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オーストリア=ハプスブルク家

13世紀から続くハプスブルク家の本流。1556年にスペインの同家と分離し、神聖ローマ皇帝を継承してオーストリアを中心とした中欧を支配、1806年神聖ローマ帝国は終わったがその後もオーストリア皇帝として1918年まで存続した。

 神聖ローマ帝国の皇帝位を1273年から続けている、ハプスブルク家の本流。オーストリアを領有し、ドイツ王も兼ねていたが、カール5世が1516年スペイン王(カルロス1世)となってからはスペインも支配下においた。1556年、カール5世の皇帝位退位後、オーストリアはカールの弟フェルディナント1世が継承し、スペインはカールの子フェリペ2世が継承したのでハプスブルク家はオーストリア=ハプスブルク家とスペイン=ハプスブルク家に分かれた。 → ハプスブルク家の分裂 ハプスブルク帝国
 オーストリア=ハプスブルク家の君主として重要な人物は次のとおり。高校段階ではすべて覚える必要はもちろんない。※印は高校の用語集には出てこない人物。なお、在位はレオポルト2世までがマリア=テレジアを除き神聖ローマ皇帝としての期間。フランツ1世からはオーストリア皇帝となる。

フェルディナント1世(在位1556~1564)

 オーストリア=ハプスブルク家の初代フェルディナント1世 Ferdinand Ⅰは、マクシミリアン1世の子フィリップ(フェリペ)とスペインのイサベルフェルナンドの間の娘ファナの次男で、兄がスペイン=ハプスブルク家初代のカルロス1世(神聖ローマ帝国皇帝カール5世)。スペインで生まれ、ネーデルラントで育ったフェルディナントはドイツ語が話せなかったが、ウィーンに入ってからは努力してドイツ語、さらにチェコ語、ハンガリー語も理解できるようになった。またウィーンの宮廷にネーデルラントの高度な文化を持ち込んだ。
オスマン帝国との戦い カール5世は神聖ローマ皇帝であったがスペインにいることが多く、ハプスブルク家の本拠ウィーンには弟のフェルディナントがいた。フェルディナントの妹マリアはボヘミア(ベーメン、チェコ)とハンガリーの国王を兼ねるラヨシュ2世の妻であった。そのころ、ウィーンのハプスブルク家を脅かしていたのは宗教改革の動きとともに、バルカン半島に迫るオスマン帝国の圧力であった。
ベーメン、ハンガリーを領有 オスマン帝国のハンガリーへの侵攻が強まる中、1526年モハーチの戦いで神聖ローマ帝国はベーメン・ハンガリー王のラヨシュ2世を支援して戦ったが敗れ、ラヨシュ2世が戦死してしまった。そのとき、ラヨシュ2世の妻マリアがフェルディナントの妹であったので、フェルディナントはベーメン(チェコ)・ハンガリー王を兼ねることとなった。
第一次ウィーン包囲 1529年、オスマン帝国のスレイマン1世がウィーンを包囲(第1次)したときも、それと直接戦ったのはフェルディナントのオーストリア軍でだった。ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲され、危機に陥ったが、ポーランドからの援軍が到着したことと、冬が到来したことからオスマン軍が引き揚げたため、危機を脱した。
アウクスブルクの和議 フェルディナントはまた、プロテスタントとの戦いにも直面していた。カールは晩年、健康を害し、長い戦争に疲れてしまい、1555年のプロテスタントとのアウクスブルクの和議の交渉も弟フェルディナントにまかせたのだった。弟フェルディナントにはオスマン帝国とプロテスタントという両面の敵からウィーンを守った実績があったので、カール5世も家督を分割し、神聖ローマ帝国の位は彼に譲らざるを得なかった。
スペイン系とオーストリア系の分離 こうして1556年、ハプスブルク家はスペインとオーストリアに分裂、オーストリア=ハプスブルク家のフェルディナント1世として即位、神聖ローマ帝国皇帝の位を代々選出される(形式的には依然として選帝侯によって選出されることになっていた)こととなった。オーストリア=ハプスブルク家はその支配領域を中部ヨーロッパに広げることとなった。ただし、この時点ではハンガリーの大部分はオスマン帝国の支配下にあった。
宗教対立の深刻化 アウクスブルクの宗教和議は領主の信仰の自由に留まっていたので、16~17世紀は、宗教的対立は解消されていなかった。神聖ローマ皇帝位はフェルディナント1世の後、マクシミリアン2世、ルドルフ2世と継承されたが、帝位をめぐって争うことが多く安定せず、都もプラハに移され、その間、都市や農村での信仰の自由を求める声が強くなった。特に帝国領のボヘミア(チェコ)ではフス以来の反カトリックの勢力が強く、ハプスブルク家の皇帝はその制御に苦慮することとなった。

