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アンリ4世

16世紀末、フランス・ブルボン朝を創始。ユグノー戦争の最中、プロテスタントながら1589年に即位。1593年、カトリックに改宗しパリに入る。1598年、ナントの王令を出してプロテスタントを公認、ユグノー戦争を終わらせた。フランスの主権国家体制を確立に導いた。

 フランスブルボン朝を開いた国王(在位1589~1610)。ヴァロワ家との血縁のあるブルボン家のナヴァル王であり、王位継承権を持つ親王家の筆頭であった。しかし、母の影響でプロテスタント(フランスではユグノーと言われた)の信仰を持って育った。新旧両派の対立からついにユグノー戦争が起こると新教派の中心人物として人望を集めることとなった。

ユグノー戦争

 ユグノー戦争は1562年から、断続的に戦闘が繰り返された。宮廷で実権を持つ摂政カトリーヌ=ド=メディシスは、新旧融和策をとって、アンリと娘マルグリット(マルゴ)とを結婚させたが、一方で新教派の台頭を恐れ、1572年、二人の結婚式を祝して全国からパリに集まってきた新教徒を襲撃して多数を殺害した。これがサンバルテルミの虐殺である。この時アンリは難を逃れたが王宮にとらわれの身となり、強制的にカトリックに改宗させられた。その後も自由を束縛され、新教徒との戦いに従軍させられたりしていたが、ようやく1576年に脱走し、新教に戻り、ギュエンヌ地方を基盤に新教徒軍を率いて戦った。

ブルボン朝を開く

 1585年からはブルボン家のアンリは新教派の中心として、国王アンリ3世、旧教派「カトリック同盟」のギーズ公アンリ、との三アンリの戦いが続き、彼はパリにはいることができず、各地を転戦した。1589年には、国王アンリ3世が暗殺され、ヴァロワ朝が途絶えると、王位を継承してアンリ4世となりブルボン朝を開くこととなった。しかし、新教徒であるアンリ4世を国王とは認めない旧教派勢力も多く、彼らは別に国王を立ててパリを押さえ、フランスは分裂状態となった。

カトリックに改宗

 旧教派内部も大貴族間の争いが続いて統一されず、またこのような状況につけこんでスペインが介入してきたため、アンリ4世は国家の統一を守るために改宗を決意、1593年にカトリックに入信した。その上でスペインと戦って破り、カトリック派も抵抗をやめてアンリ4世を国王と認めざるをえなくなった。1594年3月、アンリ4世はようやくパリに入城し、ノートルダム寺院で民衆から「国王万歳」の歓迎を受け、ようやく統一を回復した。

Episode アンリ4世の「とんぼがえり」

(引用)1593年7月23日付で、アンリ4世がその寵姫ガブリエル・デストレへ送った書簡が残っていますが、25日(日曜日)の改宗を前に目前に控えて、アンリは次のように書いています。『この日曜日に、私はひとつトンボかえりを打つことにしています。』 伝説ですが、アンリ4世は、「ひとつとんぼがえりをうつことにする。パリを手に入れられるのなら、ミサ聖祭(旧教の)ぐらい受けてやることにしてもよい」と言ったとも伝えられています。あまり穿ちすぎているようですが、アンリ4世の物を物と思わぬ不逞さが窺える言葉です。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.193>

ナントの王令

 一方の新教徒はアンリ4世の改宗を非難し、なおも武装をつづけていたので、新国王は交渉を重ね、ようやく1598年に「ナントの王令」を出してプロテスタントの信仰を認めるとともに、その活動を制限することに成功し、宗教対立の解消を一応実現し、ここにユグノー戦争は終結した。

海外進出の開始

 その後王権の強化と国庫の再建、商工業の奨励に務めた。ユグノーの新教徒は商工業者が多かったので、平和の実現とともに生産力も上がった。統一の実現した後、海外植民地獲得に乗りだし、1608年にシャンプランが北米大陸のセントローレンス川中流域を探検し、その地にケベックを建設し、北米大陸進出の足場をつくり、その地はフランス領カナダとなった。
 しかし1610年5月14日、アンリ4世は狂信的なカトリック信者の青年によって暗殺された。王妃マルゴとは子供がなかったので、既に離婚し、フィレンツェ(トスカナ公国)出身のマリ=ド=メディシスを王妃として迎えており、その間に生まれたルイ13世が8歳であったが即位し、母后マリーが摂政となり、ついで宰相リシュリューが登場してブルボン朝は安定に向かう。

