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神聖ローマ皇帝

神聖ローマ帝国の皇帝。962年のオットー1世に始まる。ドイツを統治したが、代々イタリア政策に熱心であった。13世紀の大空位時代を経て、1356年に金印勅書で選帝侯によって選出されることとなったが、1438年以降はハプルブルク家が独占した。16世紀のカール5世はスペイン王位も兼ね、フランス国王と対抗。その死後、オーストリア・ハプスブルク家が皇帝位を継承。17世紀以降はドイツの各領邦の独立性が強くなり、皇帝の支配権は1648年のウエストファリア条約で形骸化した。1805年、ナポレオン戦争に敗れたフランツ2世が退位して神聖ローマ帝国と皇帝は消滅した。

 神聖ローマ帝国の皇帝位(兼ドイツ王)はオットー1世(大帝)のザクセン朝に続いて、フランケン朝(ハインリッヒ4世など)、シュタウフェン家(フリードリヒ1世、フリードリヒ2世など)が継いだが、その地位は諸侯(貴族)の合意によって選出される選挙王制であった。また、歴代の皇帝は「イタリア政策」に熱中し、またローマ教皇とは叙任権闘争を激しくて展開したため、ドイツ国内では諸侯や都市が自立し、統一はとれなかった。
大空位時代 1256年からは皇帝位がドイツ人以外に占められる「大空位時代」となり、それは1273年ハプスブルク家のルドルフがドイツ王に選出されアドルフ1世となるまで続いた。その後も、ハプスブルク家をふくめ、ナッサウ家・ルクセンブルク家・ヴィッテルスバハ家(バイエルン)の三家が争い、対立したり二人の皇帝が同時に在位することもあった。
ルクセンブルク朝 1347年皇帝に選出されたルクセンブルク家のカール4世は、1356年に金印勅書を定め、7有力諸侯を七選帝侯として皇帝を選挙する形態となった。カール4世はベーメン(ボヘミア)のプラハに宮廷を置き、プラハ大学の創設など文化興隆に努め、帝国の安定をもたらした。

ハプスブルク家の皇帝位独占

 ルドルフの子のアルブレヒト1世も皇帝に選出されたが、その後はハプスブルク家は130年にわたり皇帝に選ばれることはなかった。1438年以降はオーストリアを本拠とするハプスブルク家のアルブレヒト2世が選出され、それ以降は、ハプスブルク家が、1806年の神聖ローマ帝国消滅まで、一時期(オーストリア継承戦争のとき)を除き、皇帝位を独占することとなった。実質的には世襲されたが形式的には選帝侯による選出という原則は変化がなかった。

ハプスブルク帝国の形成

 次いで皇帝に選出されたフリードリヒ3世とその子のマクシミリアン1世は積極的な婚姻政策(政略結婚)を展開し、本領のオーストリアに加え、ブルゴーニュ、ネーデルラント、ボヘミア、ハンガリー、北イタリア、スペインへと領土を広げていった。またハプスブルク家の支配したスペインは大航海時代に当たり、アメリカ新大陸や太平洋地域にも領土を広げ、広大なハプスブルク帝国を支配した。

ハプスブルク家カール5世の皇帝選出

 1519年ハプスブルク家の皇帝マクシミリアン1世が亡くなり、次の皇帝選挙が実施されることになった。このとき、マクシミリアンの孫でスペイン王であったカルロス1世(ドイツ読みでカール)が立候補したが、対抗してフランス国王フランソワ1世も立候補した。フランソワ1世は、ハプスブルク家のスペイン王がドイツ王を兼ねることになれば、フランスはそれに包囲されることになるので、なんとしても阻止しようと考えたのだ。カルロス1世にとっても、フランス王が神聖ローマ皇帝になれば、スペインとネーデルラントなどのハプスブルク家領は分断されることになり、なによりも神聖ローマ皇帝のもとでのヨーロッパの統合を意図していたので、負けるわけにはいかない選挙戦となった。両者はそれぞれ選帝侯の買収につとめたが、カルロス1世は豊かなネーデルラントを抑えており、またドイツの富豪フッガー家が資金援助を受けて、選帝侯の買収に成功し、皇帝に選出されカール5世となった。

Episode 神聖ローマ皇帝選挙での買収合戦

 「選挙は、明確にハプスブルク家とヴァロワ家の間で争われ、運動資金は湯水のように流れた。それは、名誉表彰の記念品の形で贈られたり、年金や贈賄の形で選帝侯たち自身や、影響を与えそうな顧問官たちに渡された。ハプスブルク家は、票の買収のために約八五万二〇〇〇グルデンを使ったが、このように巨額な貨幣は、フッガー家の銀行の授けを得てのみ調達されえたのであった。一五二〇年に作成された帝室財政の清算書によると、その六〇パーセント以上にあたる五四万グルデン余をフッガー家の融資に拠っていたのである。」<世界各国史『ドイツ史』旧版 p.164>