フェルディナント2世(在位1619~1637)

三十年戦争 フェルディナント1世の孫のフェルディナントボヘミア王として、領内にカトリックを強要しプロテスタントを弾圧した。それに対して1618年にプロテスタントが反発しベーメンの反乱が始まった。翌年、神聖ローマ皇帝に即位したフェルディナト2世は1620年のプラハ郊外のビーラー=ホラの戦いでプロテスタント軍を破りカトリック化に成功したが、ドイツでは新旧両派の諸侯の争いに外国が介入して、三十年戦争へと深化してしまった。皇帝軍はヴァレンシュタインが活躍して、新教徒軍のスウェーデン王グスタフ=アドルフらと戦ったが、フェルディナント2世とヴァレンシュタインが反目するなど、不安定な戦いが続いた。ヴァレンシュタインが殺害されたのもフェルディナント2世の指示といわれている。フェルディナントの死後、ようやく1648年に講和条約としてウェストファリア条約が締結され、領邦国家への分裂が決定的となった。その中で、ドイツ北東部ではプロイセンが有力となっていった。
 三十年戦争後、オーストリア帝国はカトリック体制の強化が進み、特にイエズス会に依存するようになった。宮廷文化が開花し、フェルディナント3世、レオポルト1世と続いた皇帝は、いずれも自ら作曲をするなど音楽の才能を発揮した。

※レオポルト1世(在位1658~1705)

第二次ウィーン包囲 その後、オーストリアは国内の体制を固めながら、1683年にはオスマン帝国による第2次ウィーン包囲の危機を脱して、かえってオスマン帝国の弱体化に乗じてバルカン方面への進出を開始し、フランス生まれの軍事的天才オイゲン公の活躍もあって、1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーを奪回した。
スペイン継承戦争 さらにレオポルト1世は、スペイン=ハプスブルク家の断絶すると次男カールにスペイン王位を継承させようとして、フランス王ルイ14世と対立し、1701年からスペイン継承戦争を戦った。オーストリアはイギリス、オランダ、プロイセンなどと共に対フランス同盟を結成して有利な戦いを進めた。結局、スペイン王位はルイ14世の孫フェリペ5世が継承することで戦争は終わったが、1714年ラシュタット条約ではスペイン領であった南ネーデルラント、ミラノ、サルデーニャなどを獲得して実利を得て、大国としての地歩を固めた。
バロック皇帝 レオポルト1世は「バロック皇帝」とあだ名されるほど、自ら音楽を作曲し、演奏もしたことで知られる。少なくとも155の合唱曲とアリア、約80の教会音楽、17のバレー曲、9つの野外音楽劇を作曲した。バロックとは17世紀のヨーロッパ芸術の大きな傾向を総称し、華麗な宮廷文化に見ることができる。ウィーンでもヴェルサイユ宮殿に模した、シェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿など、華麗なバロック建築がこの時代に盛んにつくられた。

カール6世(在位1711~1740)

プラグマティッシェ=ザンクチオン カールは若い頃、父レオポルト1世がスペインのハプスブルク家を継承させおうとしたためスペインで暮らしていたが、兄のヨーゼフ1世が1711年に急死したため、急きょウィーンに戻り、神聖ローマ皇帝位を継承しカール6世となった。ウィーンにスペイン風の文化を持ち込み、新しい都市文化を根付かせたと言われている。しかし、カール6世は男子後継者がいなかったので、プラグマティッシェ=ザンクチオンを定めてハプスブルク家の帝位の安定を図った。

マリア=テレジア(大公位1740~1780)

