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開化派(独立党)

19世紀後半、朝鮮王朝で独立と日本にならった近代化を進めようとした改革派のこと。在京の両班(世襲貴族)出身者が多い。金玉均らの急進派は独立党ともいわれ、清の宗主権から脱して完全な独立を目指し、1884年、日本と結んで甲申政変を起こしたが政権奪取に失敗、勢力を失った。

 外圧に悩む朝鮮王朝(李朝)で、国内改革を行い、独立と近代化を実現しようとした青年政治家、官僚のグループが、宮廷内の保守派に対し、開化派といわれた。名門貴族の知識人で、在京の両班の子弟が多く、1860年代の伝統的儒学者が説く衛正斥邪の思想に飽き足らず、広く世界の情勢を知り、政治に生かす実学の思想の影響を受けた。彼らは一足先に開国し、文明開化を掲げていた日本を模範として改革を進めようとして、閔妃一族などの保守派の事大党と対立したが、70年代に入り大院君に代わった閔妃政権のもとで朝鮮の開国が実現すると、次第に開化派として政権に参加するようになった。
POINT  開化派には急進派から穏健派、日本に近いグループと清に結び使いグループなど幅広い考えが含まれており、一つの党派として常にまとまっていたのではなかった。特に壬午軍乱の頃から金玉均朴泳孝などは宗主権をもつ清の属国という立場から脱して真の独立を求める急進派を形成し、独立党とみなされるようになり、一方の清の宗主権を認める金允植、金弘集などの穏健派と分裂した。一般的には開化派とは日本と結んで改革を進めようとした急進派(独立党、日本党などとも言われる)を指すことが多い。穏健開化派は従来の宗主国である清との関係を守ろうとしたので保守派とされることも多く、また事大党、清国党と重なることも良い。
 80年代、清の宗主権が強まる中、閔妃政権が穏健開化派が占めると急進開化派は一気に日本と結んで権力を握ろうとして1884年にはクーデタ(甲申政変)を敢行したが、清朝と結んだ保守派によって反撃され、独立党は消滅した。穏健開化派はその後も政権を担い、日清戦争の時期には日本に支援されて高宗の政治を支えたが、閔妃暗殺事件、ロシアの介入など政治が混乱する中、最終的には日本による保護国化、韓国併合を許した。

開化派の形成

 朝鮮王朝では1860~70年代初めに大院君政権の下で鎖国が厳守され、激しい攘夷活動が行われたが、1873年に高宗の親政開始とともに大院君にかわり、王妃閔妃とその一派が政権を握ると鎖国の維持は困難となり、1875年にまず日本が江華島事件を起こして開国を迫り、1876年2月に日朝修好条規が締結されて朝鮮は開国へと舵を切った。
金弘集 その年5月、朝鮮は日本に向けて第1回の修信使(江戸時代の朝鮮通信使を改称した)を派遣、日本の近代化に学ぶこととなった。1880年7月、第二回朝鮮修信使として日本に派遣された金弘集(キムホンジプ)は積極的に官庁の視察や諸制度の調査を行う一方、駐日清国公使の何如璋と会談し、彼から黄遵憲筆の『朝鮮策略』という冊子を贈られた。その書から世界に門戸を開き、「万国公法」(国際法)に基づく対等な国家間関係を樹立してロシアなどの欧米各国の脅威にあたらなければならない、そのためにまず「自強」をはかることが必要であると説いており、金弘集は強くその影響を受けた。
金玉均と福沢諭吉 金弘集の幼なじみだった金玉均は、かつてともに1866年シャーマン号事件で活躍した硬骨の官吏で実学を説く朴珪寿が退任後に開いた学塾に学んでいた。江華島事件を機に日朝修好条規が締結されたことに刺激され、日本に学び開化=西欧化を進めることを強く意識するようになった。金玉均は儒教批判の立場から仏教を重視していたが、その時いち早く朝鮮での布教を開始していた日本の本願寺所属の僧侶李東仁と知りあい、1879年、彼を日本に派遣した。李東仁は本願寺浅草別院に逗留し、日本語学習と日本事情の研究を行いながら、慶応義塾の福澤諭吉と初めて接触した。こののち、福沢諭吉と金玉均ら開化派は密接な関係を続けることとなる。
 1881年12月に金玉均は国王の命を受けて日本視察に向かい、翌年3月、東京で福沢諭吉と会見、さらに後藤象二郎、井上馨、大隈重信、伊藤博文など有力政治家とも面談してつながりを持ち、日本に学んで朝鮮を近代化しなければならないという強い意思を持つようになった。
開化派 1881年、金弘集や金玉均の活動と報告が政府(閔妃政権)にもたらされると、すぐさま影響が現れ、軍制改革などに着手された。しかし、従来の衛正斥邪の思想に固執する保守派は大院君らと結んでただち改革に反対し、宮廷内に鋭い対立が生まれることになった。金弘集・金玉均ら改革を進めようとする官人グループは開化派とわれるようになった。この段階での閔妃政権では開化派が主流を占め、保守派は弾圧され、大院君も9月にクーデタが失敗して力を失った。
 こうして1880年代の閔氏政権のもとで、在京の両班の家系で恵まれた環境にあり、新しい知識を吸収することのできた知識人が政府中枢に登用されるようになり、彼らは開化派として活動するようになった。それには、金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、金允植、金弘集などであり、政府の実務に携わると共に外交使節として活躍するようになった。
第二の開国 その間、清の李鴻章が容認したことによって朝鮮のイギリス・アメリカ・フランスなどとの開国交渉が進められ、1882年5月22日に朝米修好条約が締結され、朝鮮は「第二の開国」に踏みきり、86年までにアメリカ以外の諸国との条約も締結されて、朝鮮は全面的な開国となった。
アメリカへの使節派遣 朝米修好通商条約が締結された後、1883年7月にアメリカへの最初の使節が派遣された。正使には保守派の閔泳翊が任命されたが、副使の洪英植、従事官の徐光範など、開化派の若手官僚も参加し、彼らはアメリカでアーサー大統領に謁見したのち、さらにヨーロッパ諸国を歴訪して翌年5月に帰国した。彼らは初めて西洋世界を実見し、大きな成果を得て帰国した。随員の中にはそのままアメリカに残って最初の留学生となったものもあった。<姜在彦『朝鮮近代史』1986 平凡社 p.51>

