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アフガニスタン(1)

中央アジアの交易路上に位置し、文明の十字路といわれて多くの民族が興亡した。18世紀に独立したが19世紀にイギリス・ロシアの激しい勢力争いに巻き込まれ(グレードゲーム)、一時イギリスの保護国となった。1919年に独立を回復、立憲君主政となったがソ連の影響が強まり、共産主義政権が成立した。その維持を狙い1979年にソ連軍が介入、イスラーム勢力が反発して深刻な内戦となる。その中からイスラーム過激派ターリバーンが政権を取って厳格なイスラーム法に基づく統治を行った。2001年の同時多発テロがおきると、アメリカは国際テロの拠点と見なして侵攻、ターリバーン政権を制圧したが、長期にわたる駐留の負担が大きくなり、2021年8月に撤退、同時にターリバーンが復権した。アフガニスタンをめぐる危機は現在も続いている。

アフガニスタン

アフガニスタンの現在 YahooMapによる





 アフガニスタン(アフガン人の国、の意味)は、パキスタン・イランおよびトルクメニスタンなどの中央アジア諸国に囲まれた内陸国で海に面していない。北東部のパミール高原から伸びるヒンドゥークシュ山脈沿いに広がる山岳部と、南西部に広がる砂漠からなる。西はイラン、北はロシア(その勢力圏にある中央アジア諸民族)、東と南はインド(現在はパキスタン)に接し、東西の交通路として栄え、またパキスタンとの境にあるカイバル峠はアレクサンドロスの東方遠征以来、幾多の東西遠征軍の要衝であった。政治・経済の中心地はカーブルであるが、北部(マザリシャーフ)や南部(カンダハル)の地域的、部族的な分離傾向も強い。現在のアフガニタンとパキスタン国境はイスラーム原理主義のゲリラ勢力が潜伏する地域としてアメリカなどから問題視されている。

(1)アフガニスタンとその周辺の諸王朝の興亡

 古くから内陸交通の要衝であり、文明の十字路とも言われたアフガニスタンには、遊牧民族や商業民族が交錯し、山地には狩猟民が活動していた。北部のアムダリア流域のバクトリア地方には前6世紀中頃、イラン高原に成立したアケメネス朝ペルシア帝国が進出し、ソグディアナとともにその支配においた。前3世紀にはアレクサンドロスの東方遠征がこの地に及び、ギリシア人が入植して、ヘレニズム国家のひとつバクトリア王国が成立した。遊牧民スキタイ系のトハラ(大夏)が活動し、その後、東方から大月氏が移動してきてその支配を受け、ついで同じイラン系のクシャーナ朝がアフガニスタンから北西インドにかけて広範な支配領域を作った。そのもとで北西インドに仏教文化のガンダーラ美術が開花し、アフガニスタンのバーミヤンにもその影響を受けた仏教文化が栄え、巨大な石仏が造営された。その後、イラン人のササン朝ペルシアの支配を受けた。
イスラーム化 イスラーム教化は、10世紀にトルコ系イスラーム政権のガズナ朝が成立したことで遊牧民のアフガン人もイスラーム化が急速に進んだ。中央アジアに広がったイスラーム教は多数派のスンナ派であった。12世紀末にはガズナ朝に代わってゴール朝が成立、ゴール朝もインドへの侵入を繰り替えした。
 その後アフガニスタンは、イル=ハン国、ティムール帝国の支配を受けた。アフガン人はその後もしばしばインドに勢力を伸ばしており、デリー=スルタン朝の最後のロディー朝(1451年成立)を建てたのはアフガン人であった。ティムール朝がウズベク人に滅ぼされた後、アフガニスタンのカーブルを拠点としたトルコ系部族を率いたバーブルは、北インドに進出してロディー朝を倒しムガル帝国を建国した。その直後、ムガル帝国から一時デリーを奪ったスール朝(1539~55)もアフガン系であったが、その支配は短期間で終わり、その後インド亜大陸は、ムガル帝国の時代となり、アフガニスタンはイランのサファヴィー朝(シーア派)とインドのムガル帝国(スンナ派)の抗争の場となった。
 18世紀にはいるとアフガニスタンを支配した周辺勢力が衰退し、アフガン人の自立の動きが出てきた。