オーストリア継承戦争 1740年にカール6世が死去し、娘のマリア=テレジアが家督を相続し、オーストリア大公(妃)、ボヘミア女王、ハンガリー女王に即位すると、それに異議を唱えるプロイセン王国フリードリッヒ2世らとの間でオーストリア継承戦争が起こった。神聖ローマ皇帝位はバイエルン公のヴィッテルスバハ家カール7世が選出されたので、ハプスブルク家の独占が一時途絶えることとなった。ハプスブルク家と対抗するブルボン家のフランスがプロイセンを支援、フランスと植民地で争っていたイギリスがオーストリアを支援したため、世界的な広がりをもつ戦争となった。戦闘はプロイセン軍優勢が続いたが、新大陸でフランスがイギリスに敗れたこともあって、1748年にアーヘンの和約で講和、シュレジェンの奪還はならなかったがマリア=テレジアの家督相続は認められ、神聖ローマ皇帝にはその夫のロートリンゲン公フランツ1世が選出され、これ以降はハプスブルク=ロートリンゲン朝という。
外交革命 オーストリア=ハプスブルク家は一貫してフランスのブルボン家とヨーロッパの覇権を争い、それがヨーロッパ国際政治の対立軸となってきたが、新たにプロイセン王国という強力な敵対勢力が出現したため、マリア=テレジアは、オーストリア継承戦争後に一転してブルボン朝と結ぶという外交革命に成功した。
七年戦争 その上で七年戦争でプロイセンと再戦した。この戦争は同盟国ロシアが途中からプロイセン側に寝返ったために敗れ、シュレージェンを奪回することはできずに失うこととなったが、ハンガリー、ベーメンなどを中欧の広大な領土を維持し、ヨーロッパの大国としての国際的な地位を守った。同時にプロイセンに較べて立ち後れている国家機構や社会の改革という課題が明確となった。

ヨーゼフ2世(在位1765~1790)

啓蒙専制君主 マリア=テレジアの息子、ヨーゼフ2世啓蒙専制君主として上からの改革に着手し、宗教寛容令農奴解放令を出したが、保守的な貴族層の反対で効果はあがらなかった。反面、多民族国家としての矛盾が深まり、ベーメンハンガリーでは民族運動が活発になっていった。

レオポルト2世(在位1790~1792)

フランス革命への干渉 18世紀末、マリア=テレジアもヨーゼフ2世もポーランド分割にも加わり領土を広げたが、フランス革命がおこり、ヨーロッパに自由と平等の気運が高まるなかで、オーストリアも大きな危機を迎えた。マリア=テレジアの娘マリ=アントワネットがルイ16世の皇后となっていたのでフランス革命がおこると兄のレオポルト2世はピルニッツ宣言を出して革命への介入を呼びかけた。しかし、1792年のヴァルミーの戦いでオーストリア・プロイセン連合軍はフランス軍に敗れ介入は失敗した。

フランツ2世

 神聖ローマ皇帝としてはフランツ2世(在位1792~1806年)、オーストリア皇帝としてはフランツ1世(1804~1835年)
ナポレオンに敗れる 次のフランツ2世は、1795年の第3回ポーランド分割に加わり、そのためポーランドは消滅した。しかし翌年、イタリアに遠征したナポレオン軍を迎えたが、敗れて1797年にカンポ=フェルミオの和約で南ネーデルラント、ロンバルディアなどを放棄、その代わりにヴェネツィアを獲得して終わった。
神聖ローマ皇帝からオーストリア皇帝へ 激しいナポレオン戦争が展開される中、1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリアはロシアとともに敗れると、ナポレオンがライン同盟を結成したため、神聖ローマ帝国は消滅することとなり、1806年に退位した。これ以降は、ハプスブルク家当主はオーストリア皇帝として続くこととなった。
娘をナポレオン皇妃に オーストリア帝国のフランス大使となったメッテルニヒはナポレオンの懐柔を試み、フランツ2世の王女のマリー=ルイーズをその後妻としようとして成功した。ナポレオンはハプスブルク家のオーストリア皇帝フランツ2世の王女と結婚することで皇帝としての箔をつけることができると考えたのだった。
ウィーン体制 ナポレオン後のヨーロッパ世界の国際秩序再建のためウィーン会議が開催され、オーストリア宰相メッテルニヒが議長となったことにより、ハプスブルク帝国はウィーン体制の中心として重視されるようになった。同時にその支配下のボヘミアやハンガリー、北イタリアでは民族運動がもりあがり、政府はそれを抑えることに必死になった。
三月革命 1848年、パリの二月革命がウィーンにも波及してウィーン三月革命が勃発、ウィーンでは市民が自由を求めて蜂起し、メッテルニヒは亡命、皇帝フェルディナント1世もウィーンを脱出した。さらに帝国支配下のボヘミア、ハンガリー、北イタリアなどで一斉に民族独立運動が噴出した。しかし、その年の後半にはロシアなどの力でこれらの自由主義、民族主義は抑えつけられてしまった。同時にドイツ統一の動きが活発となり、フランクフルト国民議会が開催されたがまとまらずに終わり、その後、ドイツ統一の主導権はプロイセン王国が握るようになり、両国関係は悪化していった。

