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ハンガリー/ハンガリー王国

東ヨーロッパに位置する共和国。ドナウ川中流の北岸に広がるパンノニア平原に、9世紀末にアジア系遊牧民のマジャール人が定住し、1000年に王国を建国した。一時は大国として周辺に支配を及ぼしたが、16世紀に南部をオスマン帝国、北部をハプスブルク帝国に支配され、18世紀にはほぼ全域がハプルブルク帝国領となった。1848年の独立運動は抑えられたが、1867年にオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)を構成する。第一次世界大戦後単独の国家となったが、国土は3分の2に縮小。ハンガリー革命で社会主義国政権が成立し、一時共和国となったが革命失敗で王国に戻りホルティの独裁政治となる。第二次世界大戦では枢軸側に参戦、敗北しソ連軍が占領。そのもとで共産政権が成立、ハンガリー人民共和国となる。1989年、東欧革命の一環で社会主義政権が崩壊、ハンガリー共和国となった。

 日本でハンガリーと言われているこの国家は、現地では「マジャール」なので注意を要する。ハンガリー(Hungary)というのは実は英語名にすぎない。ハンガリーの人々は自分たちを「マジャール人」と言っており、国名は正確にはマジャールオルザーク(Magyarorszag、ハンガリー語でマジャール人の国の意味)といっているのだが、イギリスをはじめヨーロッパの他の民族からはハンガリー、ハンガリー人と言われているわけだ。

マジャールとハンガリー

 なぜヨーロッパの他民族が彼らをハンガリーと呼ぶようになったのか、についてはいくつか説がある。一つは、ヨーロッパの人たちが、5世紀にこの地方に侵入したフン人と、9世紀に侵入してきたマジャール人を混同し、フン人の Hun に、人を意味する gari がついてハンガリーというようになった、と言う説である。もう一つの説は、この民族が故郷のウラル山脈を出て、9世紀にこの地に移動してきたとき、トルコ系のオヌグール(Onugur)人と密接な関係になったので、他の民族からはオヌグールが変化してハンガリーと言われるようになった、というものである。日本ではハンガリーのハンをフンからきた、という説明をよく見かけるが、現在では後者のオヌグール=ハンガリー説の方が有力な説となっている。<牧英夫編『世界地名ルーツ辞典』 創拓社 p.127 などによる>

 (1)マジャール人の王国とオスマン帝国の侵出  (2)オーストリアによる支配  (3)ハンガリー革命の失敗と王国成立  (4)ハンガリー人民共和国  (5)ハンガリーの自主路線  (6)ハンガリー共和国と現在

(1)マジャール人の王国とオスマン帝国の侵出

1000年、マジャール人がドナウ中流に建国した国家を英語表記でハンガリー王国という。13世紀にモンゴルが侵入したが、その撤退後、国力を高め15世紀には最盛期となる。しかしその後はオスマン帝国と神聖ローマ帝国に挟撃され、領土を縮小した。

ハンガリー王国の成立

 ウラル語族に属する遊牧民マジャール人は、10世紀に西ヨーロッパに侵入したが、955年のレヒフェルトの戦いでドイツ王オットー1世に敗れて、パンノニア平原(現在のハンガリー)に退いて、その地に定住した。
キリスト教に改宗 975年、ハンガリーのヴェイク公は、ローマ=カトリック教会のパッサウの司教ピルグリムから洗礼を受け、イシュトバンの名を得た。パッサウはドナウ川中流、ドイツのオーストリアとの国境近くに位置する。アジア系遊牧民の子孫であるが、キリスト教に改宗することがヨーロッパで一定の地歩を得ることが必要と考えたのであろう。さらに1000年、イシュトバンはドナウ川の面したエステルゴム(現在のブタペストの北34km)に大司教座を開き、翌1001年にローマ教皇よりハンガリー国王の王冠を授けられ、イシュトヴァン1世となった。彼は聖イシュトヴァンといわれ、アジア系遊牧民の国であったハンガリーをキリスト教国として導き、キリスト教文化を受容した。イシュテヴァン1世が妃としたのは神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ2世(ザクセン朝最後の皇帝)の妹ギーゼラであった。この婚姻によって神聖ローマ帝国との衝突を避けたのだった。
 ハンガリーは次第に東ヨーロッパの大国となってゆき、1102年にはパンノニア西部のクロアティア人を併合して、同君連合の形態をとった。

モンゴルの侵入

 13世紀にロシア、ブルガリアと同じく、バトゥの率いるモンゴル軍の侵入を受けた。当時、ハンガリー王国軍はヨーロッパで最強といわれていたが、1241年4月、ムヒの戦いで惨敗し、さらに首都ブダペストが破壊された。国王ベーラ4世は、ローマ教皇グレゴリウス9世に援軍を要請したが、当時イタリアで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と激しく争っていたので、支援を断った。バトゥの軍は41年冬はハンガリーの平原で越冬したが、翌年引き揚げたため、ハンガリーは占領されずに済んだ。ベーラ4世はモンゴル再来襲に備えて防備を固め、「ハンガリーの第二の建国者」と言われている。