参考 「文明の十字路」か、「戦乱の十字路」か

 アフガニスタンは峻厳な山岳地帯と苛酷な砂漠地帯が広がり、産業には恵まれていないが、シルクロードとインド方面とを結ぶルートにあったので、昔から「文明の十字路」と言われ、ヘレニズム文明や仏教、ゾロアスター教、イスラーム教などの文明が交錯する豊かな文化遺産に恵まれた地域であった。しかし、同時にこの地はさまざまな勢力が争う「戦乱の十字路」でもあった。特に近代以後はイギリスとロシアの抗争とアフガン戦争、現代のソ連軍のアフガニスタン侵攻とその後の内戦、タリバーン政権の成立とアメリカ軍の侵攻が続いた。9.11同時多発テロ以降は世界の激震地となっている。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003>


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(2)アフガン王国と英露の侵入

18世紀、アフガン人の最初の国家が建設されるが、19世紀にはイギリスとロシアが進出し激しく抗争した。

アフガン人の国家建設

 1722年にはアフガン人のスンナ派勢力は、イランのサファヴィー朝が、シーア派への転向を要求したことに反発して、イスファハーンに侵攻して破壊した。そのためサファヴィー朝は急速に衰え、1736年に滅亡する。サファヴィー朝に代わったアフシャール朝ナーディル=シャーは反撃してアフガニスタンを支配下に収め、さらに北インドに侵入してムガル帝国の都デリーを略奪した。しかし、ナーディル=シャーの圧政は住民の反発をうけ、1747年に殺害された。その混乱に乗じて、アフガン人の部族勢力が自立し、同1747年、アフガン人(パシュトゥーン人)の最初の独立王国であるドゥッラーニー朝アフガン王国が成立した。しかしアフガン王国も内紛が続き、1826年にはムハンマドザーイー朝(バーラクザーイー朝とも言う。1826~1973)に代わった。

英露のグレードゲーム

 19世紀にはロシアの中央アジア進出が積極的に進められ、それに対してイギリスはインド植民地に対する脅威ととらえ、アフガニスタンはその緩衝地帯となって、グレート=ゲームといわれるかけひきが展開された。イギリスは1838年からアフガン戦争(第1次=1838~42年)という侵略を開始した。この間、1841年にはアフガン軍がイギリス軍を撤退させ、その途中でインド兵、一般人を含むイギリス軍を全滅させるという勝利をおさめた。これはヴィクトリア朝のイギリスが、唯一敗北を喫した戦いとして世界を驚かせた。以後、50~60年代はロシア、イギリスの攻勢も下火となった。
 しかし、1870年代に入ると再び両国の干渉が激しくなり、イギリスは第2次アフガン戦争(1878~80年)といわれる侵略を行った。このときもアフガン王国は激しく抵抗し、一時はイギリス軍を破ったが、外交交渉の末、1880年7月、国王は外交権をイギリスに譲り渡すことに合意し、イギリスの保護国化を受け入れることとなった。
 さらに1893年には、アフガン王国とイギリス領インドの軍事境界線としてスレイマン山脈稜線をさだめた。この境界線は、イギリスのインド総督デュランドが策定したのでデュランド=ラインと言われ、現在のアフガニスタン・パキスタンの国境線となっている。

英露による勢力圏分割

 20世紀に入ると帝国主義的な勢力圏の分割交渉が進み、ロシアは1904年の日露戦争の敗北で後退局面を余儀なくされ、1907年には英露協商を締結してイギリスとの妥協をはかった。それによってロシアとイギリスはイランを両国勢力圏で分割するとともに、アフガニスタンをイギリスの勢力圏とすることなどを認めた。

(3)第3次アフガン戦争と独立回復

アフガニスタン王国は第3次アフガン戦争でイギリスと戦い、1919年に独立回復を承認させた。立憲君主国となり、第二次世界大戦後は中立政策をとった。60年代、ソ連との関係が深まり、左派勢力が台頭した。

 第一次世界大戦中にロシア革命でロシア帝国が解体したこと、インドでの反英闘争が激しくなり、イギリスの植民地支配が動揺したことをうけて、アフガン王国に独立再建の機会が訪れた。

第3次アフガン戦争

1919年5月にイギリス領インドに侵攻し、第3次アフガン戦争となった。アフガン軍がインドに侵攻しイギリス軍と1ヶ月にわたる戦闘を行い、イギリスとアフガニスタンは1919年8月8日ラワルピンディー条約を締結し、イギリスがアフガニスタンの外交権回復を認め、アフガニスタンは独立を回復した。
 しかしアフガン王国は国境をパシュトゥーン人の居住地域であるインダス川までと主張したが、従来のスレイマン山脈稜線のデュランド・ラインとすることをイギリスは譲らなかった。これは後にパキスタンとの間の国境紛争として尾を引く。
 こうしてアフガニスタンは広くイスラーム圏の民族的自立を達成した最初の国となったが、その内部は多民族国家であり、さらに部族対立もあり、王政ではあるが国王は有力な首長の一人に過ぎない状況が続いた。それでも1920年代に立憲君主政国家の建設が進んだ。