帝国の全盛期

 16世紀前半のカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)は、全ヨーロッパにまたがる広大な領土を有し、神聖ローマ皇帝の統治は最大となり、オーストリア大公とスペイン国王も兼ね全盛期を迎えた。またイタリア支配を巡るフランスのフランソワ1世とのとのイタリア戦争も優位に進めた。しかし、一方ではオーストリアの領土はオスマン帝国のスレイマン1世によって脅かされ、またこの時期に始まる宗教改革は神聖ローマ帝国内を大きな亀裂を生じ、ドイツ領内では宗教戦争であるシュマルカルデン戦争が起こった。

オーストリア=ハプスブルク家

 カール5世の後はハプスブルク家はオーストリアとスペインの二系統にわかれ、神聖ローマ皇帝位はカール5世の弟フェルディナント1世に始まるオーストリア=ハプスブルク家に継承された。フェルディナントは1526年のモハーチの戦いで戦死したボヘミア・ハンガリー王からその王位を継承していたので、オーストリア=ハプスブルク家はヨーロッパで広大な支配領域を有するようになった。

三十年戦争

 しかし、16世紀前半の宗教改革から始まったカトリックとプロテスタントの分裂、さらに宗教戦争が相次いだことは、神聖ローマ帝国にも深刻な影響を与えた。1618年、ベーメンの新教徒が国王フェルナンド(翌年、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世となる)の弾圧に反発してベーメンの反乱が起きると、それをきっかけにドイツだけでなく全ヨーロッパをまきこむ三十年戦争へと突入した。神聖ローマ皇帝であるハプスブルク家はカトリック側を主導してプロテスタント軍と戦い、ヴァレンシュタインなどが活躍したが、戦争は長期化し、ドイツの荒廃が進んだ。

領邦の形成

 17世紀の三十年戦争は1648年のウェストファリア条約によって終結したが、それによってドイツは領邦の分立が確定し、神聖ローマ皇帝のドイツに対する統治権は失われた。そこでウェストファリア条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」とも言われている。ドイツは多くの領邦に分割されそれぞれが主権国家へと向かったため、神聖ローマ皇帝の位は全く形骸化し、単なる装飾的な意味しかなくなってしまった。

オーストリア帝国の発展

 その後、神聖ローマ皇帝位はオーストリア大公が継承するが、オーストリアはレオポルト1世の時、1683年にはウィーン包囲(第2次)の危機を脱し、1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーその他の広大な領土を獲得し、大国として復活した。
 フランスのルイ14世がスペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じてスペイン王位継承をねらって介入すると、レオポルト1世も継承権を主張し、1701年にはスペイン継承戦争となった。オーストリアはオランダ・イギリスなどと同盟してフランスと戦い、1714年にはフランスとのラシュタット条約を締結して、南ネーデルラント(現ベルギー)、ミラノ、ナポリ王国などを獲得した。

多民族国家オーストリア帝国

 こうして18世紀中ごろにはオーストリアはヨーロッパの大国となって、その王宮もウィーン・プラハ・ブダペストの三都に築かれ、それぞれが政治、経済、文化の中心地として発展した。しかし、その領土内には様々な民族を含む多民族国家であり、その統治には困難なものがあった。特に、チェコとハンガリーの非ドイツ語圏では、ドイツ語とカトリック信仰の強要は、民族的な反発を強めることとなり、19世紀以降は民族運動が始まる。

オーストリア継承戦争

 皇帝カール6世の時ハプスブルク家に男子継承者がいなくなり、やむなくプラグマティッシェ=ザンクティオンという家督継承規則を作って女子相続も認め、それによって1740年にマリア=テレジアがオーストリア大公となりハプスブルク家領を相続した。しかし、帝国内の有力諸侯であったバイエルン公が女子の家督総督を認めず、またプロイセンのフリードリヒ2世もシュレジェンの領有を主張して占領した。フランスも同調し、オーストリアと戦端を開き、オーストリア継承戦争(1740~48年)が起こった。イギリスだけがオーストリアを支援したが、オーストリアは不利な戦いが続き、ようやく講和してマリア=テレジアのハプスブルク家の家督相続は認められたがシュレジェンを失った。神聖ローマ皇帝は1742~45年はハプスブルク家から離れてバイエルン公ヴィッテルスバッハ家のカール7世が選出された。1745年にマリア=テレジアの夫であるロートリンゲン公フランツ1世が帝位につき、次に二人の子のヨーゼフ1世が帝位を嗣いだのでこれをハプスブルク=ロートリンゲン朝といっている。

神聖ローマ皇帝の最後

 最終的に神聖ローマ帝国が終わりを告げるのは、ナポレオンの登場によってであった。1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で敗れた神聖ローマ皇帝フランツ2世は、翌年、南西ドイツの諸侯がナポレオンを盟主とするライン同盟を結成したことにより、自ら皇帝を退位し、ここに神聖ローマ帝国は消滅することとなった。なお、フランツ2世はオーストリア皇帝フランツ1世となって、オーストリア帝国の君主としての地位は保った。

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