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桂=タフト協定

1905年に成立したアメリカと日本の、フィリピンと朝鮮の支配権を相互に認めた秘密の分割協定。日露戦争講和前に日米が結んだアジア植民地分割協定であり、日本はこれを根拠に韓国併合を進めた。

 1905年7月29日に、日本の首相桂太郎と、アメリカのセオドア=ローズヴェルトの特使タフト(陸軍長官)の間で締結された秘密外交協定。日本はアメリカのフィリピン支配を認め、アメリカは日本が朝鮮で優越的な支配権を持つことを相互に認めた。これは、1905年9月、ローズヴェルトが日露を仲介して日露戦争の講和条約であるポーツマス条約を締結するより、2ヶ月ほど前のことだった。そしてこの協定は秘密協定であり、アメリカでは1924年に公表されたが、日本ではその後も公表されず、その存在が明らかにされたのは、第二次世界大戦後のことであった。

韓国併合の前提となる

 日本はこのアメリカの同意の下、「断固たる手段」として韓国併合を進めていく。一方アメリカは、フィリピン併合を確固たるものにしたのだった。これは日露戦争前後の、帝国主義列強による、日英同盟英仏協商日露協約英露協商日仏協約などと同じ、世界分割協定の一つであった。

日米間の密約

 1905年の桂=タフト協定(覚書)で桂首相とタフトの間の約束は次のようなものだった。
 桂首相は、「日本はフィリピンに対し、如何なる侵略的意図をも有していない」と積極的に開陳した。朝鮮問題については「朝鮮は日本が露国と戦った直接の原因となったところであるから、戦争の論理的結果として半島問題を完全に解決することが日本にとって絶対に重要」である。もし朝鮮がそのまま放置されれば「朝鮮は必ず無思慮に他国との協定又は条約を締結する習癖を繰り返すこととなり」それは国際的紛糾を再現するであろうから、「日本は、朝鮮が旧態に戻り、日本をして再び外国との戦争に突入せざるを得なくするようなことを阻止するため、断固たる手段を取らざるを得ない」と表明した。これに対してタフト特使は桂首相の見解の正当性を十分に認め、日本が朝鮮に対して宗主権を設定して、朝鮮が外国との条約を締結するには日本の同意を要するとすることは、「東洋における永久の平和に直接寄与するであろう」と述べた。タフトは改めてローズヴェルト大統領に電報で合意を確認し、文書とした。
 後の1908年11月、高平駐米公使と国務長官ルート間で取り交わせれた高平=ルート協定(覚書)でも日本の朝鮮支配は重ねて承認された。<山辺健太郎『日韓併合小史』1966 岩波新書 p.217-218>
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山辺健太郎
『日韓併合小史』
1966 岩波新書