第二次世界大戦・冷戦とアフガニスタン

 第二次世界大戦前後の国王ザヒル=シャーは、中立外交を進め、冷戦期にも非同盟・中立を掲げ1955年のバンドン会議にも代表を送った。1960年代には憲法を改定して政党結成の自由など、立憲君主政下の一定の近代化を推進した。
 しかし、隣国パキスタンとは国境問題で対立したため、インド洋方面からの物資の流入が阻まれたこともあって、次第にソ連との関係が強まった。そのような中で1965年、アフガニスタン最初のマルクス=レーニン主義政党である人民民主党が結成され、ソ連の支援を受けて台頭し、軍にも勢力を伸ばした。

(4)共産主義政権成立からソ連の侵攻、そして内戦

第二次世界大戦後、1973年に王政倒れ、78年に共産主義政権成立。イスラーム教勢力との対立強まり、翌年ソ連が介入して侵攻し政権を維持しようとした。それに対するイスラーム勢力の反撃から深刻な内戦に突入した。

1973年と1978年のクーデター

 1973年7月、ザヒル=シャー国王が眼の治療のためにイタリアに渡航中、ソ連で訓練を受けた若手将校らがカーブルの宮殿を占拠し、無血クーデターを成功させた。首謀者の前首相ダウドは直ちに王制を廃止して共和制の導入を表明し、自ら大統領に就いた。ダウド政権はソ連の経済援助を受けていたが、次第に独自色を強め親ソ派の軍人や人民民主党を弾圧し、一族登用など独裁色を強めたため、1978年4月、人民民主党と軍部が蜂起してクーデターを決行し、ダウド大統領は殺害され、タラキやカルマル、アミンら人民民主党政権が成立、4月30日に国名をアフガニスタン民主共和国に変更した。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書>

アフガニスタンの共産政権

 1978年に成立した共産主義政権のもとで農地改革や女子教育などが進められたが、それに対してウラマー(イスラーム法学者)などが伝統の破壊であると強く反発した。また共産主義政権も軍と結んだアミンの独裁色が強まってカルマルなどの穏健派との対立が激化し、それに部族対立がからんで政情不安が続いた。そのような中で世俗化に対するイスラーム原理主義勢力が次第に台頭し、民衆の支持を受けてゲリラ戦を展開するようになった。

ソ連の侵攻

 1979年、ソ連(ブレジネフ政権)はアフガニスタン侵攻を決定、ソ連軍を派遣してアミン政権を倒し、カルマル政権を樹立するとともに、イスラーム勢力に対する弾圧を強化した。しかしイスラーム勢力はソ連軍によって伝統と自尊心を踏みにじられたとして反感を強め、ソ連軍との戦いを聖戦(ジハード)と意義付け、ムジャヒッディーン(聖戦戦士)を組織して抵抗した。ソ連軍・政府軍と反政府軍の戦闘によって多数のアフガニスタン人が、パキスタンやイランに難民となったいった。結局9年間の戦闘でソ連軍は反政府イスラーム勢力を押さえることが出来ず、ゴルバチョフ政権のもとで1988年に和平に踏み切り、アフガニスタン撤退を決定、89年に全軍を撤退させた。


(5)内戦から戦争へ

1989年、ソ連軍撤退とともに、共産勢力とイスラーム勢力の激しいアフガニスタン内戦が続いた。その中から台頭した原理主義集団のターリバーンが2000年までに全土を支配し、権力を握る。ターリバーンは徹底したイスラーム原理主義に基づいた統治を行い、非イスラームの文明破壊、女性の権利の否認、西欧風文化の排除などを進め、西欧諸国から強く警戒され、湾岸戦争後、世界的なイスラーム過激派のテロの温床と考えられるようになった。

アフガニスタン内戦

 1989年、ソ連軍は撤退したが、その軍事的空白の中から、各部族がそれぞれ武装集団を造り、権力を争うというアフガニスタン内戦が始まった。その中で、パキスタンなどの近隣諸国の介入もあってイスラーム原理主義勢力のターリバーンが急速に台頭していった。

