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日英同盟

1902年、イギリスと日本が締結した二国間同盟。中国・韓国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的としした。イギリスにとっては「光栄ある孤立」の外交姿勢を破棄したことを意味し、日本にとっては初の軍事同盟を締結してアジアでの優位を獲得することが狙いであった。その後、3次にわたって改訂され日露戦争、第一次世界大戦で重要な役割を担ったが、国際協調外交の高まる中で開催されたワシントン会議の結果、1921年末に四ヵ国条約で破棄された。

 日清戦争後、帝国主義列強のアジアへの侵略的な動きが強まる中、特にロシアは、三国干渉を主導して日本に遼東半島を清に還付させ、その見返りとして清から東清鉄道の敷設権を獲得し、朝鮮(朝鮮王朝)方面に次第に勢力を強めた。 1898年には列強が次々と清朝政府に迫って租借地を獲得して中国分割が進んだが、この時ロシアは遼東半島の先端の旅順・大連を租借するとともに、その地に至る東清鉄道の南満支線の敷設権も獲得した。これによってロシアは、シベリア鉄道→東清鉄道→南満支線を経由して直接旅順・大連に軍を送ることを可能にした。

ロシアの東アジア侵出

 ロシアの東アジア進出は、中国本土から満州方面への鉄道敷設によって勢力を拡張しようとしていたイギリスにとっての脅威となり、同時に日本にとっては日清戦争で勢力圏とした朝鮮半島が脅かされることになるので警戒するところであった。このような列強の中国分割の侵攻によって、ロシアを警戒するという点でイギリスと日本の利害が一致し、両国は急速に接近することとなった。
 さらに1900年義和団事件を列強の共同出兵で鎮定した後も、ロシア満州へ居座り、南下政策の姿勢を強めたため、るに危機感を持つ日本とイギリスの提携が具体化した。

日本とイギリスの接近

 イギリスはヨーロッパ列強との外交では「光栄ある孤立」という基本姿勢を続けていたが、アジアにおいてロシアの侵出はインドと中国におけるイギリスの権益に対する脅威として警戒するようになっていた。しかしイギリスは、当時、南アフリカ戦争が長期化し、アジアに充分な力を注ぐ余裕がないという事情があった。その中で日本の台頭という状況を踏まえ、日本との同盟関係を選ぶことにおって権益を守ろうとし、日本は条約改正などの国際的地位を高めることをめざしており、またロシアの圧力に対抗する後ろ楯として日英同盟に期待した。
 日本では元老山県有朋、駐英公使加藤高明らが積極的に日英同盟を主張したが、一方で伊藤博文や井上馨らは日英同盟よりも、ロシアの満州支配と日本の朝鮮半島支配を相互に認め(満韓交換論)、ロシアと提携する方が国益につながるとの見解があり対立していた。両派の対立は結局、ロシアが1900年義和団事件後も満州から撤退しないことから、ロシアに対する警戒感が強まり、日英同盟論に決することとなった。
(引用)とにかく日英同盟を結ぶことによって、日本は西欧の先進列強が行ってきたパワー・ポリティックスの方式を踏襲、まさに帝国主義のゲームに新顔のプレーヤーとして仲間入りすることになったのである。かくして日本はロシアとの戦争に向けて、国際連携面で準備体制を整える。<細谷千博『日本外交の軌跡』1993 NHKブックス p.31>

第1次日英同盟

 1902年1月にロンドンで同盟条約が締結された。内容は、イギリスの清国における特殊権益と、日本の清国・朝鮮(大韓帝国)における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した防御同盟であった。日本はイギリスとの同盟を背景に、日露戦争を戦い、イギリスは規定どおり厳正中立を守った。

第2次日英同盟

 日露戦争の終わる直前の1905年8月に改定された第2次日英同盟は、同盟の適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権をそれぞれ認め、また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負うという本格的な軍事同盟に深化した。

第3次日英同盟

 さらに1911年の第3次日英同盟ではドイツの脅威を対象に加えることとなった。一方で、日露戦争後に悪化した日米関係を懸念したイギリスは、日英同盟の対象国からアメリカを除くことを望み、その趣旨を盛り込んだ。
 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟の規定に従い、イギリスに対する軍事支援の名目で参戦を申し出て、中国大陸と太平洋地域のドイツ軍事基地を攻撃した。当初イギリスは日本の参戦を要請したが、日本が1915年、二十一カ条の要求を出すなど、中国での権益拡張をあからさまにすると、次第に警戒するようになった。

日英同盟の廃棄

イギリス、日米戦争を危惧 日露戦争後、日本の満州への侵出に対してアメリカは強い警戒感を抱いていた。アメリカは満州を市場とすると共に鉄道敷設などの資本投下先として有望と考えていたので、日本によってその権益が独占されることを警戒したのである。日本に対する警戒はアメリカ本土で日本人移民排斥運動が強まったことにも現れている。日本はアメリカに対抗して1907年から日露協約を数度にわたり改定して共同で権益を守ろうとした。イギリスも日米関係の悪化を恐れた。それは日英同盟があるためもし日米戦争となればイギリスもアメリカと戦わなければならなくなるからである。そこでイギリスは第三次日英同盟の改定に際し、将来日米開戦に至った場合にはイギリスは援助義務を負わないことを明らかにした。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.131>
すでに1911年の段階で日米開戦が予測されていたことに注目しておこう。
転機となった二十一か条の要求 第一次世界大戦に参戦した日本は、1915年1月、中国の袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけた。その第5項に、日本が中国を保護国化する野心があることを警戒したイギリスのなかに、日英同盟を廃棄すべきであるという主張が生まれた。結局第5項は日本が取り下げ、それ以外の項目を中国政府が受けいれ、中国国民に反日感情が強まった。
 第一次世界大戦後は、日本の中国大陸への侵出を警戒したアメリカがイギリスに対して日英同盟の破棄を要求するようになり、イギリスも日本の中国進出を危惧し、日米対立に巻き込まれることをさけるために日英同盟の破棄を決意し、1921~22年のワシントン軍縮会議の協議を経て、1921年12月に締結された太平洋に関する四カ国条約(日英米仏の四国)の中で日英同盟の破棄を盛り込んで、日本とイギリスの同盟関係は約20年で解消された。