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ユグノー戦争

16世紀後半のフランスでのカトリック(旧教徒)とカルヴァン派(新教徒)の宗教戦争。貴族間の対立、外国の干渉、都市と農民の動きなどがからんで長期化し、新教徒であったブルボン家アンリがカトリックに改宗してアンリ4世として即位し、さらにナントの王令で新教の信仰を認めて収束させた。

 1562年~98年にフランスで展開された、新教派と旧教派の内戦である宗教戦争の一つ。フランスでは単に「宗教戦争」(Guerres de religion)という。宗教改革者の一人、カルヴァンはフランスを逃れてジュネーヴで改革にあたったが、その思想は早くからフランスに影響を与え、カルヴァン派の新教徒がフランスでも増加していった。

ユグノーの増加とその意味

 急成長した新教徒に対し、ヴァロワ朝アンリ2世(フランソワ1世の子)は厳しく弾圧を加えたが、カルヴァン派は商工業者層を中心に、貴族にもその信者を広げていった。当時、貴族たちは商工業者の勃興、王権の強化の中で不安定な状態に置かれていたので、疑心暗鬼となり、互いに党派をつくって争っていたが、それに新旧両教派の対立が結びついたと言える。旧教派は大貴族ギーズ(ギュイーズ)家などを中心に「カトリック同盟」を結成、新教徒はコリニー提督や新興貴族ブルボン家と結んで改革派といわれた。カトリック側はカルヴァン派の新教徒をユグノー(乞食野郎、といった意味)と呼んで罵り、新教徒はカトリック教徒をパピスト(教皇の走狗)といってやりかえした。その中間には、高等法院の裁判官や官僚たちが国家統一のために宗教間の融和を説く穏健派である「ポリティーク派」があった。

カトリーヌ=ド=メディシス

 1559年のアンリ2世死後、フランソワ2世が即位したがまだ幼かったため、母后カトリーヌ=ド=メディシスが摂政となった。彼女は、王権強化の立場から新旧両派のバランスをとろうとして策を弄したが、フランソワ2世の皇后の伯父である旧教徒ギーズ公が国王の名を借りて盛んに新教徒弾圧をはかると新教勢力も反発し、両派の対立は深刻になっていった。1560年、幼帝フランソワ2世が急死し、弟のシャルル9世が9歳で即位するとギーズ公の力は後退し、母后カトリーヌが実権を握った。

ユグノー戦争の開戦と長期化

 1562年1月、摂政カトリーヌ=ド=メディシスは、新教徒勢力を利用しようと考えて、新教徒の信仰の自由を認める勅令を発した。それに反発した旧教派のギーズ公の軍隊が、1562年3月1日にシャンパーニュ地方のヴァッシーで日曜礼拝をしていた新教徒74名を虐殺した事件を機にユグノー戦争が勃発、以後40年近く、両派の戦争は1次から8次まで断続的に繰り返された。
サンバルテルミの虐殺  摂政カトリーヌ=ド=メディシスは娘マルグリットと新教派ブルボン家のアンリ(フランス南ア西部の小国ナヴァール公)の結婚を画策、両派の融和をはかった。しかし、新教派の有力者コリニー提督は折からのオランダ独立戦争でのオランダ新教徒の支援を主張、それが実現すればスペインとも戦わなければならなくなることを恐れたカトリーヌと旧教派は、1572年8月23日、アンリとマルグリットの結婚式にパリに集まっていたコリニー提督以下の新教徒を殺害した。それは一気にパリ市内での新教徒虐殺に拡大、さらに地方にも波及、全国で新教派多数が虐殺されるというサンバルテルミの虐殺の惨状となった。
 ユグノー戦争にはイギリスやスペインなどが新旧両派の支援に介入し、国際紛争の様相も呈した。この間ブルボン家のアンリはサン=バルテルミの虐殺以来、宮廷にとらわれ、カトリックに強制改宗させられていたが、1576年に脱走し、新教徒の拠点ラ=ロシェルに入城、新教徒に戻ってその指揮者となる。一方、宮廷の旧教派には摂政に不満な大貴族が新教徒側につくなど、内紛が生じた。旧教側は結束を図り、ここで「カトリック同盟」が結成された。