開化派の分裂

 閔妃政権の開化政策は順調には進まなかった。実権は閔妃一族が握り、政治には不正が絶えなかっただけでなく、開国後の日本への輸出増大により米が不足、物価も高騰し、民衆生活が圧迫されて不安が広がった。そのような中で1882年、7月、軍制改革に不満を持つ兵士の中に給与の米の遅配をきっかけに暴動が起こり、漢城の貧民も加わって壬午軍乱となった。この時、反乱軍は大院君を復活させようとしたが、清は軍を派遣して大院君を拉致し、閔妃政権を助けた。清の介入を要請したのは政権内の金允植、金弘集など穏健開化派だった。ちょうど日本に滞在していた金玉均は清の介入に反発し、穏健派を批判して清からの完全な独立を目指すようになり、その急進的な主張は独立党とも言われるようになった。こうして開化派は穏健派と急進派(独立党)に分裂した。
開化派の活動 1882年9月、壬午軍乱の謝罪使として修信使が派遣され、開化派の朴泳孝が正使となり、金玉均も加わった。この時使節団の船中で制作されたのが現在の韓国の国旗とされている太極旗だった。朴泳孝はこの時22歳の若者であったが開化派の中で最も地位が高く正使に選ばれた。この時随行した金玉均は東京で福沢諭吉らに会い、横浜正金銀行から17万円の借款を受けとり、その多くは開化派の若者が慶応義塾や陸軍戸山学校への留学費用に宛てられた。朴泳孝は帰国後、漢城府尹(知事)に任命され、首都の近代化にとりくみ、独自に日本の軍政に倣った軍制改革を構想した。
 金玉均・朴泳孝ら開化派は福沢諭吉の協力を得て、1883年10月に朝鮮最初の近代的新聞として『漢城旬報』の刊行を開始した。それは漢文による刊行であったが、多くの世界情勢を掲載し、啓蒙的役割を果たした。その他、開化派の洪英植は日本で郵政制度を学び、83年4月の郵政局創設にかかわって近代的郵便制度の先駆けとなった。

甲申政変

 閔妃政権は当初は金玉均・朴泳孝ら急進派も登用し、政治に参加させていたが、清の宗主権が強まると共に穏健派が主流を占めるようになり、急進派は次第に排除されるようになった。その状況に金玉均らは焦りを感じ、日本の協力を当てにして一挙に権力を奪取しようとして1884年甲申政変を起こした。閔氏一派の要人を殺害し、日本に守られて新政権を樹立、清からの自立、門閥打破などを宣言した。しかし、いち早く介入した清軍が急進派とそれを支援する日本軍を制圧して、クーデタは失敗、金玉均、朴泳孝らは日本に亡命した。朝鮮王朝では閔妃政権が復活し、国王高宗の名で甲申政変の責任者として金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、徐載弼を「五賊」として逮捕令を出して追究した。

