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大空位時代

13世紀の1254~1273年に、神聖ローマ皇帝位が実質的に空位となった時代。ハプスブルク家のルドルフが即位して終わった。

 1254~1273年の神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝(ドイツ王)が実質的に空位になっていた約20年間をいう。実際には空位ではなく、帝位についた者がいたが、いずれもドイツ人以外であったので、ドイツ史では「大空位時代」といっている。大空位時代の始まりを1256年とする場合もある。

非ドイツ人の皇帝が続く

 ドイツ王でありながらシチリア島に宮廷を置いたシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝のフリードリヒ2世が1250年に死去、そのあとのコンラート4世も間もなく1254年に病死したため、シュタウフェン朝は断絶した。神聖ローマ皇帝は、ドイツ諸侯(貴族)による選挙王制で選出されることになっていたが、新皇帝に選ばれたのは(ドイツ人ではない)オランダ伯ウィルヘルムであり、しかも彼が翌々年の1256年には死去、その後もイギリス、フランスの介入によって非ドイツ人の皇帝が選ばれたため、ドイツを実質的に支配することは出来ず、その状態が約20年続いた。

ハプスブルク家のルドルフの即位

 1273年ハプスブルク家のルドルフ1世が選出され、大空位時代は終わるが、その後も皇帝選出をめぐる混乱はなおも続いた。ハプスブルク家もルドルフの子のアルブレヒト1世は皇帝に選出されるが、その後は130年にわたって帝位から離れた。その後はナッサウ家、ルクセンブルク家、ヴィッテルスバハ(バイエルン)家などがめまぐるしく交替し、不安定な状態が続いた。

金印勅書の制定へ

 その間、皇帝選出権を持つ諸侯が次第に少数に絞られていき、ほぼ7諸侯に限定されるようになった。それをうけて、皇帝選出権を7諸侯に限定するとともに、一定の選出規定を設けて、諸侯と皇帝権の調停を図ったのが、1356年の金印勅書であった。これによって神聖ローマ皇帝(=ドイツ王)の君主権がようやく確定し、同時に、各領邦(ラント)の独立性も保障されたので、神聖ローマ帝国の分権的な体制はこれで固定された。
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