三アンリの戦い

 1585~89年 国王アンリ3世(若いころは選挙王制のポーランドで国王に選出されたことがある)と旧教派のギーズ公アンリ、新教派のブルボン家アンリの三人のアンリが互いに戦った。この三人のアンリは幼なじみであったが、ユグノー戦争の過程で争うことになった。その背景にはアンリ3世に後継者が無くなり、王位継承法で言えば最も血統が近いのがブルボン家のアンリであるが、彼が新教徒である、という複雑な問題であった。
 はじめアンリ3世とギーズ公アンリ(「向う傷」とあだ名されるほど新教徒に恐れられていた)が手を結び、ブルボン家のアンリに改宗を迫った。ローマ教皇も新教徒という異端がフランス国王になることは認めないという教書を発表したが、「ポリティーク派」は教皇の干渉に反発して新教派に荷担した。こうして1587年、クートラの戦いで両軍が衝突、国王・旧教派にはスイス人傭兵を加えて7万、新教派・穏健派連合軍はイギリス・デンマーク・ドイツ諸侯から資金援助を受けたが兵力は劣勢であった。しかしブルボン家のアンリの指揮のもと、新教派・穏健派連合軍が勝利を占めた。しかし、その直後、ギーズ公アンリがドイツから派遣された新教徒支援軍を打ち破り、その人気が高まったため国王との仲が悪化し、ギーズ公は1588年パリに強制入城して国王を追い出してしまう。やむなく国王アンリはブロワ城に三部会を召集するという口実でギーズ公アンリをまねき、城内で暗殺してしまった。国王はパリに再入城を謀ったが、その前にギーズ公暗殺に反発したパリの熱烈な旧教徒によって暗殺されてしまう。

アンリ4世の即位と改宗

 1589年8月1日に暗殺されたヴァロワ朝国王アンリ3世は、子供がなかったので臨終の床にブルボン家のアンリを呼び、王位の継承を約束したと言われているが、その真偽は分からない。アンリは、自らは新教徒であるが、フランスにおいてカトリックを維持する宣言書に署名してアンリ4世となった。つまり新教徒の国王が誕生し、新たにブルボン朝が開始されたが、新教徒の国王を認めない「カトリック同盟」は別に国王を立て、フランスは二分されることになった。当時、パリはカトリック同盟が抑えており、アンリ4世を支持する勢力は少なく、「王国無き国王」の状態だった。アンリ4世はイギリス・オランダ・ドイツの新教諸侯から資金援助を受けて1590年、パリを包囲したが、そこに旧教国スペイン軍の援軍が到着、アンリ4世も両面での戦争を避けてパリ包囲を解いた。
 パリのカトリック同盟は三部会を召集して新しい国王を選出しようとしたが適当な人物が無く、そこにスペイン王フェリペ2世が娘をフランス王にせよ、と圧力をかけてきた。しかし高等法院が外国人の女性の国王選出は無効であると決定したため、カトリック同盟も動きがとれなくなり、カトリック改宗を条件にアンリ4世を認めるしかないと考えるようになった。このような情勢を見たアンリ4世とその側近の新教徒は、改宗を決意、1593年7月25日にサン=ドニ教会の大司教の前でカトリック信仰にはいることを誓った。翌94年2月にはシャルトルでカトリック教会が国王就任を認める成福式を挙行した。通常、国王としての聖油を受けるこの儀式はフランク王国以来、ランスで行われるのが慣行であったが、当時ランスがまだカトリック同盟側に抑えられていたのでシャルトルで行われたのだった。成福式を行ったことで民衆もアンリ4世を国王として認めることとなり、同年3月、アンリ4世はようやくパリ入城を果たし、ノートルダム大聖堂のミサに参加して群衆から「国王万歳」の声が上がった。さらに4月10日には歴代の王にならって「病を治す奇蹟」の儀式を行い、630名の「病人」に手を「触れた」。こうして他のカトリック同盟側の都市も降服し、アンリ4世はようやく実質的にもフランス王と認められた。