ターリバーン政権

 ターリバーン(タリバン、タリバーン)はパキスタンのアフガニスタン難民キャンプで育ったパシュトゥーン人青年を中心に、1994年7月、南部のカンダハールで武装集団として姿を現し、急速に台頭した。翌年には西部のヘラートを押さえ、1996年には首都カーブルを占拠し、2000年までには国土のほぼ90%を支配して、権力をにぎった。ターリバーンは、スンナ派の一分派であるハナフィー派に属し、シーア派との妥協を一切認めず、聖者崇拝を禁止し、歌や踊りなど娯楽的な要素を全面的に否定するという厳格なもので、『コーラン(クルアーン)』に記された原理原則(女性の教育の否定など)を国民に強制した。厳格な宗教理念に基づいた政治を標榜しているが、実際にはアフガニスタンに影響力を及ぼそうとするサウジアラビアやパキスタンからの資金や武器援助も行われていたといわれている。
 ターリバーンがパシュトゥーン人を主体にしているのに対し、タジク人、ウズベク人、ハザル人などは「北部同盟」(正式にはアフガニスタン救国・民族イスラーム統一戦線)を結成し、抵抗を続けた。
経済制裁とバーミアン石仏の破壊  アフガニスタンでは2000年代に入り、深刻な干魃に悩まされるようになった。その背景には、平原を潤していた河川の水源地であるヒンドゥークシュの山岳地帯で、地球温暖化のために積雪量が減少し、そのための雪解け水が減って砂漠が画進んだことによると考えられている。2000年5月、WHOは「1200万人が被災、400万人が飢餓線上にあり、100万人が餓死の危険に直面」していると警告した。これはアフガン戦争後の難民増加の理由となっている。しかし、国際社会は、アフガニスタンに対して2001年、救援ではなく経済政策を課した。これはターリバーン政権の人権抑圧などに対する制裁であったが、100万人の餓死に直面する中での「食糧制裁」を含む経済政策であった。これによってターリバーン政権内の急進派の主張が勢いを持ち、2月のバーミヤン石仏の破壊が強行されたのだった。<中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p.215>


(6)アフガニスタンの現在

2001年9.11同時多発テロがおきると、アメリカはその首謀者ビン=ラディンがアフガニスタンに潜伏しているとして同年10月に侵攻、アフガニスタン戦争を開始し、ターリバーン政権を倒し新政権を樹立した。アメリカ軍の支援で復興と治安回復がはじまったが、ターリバーン勢力はまだ残存し、米軍その他の外国軍の駐留はその後、20年にわたって続いた。人的・財政的負担に行き詰まったトランプ大統領がアメリカ軍の撤退を公約、次いで大統領となったバイデンのもとで2021年同年8月に撤退、アフガニスタン戦争は終結したが、ターリバーンが全土を掌握し、政権が復活した。

 正式国名はアフガニスタン=イスラム共和国。首都はカーブル(日本ではカブールと言われることが多いが、カーブルが正しい)。
 アフガン人とは現在ではアフガニスタンの国民をさし、その多くはパシュトゥーン人であるが、それ以外のタジク人など多数の民族からなる多民族国家であり、民族対立が国家統一の最も困難な要因となっている。

アフガニスタンを構成する主な民族

 アフガニスタンの民族集団は20以上にものぼる。そのうち多数を占めるのが、1.イラン系パシュトゥーン人(アフガニスタンで最も人口が多く、40%を占める。)、2.イラン系タジク人(25%)、3.ハザラ人(10%、モンゴル系とされているが言語はペルシア語系ダリー語を話す)で、ほかにトルコ系ウズベク人と南方のパルーチ人、西北のトルクメン人などがいる。アフガニスタンの宗教は98%がイスラーム教で、そのうち85%はスンナ派(の中のハナフィー派)に属しているが、中央部に居住するハザラ人などはシーア派を信仰している。<渡辺光一『アフガニスタン-戦乱の現代史』岩波新書 2003 p.18>

