印刷 | 通常画面に戻る |

ハプスブルク家

中世以来、神聖ローマ皇帝位を継承した有力な家系。スイスの地方領主から出発し、オーストリアに侵出、ドイツ王の地位を兼ね、ネーデルラント、ブルゴーニュ、スペイン、ボヘミア、ハンガリーなどヨーロッパの広大な領土の他、新大陸にも支配地を持った。またフランスのヴァロワ、ブルボン家、プロイセンのホーエンツォレルン家などと激しく覇権を競った。第一次世界大戦まで続いたが、敗戦によって消滅した。

 13世紀から20世紀初頭に至る神聖ローマ帝国およびオーストリアの王朝。15~16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大な家領を有し、一族で支配権を分有した。その歴史は13世紀から20世紀に及ぶが、16世紀の全盛期をピークに、ヨーロッパ史の軸となる存在であった。そのため、ハプスブルク家が君主となった国家、神聖ローマ帝国(962~1806年、ただしすべての皇帝がハプスブルク家だったわけではない)、オーストリア帝国(1806~1866年)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867~1918年)を広い意味でハプスブルク帝国ということもある。

スイスの一地方領主として始まる

 ハプスブルク家の起源には、ローマ人説、フランク人説、果てはユダヤ人説まであるが、いずれも後に都合良くつくられたもので確証はない。最も有力な説はスイスのアレマン地方から独仏国境のエルザス地方にかけて、中世初期に小さな封建領主が分立し、その中の一人がライン上流の南ドイツに領土を拡大して次第に頭角を現わし、ブルグンドとの戦いの中で、その国境地帯に1020年にアールガウ地方(チューリヒの北西約30km)という山岳地帯にハビヒツブルク城(鷹の城の意味)とよばれた城を築き、その家系がハプスブルク家といわれるようになったということであろう。彼らは近隣のムーリにベネディクト派の修道院を立てて墓所とした。
 始めはシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝に従い、十字軍にも参加し、またそのイタリア政策に従って従軍し、叙任権闘争で教皇支持者と戦った。ところがシュタウフェン朝が断絶した後、選挙王制であった神聖ローマ帝国で、1254年から皇帝位がドイツ人以外に占められる「大空位時代」となる混乱が生じた。その間、ベーメンのオタカル2世の勢力が強大化し、オーストリアに進出してきた。

オーストリアへの進出

ルドルフ1世 1273年、ドイツ諸侯は、新たなドイツ王(皇帝)としてスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家のルードルフ1世を選出した。彼が実質的なハプスブルク家初代である。ドイツ諸侯はベーメン王のオトカルがオーストリアの地を占領し、さらにドイツ王に選出されることを狙っていたので、それを阻止することをルドルフに期待したのだった。 ルードルフにとっても意外なことであったらしいが、それを認めなかったベーメン王オタカル2世を1278年マイヒフェルトの戦いで破り、オーストリアの地を得た。これがハプスブルク家の繁栄の始まりとなったため、後世、ルドルフはハプスブルク帝国の栄光の始祖として伝説化された。しかし、まだこの段階では、ハプスブルク家が皇帝位を独占することはできなかった。

Episode 十字架を笏とする

(引用)ルドルフが選挙と戴冠式の後で帝国諸侯の封土授与を行おうとした時に、たまたま王笏(王位の象徴とされる)が手元に見当たらなかった。するとルドルフは周囲を見渡し、壁面から十字架を取り出すやこれに接吻して語ったという。「ここにわれわれと全世界に救済を給わった印(しるし)がある。これをわえらが笏としよう」。こうしてハプスブルク王朝初代の君主による最初の行為は十字架の印のもとになされたわけであって、これは後に王朝の指針を決定づける予言者的な重要性を帯びた象徴的事実としても解釈されることになった。<ヴァントルツカ『ハプスブルク家』p.56>
スイスの独立 スイスでは、ハプスブルク家が代官を置いて支配することに対して小領主層を中心に反発し、独立を求める運動が起こってきた。ハプスブルク家第2代のアルブレヒト1世は一旦ハプスブルク家から離れた神聖ローマ皇帝の地位についたが、1308年に一族間の内紛のため暗殺されると、独立の動きが強まり、1315年にはスイスの農民を主体としてた歩兵軍がモルガルテンの戦いでハプスブルク家の騎士軍を破った。ハプスブルク家はその年、1315年にスイスの独立を認め、自らはオーストリアを本国として定着し、ウィーンを本拠とすることとなる。

