって軍国主義的な様相をさらに強くし、国内では社会主義思想弾圧を強めた大逆事件などを経て天皇制国家への歩みを強めていく。