スペインとの戦争とナントの王令

 1595年1月、アンリ4世はスペイン軍との衝突を機に、スペインに宣戦布告した。アミアン付近での6ヶ月にわたる戦争の結果、講和した。これはユグノー戦争中のスペインによる「カトリック同盟」に対する支援を口実とした介入を排除することによって、国内を一致させ、スペインと結ぶカトリック同盟を追い込むねらいがあった。その目論見はうまく行き、カトリック同盟の最後の指導者マルクール公が帰順してその抵抗は終わった。
 残る問題は、新教徒勢力であった。新教徒側は当然ながらアンリ4世の改宗に反発していたので、スペインとの戦争中に交渉を重ね、1598年4月13日、双方の妥協が成立してナントの王令を出し、カルヴァン派新教徒(プロテスタント)の信仰を認めたので、宗教対立を終わらせた。
注意 アンリ4世の国王即位、改宗、そしてナントの王令が一挙に行われたのではなく、時間がかかっていることに注意しよう 。またアンリ4世がカトリックに改宗した背景に、国内の内戦の収拾と共に、スペインの介入を警戒したことも押さえておこう。

参考 その後の宗教対立とその克服

 アンリ4世による新教徒の信教の自由の承認は、完全なものではなく、問題は残った(ナントの王令の項を参照)。また、もちろんこれでフランスが新教国になったわけでは無く、カトリックの勢力は依然として存続した。一方、ドイツでは1555年のアウクスブルクの和議で一応新教徒の信仰が認められたが(それも不完全なものだったため)、1618~48年にヨーロッパの新旧両派が二陣営に分かれて戦った宗教戦争である三十年戦争へと展開していく。
 その間、フランスではカトリック勢力が盛り返し、1685年にブルボン朝のルイ14世によってナントの王令は廃止されてしまう。フランスはその後、カトリック国として続き、新教徒やユダヤ人への差別も続いた。18世紀にはヴォルテールなど啓蒙思想がカトリックの不寛容をきびしく批判したが、宗教の自由が実現するのはフランス革命を待たなければならない。フランス革命で国家とカトリック教会の分離が図られ、信仰の自由が実現したが、その後ナポレオンのコンコルダートで一時カトリック教会と国家の和解が成立し、その後もフランス社会でのカトリックの優位が続いた。その不寛容の悪弊は、19世紀のドレフュス事件にみる反ユダヤ感情のように、ときおり表面化した。ようやく1905年に政教分離法が制定されてライシテの原則が確立した。フランスでキリスト教信仰上の対立が少なくとも表面から消えたのは、20世紀の初頭、たかだか約100数年前であった。カトリック教会がサンバルテルミの虐殺に対して謝罪したのは、1997年のことである(サンバルテルミの虐殺の項を参照)。
 21世紀の現代は、フランスで移民の増加に伴うイスラーム教徒との軋轢が表面化している。フランスで宗教批判の自由の立場からムハンマドやムスリムを諷刺する雑誌などが現れ(2015年1月、シャルリー=エブド社襲撃事件)、それに反発するイスラーム過激派のテロが起き(同年11月、パリ同時多発テロ)、それがイスラームに対する不寛容をさらに強めるという、新たな宗教対立ともいえる事態となっている。互いに寛容の精神を取り戻すには、これまでも宗教対立、宗教戦争という悲劇がくりかえされ、そしてそれを克服してきたという歴史を知ることが第一歩であろう。
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長谷川輝夫
『聖なる王権ブルボン家』
2002 講談社選書メチエ