金印勅書

 ハプスブルク家のアルブレヒト1世が暗殺されてから、皇帝位はナッサウ家・ルクセンブルク家・ヴィッテルスバハ家(バイエルン)などが争い、対立した二人の皇帝が同時に在位することもあった。そのような混乱を克服することを課題として1346年に皇帝に選ばれたルクセンブルク家のカール4世は、1356年金印勅書を定め、7選帝侯によって皇帝を選出する規則とともに諸侯と共存する体制を作り上げた。ハプスブルク家は選帝侯にはなれなかったので、不満を抱えながら、領邦経営を拡大していった。
ルドルフ4世 1308年から130年間、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝に選ばれなかったが、その間、領土経営に専念し、ルドルフ4世(建設王)の時には1363年にティロル地方を獲得、1365年にウィーン大学を創立、聖ステファン大寺院の建設を開始した。ルドルフ4世は皇帝には選出されなかったので、大公という爵位を名乗り、それ以降はハプスブルク家の君主はその爵位を継承する。ルドルフ4世はルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝カール4世の娘を妻としていたが、金印勅書では選帝侯に加えられなかった。彼については「自尊自大の気がある野心家」という評価もある。また、後継者なしに死んだためハプスブルク家はしばらく内紛が続き、幾つかの家系に分裂した。

神聖ローマ皇帝位を独占

アルブレヒト2世 1438年アルブレヒト2世が神聖ローマ皇帝に選出され、130年ぶりにハプスブルク家の当主が皇帝=ドイツ王となった。アルブレヒトはルクセンブルク朝皇帝ジギスムントの女婿であったため、そのベーメン、ハンガリー王の地位も継承した。しかし即位間もなく赤痢に罹り死去した。
フリードリヒ3世 次にその子、フリードリヒ3世が皇帝に選出され、以後、ハプスブルク家は帝位を独占、ヨーロッパでの最大の勢力に成長していく。フリードリヒ3世(在位1440~93)は巧みに対抗馬を退け、53年にわたって在位し、その後のハプスブルク家の繁栄の出発点となった。

Episode 皇帝の忍耐

(引用)それは1440年2月、フリードリヒが25歳のときだった。オーストリア南部のケルンテンなどわずか三州の領主、というのがこの貧しい伯爵の通り相場で、選帝侯たちの目に誤りはなく、およそ君主らしくない、みすぼらしい、風采の上がらない無力な男だった。・・・その意味では選帝侯たちの選択は肯綮に当たっていたのである。だが彼らの唯一人として、このうだつのあがらない小男が自分たちの誰よりも長生きして、53年間という半世紀を超える永きにわたって帝国の首長の座に座り続けるとは、夢寐にも思わなかったであろう。そしてこれ以後、わずかの例外を除いて1806年の帝国解体まで王冠がハプスブルクの独占するところとなろうとは!・・・名をあげれば限りのないほどの敵や武将に威圧されながらも、フリードリヒはその度ごとに口実をもうけ、あるいは姿をくらまし、あるいは逃亡したりして相手が去るのを待った。するとかれらは鰻のように掴まえようのない王に業をにやして、彼の前からしりぞいていたり、死去したりした。辛抱したものが勝ったのである。<江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書 p.36>
 1452年、36歳になったフリードリヒはポルトガルの王女エレオノーレとローマで華燭の典をあげ、ついで教皇の手ずから帝冠を授けられた。結婚から七年後、生まれた長子が後にマクシミリアン1世で、その時代にハプルブルク家はヨーロッパ全域の政治に関与することになる。
ハプスブルク家の皇帝とローマ  フリードリヒ3世は、ローマで神聖ローマ皇帝の位に就いた最初のハプスブルク家の人間であり、またローマで位に就いた最後の神聖ローマ皇帝だった。次のマクシミリアン1世は、正式には1508年に神聖ローマ皇帝となったが、ローマへの道をヴェネツィアに阻まれ、ローマではなくトレントで戴冠式を行った。しかもローマ教皇の手による戴冠ではなく、「選定皇帝」の称号を受けるという手段に訴えた。これ以降、ハプスブルク家の皇帝はすべてこれにならった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.25-26>

婚姻政策を展開

マクシミリアン1世 ハプスブルク家は積極的な婚姻政策でヨーロッパの有力な諸家と結びつきながら領土を拡大していった。特に15世紀にはフリードリヒ3世が、子供のマクシミリアンをブルゴーニュ公シャルル(突進公)の娘と結婚させ、フランス東部からネーデルラントに広がる広大な領土を手にいれ、次のマクシミリアン1世(在位1493~1519)は息子のフィリップをスペイン王女と結婚させ、スペインもその支配下に置いて、広大なハプスブルク帝国を建設した。
 マクシミリアン1世は、チロル地方も継承しており、それによって銀山経営で巨富を築いたフッガー家との関係が始まり、その資金援助を受けるようになった。ハプスブルクがブルゴーニュや北イタリアに進出したことから、フランス王家との対立が始まる。

Episode ハプスブルク家の家訓とアエイオウ

 「他人をして戦わしめよ。汝、幸福なるオーストリア、結婚に励め」というのはハプスブルク家の家訓として有名。これはフリードリヒ3世の時とも、マクシミリアン1世の時ともいわれる。有名なモットーにAEIOUと言うのがある。これもフリードリヒ3世かマクシミリアン1世の時といわれており、
 「オーストリアが全世界を支配する」 Austria est imperare orbi universo
 「オーストリアは他のどの権力より長く生き延びる」 Austria erit in orbe ultima
のふた通りの解釈がある。<リケット『同上書』 p.24>

参考 婚姻政策は誤解?

