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アウクスブルクの和議

1555年、ドイツのアウクスブルクで開かれた帝国議会で、プロテスタント(ルター派)の信仰を認めた決定。ただし「領主の宗教がその地に行われる」という領邦教会制の原則であったので、農民には信仰の自由はなく、領主の信仰に従わなければならなかった。三十年戦争の講和条約、1648年のウェストファリア条約で確認された。

 兄のカール5世から、神聖ローマ帝国の実質的支配を任されることになっていた弟のドイツ王(形式的にはローマ王を名乗り、同時にオーストリア大公などを兼ねていた)フェルディナントは、1555年、南ドイツ、アウクスブルクに帝国議会を召集し、宗教対立を収束をはかった。その結果、「領主の宗教、その地に行われる」ことを原則にした「アウクスブルクの和議」が成立し、プロテスタントの存在が正式に認められた。これによってルターを異端とするヴォルムス帝国議会でのヴォルムス勅令は効力を失い、ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民はただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則(領邦教会制)となった。したがってプロテスタントが認められたと言っても、領主にとっての選択の自由であり、領民すべてに宗教の自由が実現したのではなかった。またこの場合のプロテスタントとは、ルター派のことをいい、カルヴァン派はまだ想定されていなかった。
注意 カール5世の動向 このとき、神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)はうち続くイタリア戦争、国内の新教諸侯との戦争などで体力と精神を消耗したらしく、実権を弟フェルディナントに託していた。このときフェルディナントはドイツ王(形式的にはローマ王)と称した。同時にオーストリア大公を兼ね、ボヘミアとハンガリーも支配していた。アウクスブルクの帝国議会もフェルディナントが主導した。翌56年、カール5世は引退し、スペインの修道院に隠棲したため、フェルディナントが神聖ローマ皇帝フェルディナント1世として即位する。なお、彼はドイツ王でもあり、本拠はウィーンにあった。スペイン王はカールの子のフェリペが継承したので、ここでハプスブルク家は分裂することとなった。
アウクスブルクの和議の意義と限界  こうして1517年に始まったルターの宗教改革からもたらされたドイツの内部の宗教対立によるシュマルカルデン戦争(1546~47年)などの宗教戦争は、一応の決着を見た。しかし、アウクスブルクの宗教和議でドイツ諸侯と都市が新教徒であることは認められたが、すべての人の信仰の自由が認められたわけではなかったので、農民の不満は残った。また、ドイツ統一問題とからんで領主間の対立は依然として続き、旧教側に立つ神聖ローマ皇帝と新教諸侯の対立はその後も深刻であった。その対立からドイツでは1618年に最大の宗教戦争である三十年戦争が勃発する。

「領主の宗教がその地に行われる」

 1555年のアウクスブルクの和議で成立した、ドイツにおけるキリスト教新旧両派の妥協の原則。ルター派を選ぶか、カトリックに留まるかの選択は諸侯と各都市の当局(市参事会)に委ねられ、住民はただその決定にしたがうのみとされ、一領邦一宗派の原則となったことを言っている。なお領主の選択に従えないものは他の領邦に移住することはできた。これによって領主レベルでは信仰の自由が認められたわけであるが、領民は領主の信仰に従わなければならないというこの体制を領邦教会制といっている。

ウェストファリア条約で確認される

 三十年戦争はドイツ諸侯間の対立に留まらず、ヨーロッパの新旧両派の諸国か介入し、ヨーロッパ諸国間の戦争へと発展し、1648年に終結し、講和条約としてウェストファリア条約が締結された。ウェストファリア条約で、アウクスブルクの和議の原則があらためて確認され、またカルヴァン派の信仰も認められることとなった。ウェストファリア条約により、ヨーロッパ諸国の対立軸は1世紀にわたって展開された宗教戦争という枠組みから、主権国家間の戦争という枠組みへと転換した。
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