ハンガリー王国の全盛期

 1396年にはハンガリー王ジギスムント(神聖ローマ皇帝カール4世の子。彼も1411年に皇帝となる)の組織した十字軍がニコポリスの戦いオスマン帝国軍を迎え撃ったが、キリスト教軍は敗れた。しかし、オスマン帝国は1402年に中央アジアから進攻してきたティムールと小アジアでのアンカラの戦いに敗れ、一時後退した。
 この間、ハンガリー王国は態勢を整え、1458年には国民的英雄マーチャーシュ1世が出て、領土を拡張するとともに、文芸を保護し、ハンガリー王国の全盛期をもたらした。しかしその直前の1453年には、オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼし、再びキリスト教世界への脅威となり始めた。

オスマン帝国の侵入

 15世紀末には、ハンガリーはボヘミアとともにポーランド王国ヤゲウォ朝の国王を迎えていた。1526年、スレイマン1世の率いるオスマン帝国軍がハンガリーに侵入してきたため、ヤゲウォ朝ラオシュ2世はモハーチの戦いで迎え撃った。ところが、ラオシュ2世は戦死し、ハンガリー軍は敗れた。ラオシュ2世には子がなかったので、その義兄に当たるオーストリア=ハプスブルク家のフェルディナントが王位継承権を主張した。それに反対する勢力が、再度オスマン帝国に出兵を要請したため、スレイマン1世の第1次ウィーンを包囲が行われた。このときは冬の到来とともにオスマン軍が撤退し、その後も数度にわたって両軍が戦い、1547年までに休戦協定が結ばれた。その過程で、ハンガリーの北部・北西部・クロアチアはハプスブルク領、ハンガリーの中・南部(ブダペストを含む)はオスマン帝国領、東部はトランシルヴァニア自治領という三部分に分割された。ハンガリーの三分状態はその後、約130年続く。

オーストリアの侵出

 1683年、オスマン帝国は第2次ウィーン包囲に乗り出してきた。しかし、ハプスブルク帝国は他のキリスト教国の支援を受け、この危機を脱した。オスマン帝国の敗戦は、その古い体質が明らかになり、ハプルブルク軍は辺劇の機会と捉えた。バルカン半島を南下したハプスブルク軍は軍事的天才オイゲン公が活躍してオスマン軍を追い1686年にはブダ、88年にはベオグラードを制圧、一方でプファルツ継承戦争でフランスと闘いながら、1697年のゼンタの戦いでオスマン軍に大勝し、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリー全域を奪回した。

(2)オーストリアによる支配

1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー支配権を得たオーストリアがその全域の支配をおこなう。19世紀前半、民族の独立をめざす運動が起こり、1848年独立宣言を行うが、弾圧された。1867年、形式的に独立しオーストリア=ハンガリー帝国を構成することとなった。

カルロヴィッツ条約

 オスマン帝国は17世紀末にはオーストリア、ポーランド、ヴェネティア連合軍と戦って敗れ、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはオーストリアオーストリア・ハプスブルク家の領土とされた。その後ハンガリーはオーストリア帝国の一部としてその支配を受けることとなった。

ハンガリーの民族運動

 19世紀前半のウィーン体制の時代にナショナリズムの運動が強まると、オーストリア支配下のハンガリーでもハンガリー民族運動(マジャール人民族運動)が始まり、それは1848年の諸国民の春の高まりの中で、コシュートに指導されて独立宣言を出したが、この時はオーストリアはマジャール人に対するクロアティア人の反発を利用して、その弾圧にあたった。イエラチッチに率いられたクロアティア人部隊がコシュートの率いるハンガリー軍に撃退されたため、オーストリアは本格的武力制圧に乗りだし、1849年にはブダペストを占領した。コシュートらは革命臨時政府を樹立して、完全独立とハプスブルク家の失権を宣言、ブダペストを奪還した。オーストリアはついにロシアの援軍を要請し、ようやくハンガリー独立運動を鎮圧した。
 ハンガリー独立失敗後は、オーストリアの属領として専制的な直接統治がおこなわれ、公用語はドイツ語にされるなど、民族的自由は完全に奪われた。

オーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)

   普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)で敗れたオーストリアは、1867年にアウスグライヒといわれる転換をはたした。これはハンガリー王国の形式的な独立を認めたが、国王はハプスブルク家のオーストリア皇帝が兼ねるオーストリア=ハンガリー帝国とするということで、これによって二重帝国といわれる状態となった。つまりハンガリーは形の上では独立し、独自の議会も設置されたが、オーストリアに支配されている実態には変わりはなかったので、その後も完全な独立を求める運動が続いた。