アメリカのアフガニスタン侵攻

 2001年9月11日9・11同時多発テロが起きると、アメリカ合衆国のブッシュ(子)政権は、その犯人として国際テロ組織アルカーイダの首謀者ビン=ラディンがターリバーン政権に保護されているとして、その引き渡しを要求した。ターリバーン政権がそれを拒否したことを受けて、アメリカと「有志連合」は同2001年10月7日アフガニスタンに侵攻を強行した。
 アフガニスタン内戦は、この2001年のアメリカ軍の攻撃開始により、アメリカ・有志連合対アフガニスタン・ターリバーン政権という、「アフガニスタン戦争」に転化した。
ターリバーン政権の後退 アメリカ軍は、空爆に加えて地上軍を投入、「北部同盟」を支援してターリバーン政権に対する攻撃を強め、11月13日に首都カーブルを奪還した。国連安保理も、ターリバーン政権から北部同盟政権への交代を承認、北部同盟主体でアフガニスタンの復興が図られることとなった。アメリカ軍の保護・監視の下で暫定政権が発足し、国際的支援受けて復興が始まった。しかし、ターリバーンの残存勢力はなおも活動を続け、アメリカ軍も駐留しており散発的な衝突がその後も続いた。

反ターリバーン政権の成立

 2001年10月のアメリカ・イギリス軍のアフガニスタン侵攻と並行して、国連のアナン事務総長主導で、アフガニスタンの暫定政権樹立の準備が進んだ。それはイスラーム教以外の宗教も認める「共和制の世俗政権」とされ、同時に多数派であるパシュトゥーン勢力に配慮して彼らの伝統であるロヤ・ジルガ(国民大会議)を取り込みながら西欧的議会制民主主義を実現させることとなった。11月、首都カーブルからターリバーン政権が撤退したことを受け、ドイツのボンで国連主催の国際会議を開催、アフガニスタンの反ターリバーン勢力の4代表を加えて「ボン合意」を作成、暫定政権を発足させることとなり、カルザイが議長に選出された。同12月22日、カーブルで暫定政権が発足し、23年にわたる内戦に終止符を打った。2002年1月には東京で「アフガン復興支援国際会議」が開催された。
 さらに2002年6月、緊急ロヤ・ジルガが開催され、カルザイが大統領(暫定政府大統領)に選出された。また治安の維持のためには国連安保理決議に基づき20ヵ国から国際治安支援部隊(ISAF)として約5000人の兵士が派遣された。(ISAFは2014年に任務を終えたとして解散、アフガニスタン政府が任務を引き継いでいる。)
 一方、2003年にはイラク戦争が始まり、米軍と世界の関心がイラクに注がれるようになり、アフガニスタンのターリバーンは勢力を温存し、勢力回復の機会を待った。
ターリバーンの勢力回復 2004年には憲法の規定による正式な大統領選挙が行われ、カルザイ暫定大統領がそのまま当選、正式な初代大統領となり、内戦による深刻な国土の疲弊からの回復を図ることとなった。しかし、政府軍を支援する米軍はなおも駐留を続けており、ターリバーンは民衆の根強い支持とパキスタンなどの支援によって次第に勢力を回復して国土の半分を抑えるところまで来ている。政権側には汚職や不正選挙が横行し民衆の支持が離れつつある。最近ではシリアなどからイスラーム国(IS)も入り込むなど、三つ巴の戦闘状態が続いている。アメリカ軍のアフガン侵攻以来を「アフガニスタン戦争」とすると、それはまだ終わっていない。

アフガニスタンと日本

 アメリカ・イギリス軍のアフガニスタン攻撃はテロに対する戦いという大義名分があるとして、小泉純一郎内閣はいち早く支援を表明、2001年11月2日に時限立法としてテロ対策特措法を成立させ、自衛隊派遣に踏み切り海上自衛隊がインド洋で給油活動に従事することとなった。テロ特措法による給油活動に関してはイラク戦争への転用疑惑などがもちあがり、2007年の参議院選挙で民主党が多数を占めて継続反対に回ったため、11月に時限切れで終了した。
 一方、民主党小沢党首は、イラク派兵は国連決議を受けていないと反対し、国連安保理決議によるアフガニスタンの国際治安支援部隊(ISAF)には自衛隊の国際貢献として参加すべきであるという意見を公にした。政府はISAFへの参加は自衛隊の海外での実戦への参加に当たるとして認めていない。自民・公明両党はテロ特措法の後継法律として新テロ特措法を提案、解散がらみの政局で審議が長期化したが、2008年12月12日に参議院は否決したものの、衆議院で再可決されて成立し、インド洋での補給活動が再開されることとなった。