アンリ4世の「国際連盟」計画

 王の宰相として仕えたシュルリーの『覚書』によれば、アンリ4世は「大計画」といわれる<夢>をもっていた。王は、キリスト教国家間の国際連盟のようなものを夢想していた。即ち、新旧両教の差別はもちろん問題外とし、各国はお互いの領土や主権を尊重し合い、国際軍のごとき物を作り、この連盟全体の和平を乱す国を制裁し、永久平和を保とうという機構だった。この計画の裏には、神聖ローマ皇帝とスペイン王を出しているハプスブルク家の圧力に対して、フランスを中心とするヨーロッパ各国の連合という問題も含まれていた。6つの世襲王国(スペインを含む)と、6つの選挙制君主国(神聖ローマ帝国など)と、三つの共和国とが、国際裁判所と国際軍とを持ち、ヨーロッパの和平を保つというのが眼目であって、まさに国際連盟・国際連合の先駆といってよい。事実、1610年、弱小国を威圧していたハプスブルク家に対して、その他の諸国が兵力を出し合い、総計23万8千の国際軍を動かすところまでいったが、実行される前の5月14日に、アンリ4世が刺殺されて計画は水泡に帰した。<渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』 岩波文庫 p.197-198>

Episode 王妃マルゴ

 ブルボン家のアンリはカトリーヌ=ド=メディシスの娘の王女マルゴ(マーガレット)と政略結婚した。しかしこの結婚は不幸だった。マルゴは母に似ず美しかったと言うが、夫を愛することができずピレネーの山男とさげすみ、愛人をつくっていた。夫アンリもマルゴには目もくれず、これまた沢山の愛人をもっていた。このあたりはアレクサンドル=デュマの小説『王妃マルゴ』に詳しい。またそれを原作にした映画もつくられている。
 さて問題は二人に子供がなかったことだった。アンリは国王になると、マルゴを離婚しようとした。ところがカトリック教徒になったのだから離婚は認められない。特別に離婚を認めてもらうにはローマ教皇から、この結婚が間違えていたものであると認めてもらう必要がある。アンリが妃にしたかったのはガブリエル=デストレという女だったが、身分の低い女であったので、マルゴはプライドからローマ教皇に裏から離婚を認めないよう画策した。問題がこじれていくうちにガブリエルが病死した。そこで浮上したのがイタリアのトスカナ大公の姪マリー=ド=メディシスだった。アンリはメディチ家からの借財もあり、メディチ家側もカトリーヌに続いてフランス王と縁戚になれば有利だからローマ教皇に働きかけてくれるだろう・・・。
 アンリの思惑通り、ローマ教皇がマルゴとの離婚を承認、マリーとの結婚が成立した。アンリ46歳、マリ26歳、二人はまだ顔さえ知らなかったが、1600年11月、マリーは二千人のイタリアからの付き添いを引き連れてパリにやってきた。マリーはフランス語も話せず、夫のアンリは相変わらずの好色ぶりで他に多数の愛人をつくっていたが、めでたく王子が誕生、後のルイ13世となりブルボン家は安泰となる。一方、離婚されたマルゴの方は、その後も自由気ままな生活を送り、愛人と暮らしながら68歳まで生きたという。

News アンリ4世の頭蓋骨、発見される

 2010年12月15日のAFPニュースによると、アンリ4世の頭蓋骨とされるミイラ化した頭部が、本人のものであると証明されたと、フランス法医学チームが発表したという。アンリ4世の遺体は、パリのサン=ドニ大聖堂のブルボン家墓所に葬られていたが、フランス革命中の1793年、墓所から遺体が引きずり出され、バラバラにされた上で土中に埋められたという。その後、掘り出された頭蓋骨はさまざまな人の手に渡り、行方が判らなくなっていた。今回発見されたアンリ4世の頭蓋骨といわれるものを、フランスのレイモンド=ポワンカレ大学病院のフィリップ=シャルリエ氏率いる法医学チームが調査し、当時の肖像画との一致、1594年の暗殺未遂事件の時の傷跡、放射性炭素年代測定、3DスキャナーによるX線撮影などによって確証が得られたとして、イギリスの科学誌ブリティッシュ・メディカル・ジャーナルに発表した。頭蓋骨は約200年ぶりにサン=ドニ大聖堂に戻される予定だという。これが事実であれば、アンリ4世は1610年に暗殺されているので、没後400年にして本来の墓地に帰ることになる。
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書籍案内

渡辺一夫
『フランス・ルネサンスの人々』
岩波文庫

アレクサンドル・デュマ
『王妃マルゴ』
上下 河出文庫

小園隆文
『「人ったらし王」アンリ4世の生涯』
2017 オンデマンド (ペーパーバック)

ハインリヒ・マン/小栗浩訳
『アンリ四世の青春』
1989 晶文社