 ハプスブルク家は「戦争は他国にさせておけ、なんじ幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」というモットーのもと政略結婚による領土拡大をはかったと広く言われている。「これは端的に言って誤りである」と言っているのが岩﨑周一氏の近著『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書である。かれは、この言葉は詠み人知らずの揶揄にすぎず、モットーや家訓などではないとし、ブルゴーニュ、スペイン、チェコ、ハンガリーでハプスブルク家に継承の可能性が生じたのは、相手方の系統断絶という偶然によるもの、と述べている。政略結婚は洋の東西で家門勢力を存続・発展させるための常套手段であったので、ハプスブルク家の専売特許ではない。そして次のように指摘している。
(引用)君主間の約定がどうであれ、また姻戚関係がどれほど密接であっても、臣民の代表たる諸身分支持がなければ、君主となることも、その座を維持することも不可能だったことをわすれてはならない。ハプスブルク家はアルブレヒト1世と同2世の時代にボヘミアの王位を手にしたが、いずれの場合も良く保持することはできなかった。同地の諸身分と良い関係を築けなかったのである。また16世紀には繰り返しポーランドの王位を狙い、歴代の国王との密接な姻戚関係を生かして積極的に運動したが、同国の諸身分に警戒されたため、一度も実現することはできなかった。<岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p.78>
 また、「戦争は他国にさせておけ」というのも、矛盾する。ハプスブルク家はこれまでも、今後も、ヨーロッパの各地で激しい戦争を展開していく。ハプスブルク家の婚姻政策の最大の「成果」であるマクシミリアン1世のブルゴーニュ公王女との結婚は、たしかにその領土が全世界に及んでいく契機となったが、同時にブルゴーニュ家の敵であったフランス王家との抜き差しならない対立関係のはじまりでもあり、それ以降、ハプスブルク家とフランス王家は1756年の外交革命に至るまでいくどとなく戦争を繰り返すことになるのである。

フランスとのイタリア戦争

 マクシミリアン1世は子のフィリップをスペイン王国の王女ファナと結婚させた。それによってハプスブルク家はスペインにも進出することとなり、フィリップとファナの子のカールがスペイン王(カルロス1世)となり、さらに彼は神聖ローマ帝国皇帝に選出されて(カール5世)となったことによって、フランスを東西から挟むような大帝国を支配することとなった。
カール5世 フランス(ヴァロワ朝)は、強い危機感を抱き、イタリアに進出することで活路を見いだそうとして両者の間にイタリア戦争が始まる。それは1494年シャルル8世の南イタリア遠征に始まるが、特に16世紀前半のハプスブルク家のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)とフランス・ヴァロワ朝のフランソワ1世の対立として激化した。カール5世のときにマゼランの世界周航が行われ、アメリカ新大陸だけでなく太平洋方面にも植民地を獲得したが、一方で支配下のドイツでのルターの宗教改革が始まり、東方からのオスマン帝国軍によるウィーン包囲(第1次)を受けるという多面的な脅威にさらされていた。1541年にはオスマン帝国によってブダペストを占領され、ハンガリーを実質的に失った。国内の宗教対立は、1555年アウクスブルクの和議でようやく終息に向かい、ハプスブルク帝国の体制を維持したが、フランスもハプスブルク帝国も長引く戦争は財政破綻をもたらし、1559年カトー=カンブレジ条約で講和した。

ハプスブルク家の分裂

 1556年、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位するにあたり、広大なハプスブルク帝国を一人で統治することは不可能と考え、ハプスブルク家は弟のフェルディナントのオーストリア=ハプスブルク家と、子のフェリペ2世のスペイン=ハプスブルク家とに分割することにした。こうしてハプスブルク帝国は分割され、ハプスブルク家も二つの家系に分かれることとなった。
 → オーストリア=ハプスブルク家  オーストリア
   スペイン=ハプスブルク家  スペイン
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

江村洋
『ハプスブルク家』
1990 講談社現代新書

菊池良生
『戦うハプスブルク家』
講談社現代新書

リケット/青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社

岩﨑周一
『ハプスブルク帝国』
2017 講談社現代新書

ヴァントルツカ/江村洋訳
『ハプスブルク家』
1981 矢澤書房

ハプスブルク家の全貌を知るには最適。古さを感じさせない的確な指摘もある。長いので通読は大変だが、主要人物を追って拾い読みしても良い。


中野京子
『ハプスブルク家12の物語』
2018 光文社新書