NewS 中村哲医師、襲撃され死去

 2019年12月4日、アフガニスタンのジャララバード付近で、長く現地で医療活動や潅漑用水建築に携わっていた中村哲医師と現地スタッフ5名が何者かに襲撃され、中村医師は6日、死亡した。襲撃犯人は不明で、反政府ゲリラ活動を展開しているターリバーンも犯行を否認している。
 中村氏は1984年にパキスタンのペシャワールに医師として赴任し、らい(ハンセン病)などの治療に当たり、ペシャワール会を組織。その地で多くのアフガニスタン難民の治療にも当たるうちに現地入りを決意し、86年からはアフガンニスタン東部山岳地帯に診療所を設け治療と難民支援に当たった。2000年、深刻な干魃に直面、ターリバーン政権とアメリカ軍の侵攻で苦しむアフガニスタンの民衆救済のため、潅漑用水建設を決意し、独学で土木を学びながら用水を完成させ、アフガニスタン民衆及び政府から感謝され、国際的にも評価された、そのただ中だった。その著書にはアフガニスタンの現状と、国際的支援の困難さ、さまざまな問題点が率直に語られていて、世界を知る最もよい教材のひとつとなっている。<中村哲『アフガニスタンの診療所から』初刊1993 ちくま文庫2005 再刊2020>

トランプ大統領とターリバーンが停戦に合意

 アフガニスタン戦争は2001年に始まり、2020年で20年目に入った。トランプ大統領はアフガニスタンからの撤兵を公約して大統領に当選、2019年11月には、突然アフガニスタンを訪問してガニ大統領とも会談した。その後、アメリカ軍当事者とターリバーンの交渉が続いたようで、2020年2月29日、ホワイトハウスで記者会見したトランプ大統領は、同日「アフガニスタン駐留米軍の撤退についてターリバーン側と合意に達した」と発表、遠くない将来にターリバーン側と直接会うとも表明した。ターリバーンがアフガニスタンでテロ活動をしないことを約束することを条件に、約1万3千の駐留米軍を135日以内に8600人に削減し、条件が満たされれば14ヶ月以内に残りの米軍、NATO軍を完全撤退させると表明した。
(引用)トランプ氏は「みんなが戦争に疲れている」とし、「米兵を帰還させるときだ」と繰り返した。一方で、「悪いことが起きれば、我々は戻ってくる」とも語り、タリバーンに合意を履行するよう求めた。米国にとってアフガニスタンでの戦闘は、2001年の米同時テロを機に始まった「米国史上最長の戦争」だ。トランプ氏には、米軍の段階的な撤退を進めることで、11月の米大統領選で実績としてアピールする狙いがある。<朝日新聞 2020/3/2 朝刊>
 タリバーンは2001年に政権の座を追われた後も、隣国パキスタンの支援を受けながら約18年間戦い、国土の約半分を影響下に収め、厳格なイスラーム国家樹立への自信を深めていた。力で勝るタリバーンが、米軍の後ろ盾が弱まるガニ政権や、かつて激しい内戦を繰り広げた旧北部同盟の軍閥勢力に譲歩する理由はない。対話の決裂を見越して軍閥勢力は内戦準備に取りかかっている。新たな内戦に陥る懸念が高まっている。<同上朝日記事 法政大学名誉教授多谷千香子氏の解説>

アフガニスタン戦争の終わり

 2020年の大統領選挙で勝利したバイデン大統領も、アフガニスタンからの撤退を公約としたので、当選後その実行に着手し、2021年9月に撤退を決定した。しかしターリバーン側がほぼ全土を制圧する中、2021年8月15日にターリバーンが首都に入りガニ大統領が脱出して崩壊、ターリバーン政権が復活した。前政権崩壊に伴い、多くの民衆がアフガニスタンを脱出しようとして混乱が生じた。この後も多くの難民の出現も懸念される。
 いずれにせよこれによって20年間続いたアフガニスタン戦争は終わり、アメリカ軍の駐留という異常事態そのものは終わりを迎えた。この後は旧政府側の反撃も予想されるが現実には困難と見られており、国内の治安が回復されるか、ターリバーン政権がイスラーム原理主義を掲げる中で、実際に人権や民主主義を守る政権として国際社会に受け入れられるようになって、各国の承認を得られるかどうかが焦点となっていくこととなろう。
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書籍案内

渡辺光一
『アフガニスタン-戦乱の現代史』
2003 岩波新書

中村哲
『アフガニスタンの診療所から』
2005 ちくま文庫

青木健太
『タリバン台頭――混迷のアフガニスタン現代史』
2022 岩波新書