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日本の第一次世界大戦参戦

イギリスとの日英同盟を口実に、1914年8月に第一次世界大戦に参戦し、青島のドイツ基地を攻撃、南洋諸島を占領した。1915年には中国政府に対し二十一カ条要求を提出、山東省での権益を認めさせた。1917年には地中海に艦隊を派遣。これらによって連合国に加わった日本は戦後のパリ講和会議に出席、大陸での利権の確保しようとした。またロシア革命に干渉するシベリア出兵を行った。

 ヨーロッパの列強間の戦争として始まった第一次世界大戦に対して、日本は局外中立であるべきであったが、日英同盟を口実して協商国側に参戦し、中国大陸と太平洋地域のドイツ支配地を攻撃して戦争を世界規模に拡大し、また一部艦隊を地中海に派遣した。ドイツ権益を奪った形の日本は、二十一カ条の要求を出し、袁世凱政府にほぼその要求を呑ませ、中国大陸侵出の足場を築いた。また太平洋方面でもドイツ領を委任統治領として獲得した。このように日本は第一次世界大戦を帝国主義的な領土拡張の好機として利用した。

日本参戦までの経緯

 第一次世界大戦が起きると、日本はこの機会をドイツ権益を奪う好機ととらえた。元老井上馨は「日本国運の発展にたいする大正新時代の天佑(天の助けの意味)」と言ったという。1914年8月7日、イギリスが膠州湾の青島を拠点としたドイツの東洋艦隊によって自国の商船が脅かされているので、ドイツ艦隊を撃破してほしい、と日本に要請してきた。時の大隈重信内閣(外相加藤高明)は、日英同盟の「情誼(おもいやり)」と日本の国際的地位を高める機会であるという理由で青島攻撃を含む参戦を決定しイギリスに解答した。
 ところが、日本が参戦を機会に中国および太平洋に進出することを恐れたアメリカが反発したため、アメリカを味方にしておきたいイギリスは、日本への要請を取り消した。そこで日本は戦闘地域を限定することで参戦の同意を取り付けた。8月15日ドイツに対し中国海域からの艦隊の撤退と、膠州湾租借地を中国に還付する目的で日本に引き渡すことを勧告し、最後通牒を送った。ドイツからの解答がないので1914年8月23日ドイツに宣戦布告し参戦した。

日本軍の行動

 海軍の一隊は膠州湾を封鎖し、9月2日に山東半島に上陸、1914年11月7日に膠州湾の入り口にある青島要塞を陥落させたためドイツは降伏した。日本軍はドイツ支配地域からはみ出し、山東鉄道に沿って進出、済南に至る地域を占領した。日本は戦後も占領地を中国に還付せず、軍政を敷いた。一方海軍は、ドイツ艦隊を追った一隊が、10月中にマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリンのドイツ領北太平洋諸島を占領した。
 なお、1917年2月には、日本は特殊艦隊を編成して地中海に派遣し、連合国側の艦船の護衛に当たり、その際、イギリス・フランス・ロシア・イタリアから、山東半島と太平洋のドイツ権益を日本が継承することを保障する密約を得た。

二十一カ条の要求

 日本は第一次世界大戦に参戦した翌年、1915年1月に中国の袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を突きつけた。それは山東省のドイツ権益を日本が引き継ぐこと、日露戦争で得た南満州の権益を99年間延長することなど、過大なものであり、中でも第5項で官吏や警察での日本人顧問の採用という保護国化を狙ったものであった。第5項は秘密条項として交渉したが、中国政府が暴露したことによって国際的にも批判され、第5項は取り下げたが、他の領土的要求は5月9日に中国政府が受けいれ、日本の大陸進出が本格化することになった。この動きはアメリカ・イギリスが日本を警戒する動きを強め、日本の大陸政策をめぐる英米との対立の出発点となった。
 この山東問題は、戦後のパリ講和会議で中国代表が抗議したことから大きな問題となった。アメリカのウィルソン大統領は日本の中国への独占的な侵出を警戒、また秘密条約を否定する立場から日本を牽制したが、イギリス・フランスは大戦中の日本との密約があることから強く反対せず、結局は日本の要求が認められ、それに対して中国が強く反発して五・四運動が起きる。

シベリア出兵

 第一次世界大戦の末期、1917年に十一月革命が勃発して、革命政府がドイツとの停戦に乗り出すことになると、アメリカ・イギリスなど連合国はロシア革命に干渉して革命政府を倒し、対ドイツ戦争を継続する勢力を支援しようとした。日本も同調し、1918年には日本軍もシベリア出兵を行い、シベリアで革命政府のパルチザンと戦い、途中、 ニコライエフスク事件で日本軍守備隊が全滅するなど、成果を上げられないまま、22年までシベリアに留まった。
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