参考 三人の開化派のその後

金玉均 金玉均は日本に亡命してからも、日本の支援を期待し、朝鮮に戻って独立と開化政策を進めたい希望を持っていた。しかし、閔妃政権は殺し屋を送ってその命を狙いつづけた。日本政府は金玉均の存在を迷惑と感じるようになったか、その身柄を一時は小笠原諸島、さら北海道にへと移している。朝鮮独立の機会をまつうち、李鴻章の誘いがあったことで上海に向かったが、その地で1894年3月、刺客の手にかかり殺害されてしまった。日清戦争の始まる4ヶ月前のことだった。日本でも知る人が多かった金玉均が閔妃政権の手によって清で命を落としたことから、日本人の中にも朝鮮と清を討つべしという声が盛り上がり、日清戦争への世論形成につながった。
朴泳孝 朴泳孝は金玉均と同じく甲申政変に失敗し日本に亡命した。1894年に日清戦争が始まると、井上馨日本公使の講演によって朝鮮に戻り親日派として金弘集内閣の内務大臣に登用された。穏健開化派の流れを汲む金弘集は、そのころ激しくなった東学の運動を押さえるためにも一定の開化策が必要と判断し、日本とも結びながら甲午改革と言われる近代化策を進めたが、朴泳孝はその中心人物として経験を生かそうとした。しかし、閣内の親露派が勢力を強めたため朴泳孝は孤立し、内閣を追われる形となって再び日本に亡命した。
 日露戦争後、日本の韓国の保護国化化が進む中で、1907年に朴泳孝は韓国に戻り宮内大臣となったが、その年に高宗を退位させようとしたことに反対し、済州島に流された。日本は1910年に韓国併合すると、それまでの親日派の中心人物として朴泳孝に侯爵の地位を与え朝鮮の貴族として遇した。朴泳孝は日中戦争中に日本の貴族院議員にも選出された。こうして朴泳孝は日本との親密な関係をそのつど復活させ、朝鮮の近代化を目指したと言えるが、その真の独立を待たず、1939年に死去した。
金弘集 金弘集(キムホンジプ)は金玉均・朴泳孝らと同門の古くかららの開化派の中心人物であった。しかし、1882年の壬午軍乱後、開化派が急進派と穏健派に分かれてたとき、金玉均・朴泳孝らと袂を分かち、より現実的に清の宗主権を認めながら開化を進めていくという穏健開化派を率いることとなった。1884年の甲申政変でも金玉均らに同調せず、保守派である閔妃の一族に協力、保守派と穏健開化派の連立政権に加わった。現実的な政治家であった彼は日本との関係にも意を用いていた。1894年7月、日本軍が王宮を占領して清国派を排除したときには軍国機務処の総裁、さらに8月には総理大臣として日本との協力の上、甲午改革といわれる、科挙の廃止や両班身分の廃止などの近代化政策を推進した。
 翌年、三国干渉によって日本が後退したことで辞職したが、10月に閔妃暗殺事件が起きると再び内閣を組織して混乱の収拾にあたった。しかし、日本人による王妃殺害を追究しないことから反発が強くなり、一気に近代化を進めようとして断行した断髪令も強い反対を受け、各地で開化派と日本に対する反対運動として義兵闘争が起こって窮地に追いこまれた。1896年、ロシアとの関係を強めていた国王高宗が突然ロシア公使館に移ったこと(露館播遷)に驚き、急きょ王宮に駆けつけて対応策を練ったが、閣僚の多くが開化策の放棄、日本との提携解除を主張する中、金弘集は政策を曲げることはできないとして国王を説得に向かおうとした。しかし、王宮を出たところで多数の民衆に取り囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けてその場で絶命した。現実的な穏健改革派であった金弘集は、清と日本のいずれと手を結ぶかで悩みながら、結局日本と結んで実行しようとした開化政策が、民衆の支持を受けることができず、総理大臣でありながら民衆の手によって殺害されるという悲劇となって終わった。
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書籍案内

姜在彦
『朝鮮の攘夷と開化』
1977 平凡社選書

姜在彦
『増補改訂朝鮮近代史』
1998 平凡社ライブラリ
初刊 1977 平凡社選書

趙景達
『近代朝鮮と日本』
2012 岩波新書

月脚達彦編
『朝鮮開化派撰集』
2014 平凡社東洋文庫

金玉均・朴泳孝・兪吉濬・徐載弼の残した文の翻訳