フランツ=ヨーゼフ1世(在位1848~1916)

 三月革命の最中にオーストリア皇帝となったフランツ=ヨゼフ1世の在位期間は68年に及んだが、それが実質的なオーストリア=ハプスブルク家の終末となった。このころからロシアのバルカン半島進出が活発化し、1853年にはクリミア戦争が勃発、オーストリアはロシアの侵出を警戒してイギリスなどと共にオスマン帝国を支援した。ロシアのパン=スラヴ主義に対抗してパン=ゲルマン主義が台頭した。
普墺戦争 1866年には普墺戦争でプロイセンに敗れると、オーストリアはドイツ統一から除外された形となり、その基盤を東方に向けることと成り、ハンガリー人と妥協してその独立を認めながらハプスブルク家の一人の君主が統治するというオーストリア=ハンガリー帝国をつくることになった。これをアウスグライヒ(妥協の意味)といい、これによってハプスブルク家の当主はオーストリア皇帝とハンガリー王位を兼ねることとなった。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合 ロシアが再び南下政策をとり露土戦争でトルコを破り、バルカン進出を強めると、オーストリアはイギリスと共にドイツのビスマルクの調停を要請、ベルリン会議に参加して、ベルリン条約によってバルカン半島の一部であるボスニア=ヘルツェゴヴィナの統治権を獲得した。さらに、1908年、オスマン帝国の混乱に乗じてボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合を強行した。このことによってスラヴ系民族の強い反発を受けることになる。
第一次世界大戦 オーストリアは既に1879年にドイツとの独墺同盟を結成、1882年にはイタリアを加えて三国同盟を結成して、ロシアとの対決に供えていたが、1914年、ボスニアのサライエヴォを訪問中のオーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナントがセルビア人青年によって射殺されるというサライェヴォ事件が起こると、オーストリアはセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が勃発した。それはドイツのヴィルヘルム2世の主導する世界政策に追随したものであったが、バルカンではロシアと対立したオーストリアの責任も大きかった。大戦が予想外に長期化する中、フランツ=ヨーゼフ1世は1916年、86歳で死去し、甥の子カール6世が即位した。

ハプスブルク家の終末

 第一次世界大戦は1918年11月11日、ドイツとともにオーストリアの敗北で終わり、最後の皇帝カール1世は退位して、オーストリア=ハプスブルク家の支配は終結した。

Episode 最後の皇帝の悲劇的終末

 19世紀中頃から第一次大戦勃発まで、フランツ=ヨゼフ1世(在位1848~1916年)は68年間という驚異的な在位記録を持つハプスブルク家の皇帝であるが、弟のマクシミリアンはメキシコ皇帝となって統治に失敗して銃殺され、長男ルドルフは父と意見が合わす愛人と一緒に自殺、妻のエリーザベトはアナーキストに暗殺されるという悲劇的な晩年であった。さらにルドルフに代わって皇太子となったフランツ=フェルディナント(皇帝の甥)は1914年セルビアのサライェヴォで銃弾に倒れ、第1次世界大戦のきっかけとなった。1918年、大戦の終了とともに最後の皇帝カール1世(フランツ=フェルディナントの甥)が退位して長いハプスブルク家の歴史を閉じた。<加藤雅彦『図説ハプスブルク帝国』1995 河出書房新書 などによる>
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書籍案内

江村洋
『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

アーダム・ヴァントルツカ
江村洋訳
『ハプスブルク家』
1981 矢澤書房

上記の種本