(3)ハンガリー革命の失敗と王国成立

第一次世界大戦終結に伴い1918年に独立。同時にハンガリー革命が起こる。ハンガリー王国の動き。

 オーストリア=ハンガリー帝国のもとで、ハンガリーは形式的には独立国では会ったが、オーストリア=ハプスブルク家の君主を戴いており、実質的にはその支配を受けていた。第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗北したことによって、1918年10月にハンガリー共和国としてようやく分離独立を達成した。

ハンガリー革命

 翌1919年3月クン=ベラがロシアにならってソヴィエト政権の樹立を試みハンガリー革命を起こしハンガリー評議会共和国を樹立したが、国民的な支持が無く、フランスの支援を受けたルーマニア軍の干渉や反革命軍の蜂起によって同年8月に崩壊し、権力は反革命の国民軍司令官ホルティが掌握し、ハンガリー王国となる。

トリアノン条約

 1919年9月、連合国がオーストリアと締結したサン=ジェルマン条約で、ハンガリーのオーストリアからの独立が承認され、1920年6月にはハンガリーは独自で連合軍との講和条約トリアノン条約を締結し、ハンガリー王国として主権を回復するとともに周辺諸国に領土の3分の2を割譲を承認した。このドリアノン条約による領土削減は、ハンガリー人の中に不満の感情を強く残し、後に反ヴェルサイユ体制を唱えるナチスドイツと提携する背景となった。

Episode 「国王なき王国」

 ハンガリーは1918年10月から19年8月まで、わずか10ヶ月強の間に、オーストリア=ハンガリー帝国→ハンガリー共和国→ハンガリー評議会共和国(革命政権)→ハンガリー王国と4つの国家体制を経験したわけだ。ところが最後のハンガリー王国は、王国とは言いながら国王がいなかった。これは国内に、ハプスブルク家の国王カール4世(スイスに亡命中)を復活させようという動きと、それに反発してマジャール人の国王を立てようという動きが対立していたからだ。カール4世は復活を狙って運動していたが、ホルティはそれに反対で、結局カール4世の王位継承権を剥奪したが、マジャール人の王も適当なものが見つからず、結局ホルティが摂政のまま国家元首を務めるという異例の形になってしまった。

ハンガリー王国のホルティ政権

 ハンガリー王国は立憲君主国であるが「国王なき王国」といわれるように、国王をおかないままホルティ摂政がとして実権を握るという異常な状態となった。
 ホルティの摂政としての権限は、軍の最高司令官であるとともに議会の解散権を持ち、首相の任命権と罷免権、さらには議会の決議をへた法案への拒否権も与えられているという絶対的なモノであった。ホルティにはこのように絶対的な権限が集中していたが、共産党以外の政党の存続は認められ、議会政治も機能していたので、ヒトラーやムッソリーニのファシズムの独裁政治とは異なっている。このような体制は権威主義体制と言われることが多い。
第二次世界大戦に枢軸国として参戦  ホルティのハンガリー王国は1930年代、ドイツにナチスが台頭すると、領土回復の好機ととらえてドイツに近づき、1940年11月、日独伊三国同盟に加盟して枢軸国の一員となり、第二次世界大戦に参戦した。ドイツとの提携は、国内のファシズム政党である矢十字党によって進められ、ドイツやポーランドと同じようにユダヤ人の絶滅が図られ、45万にものユダヤ人がアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られた。
 ハンガリー軍はドイツ軍の一部として動員され、スターリングラード攻撃などに加わったが、次第に敗北が明らかになってきた。1944年に摂政ホルティの意向を受けた内閣が連合国と単独講和を探ったが、ドイツはそれを阻止するために軍隊を派遣して占領下に置いた。ドイツ占領下のハンガリーに同年末、ソ連軍が侵攻して東部を解放、それに応えてハンガリーの小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立した。ホルティは亡命して、ハンガリー王国は崩壊した。

(4)ハンガリー人民共和国

第二次大戦後、1949年から社会主義国となり、国号をハンガリー人民共和国とする。

 1944年末にハンガリーに侵攻したソ連軍がドイツ軍を排除したことを受け、小地主党・社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立した。翌1945年11月に戦後初の総選挙が行われたが、共産党は17%の得票に留まった。1946年2月にはハンガリー共和国が成立し、共産党を含む連立内閣が発足、小地主党のティルディが大統領となった。1947年に連合国とのパリ講和条約が締結され、ハンガリーは国境線をほぼトリアノン条約の線に限定されることを承認した。また巨額の賠償金を主としてソ連に支払うことが義務づけられ、大きな負担となった。

社会主義政権の成立

 ハンガリー解放を実現したソ連軍は軍隊をそのまま駐屯させ、ハンガリーの内政に対しても強い影響力を持っていた。1947年6月にはハンガリー政府にマーシャル=プランの受け入れを断念させ、1949年1月にはコメコンに加盟させた。
 共和国政府の内閣で共産党は内相ポストを獲得し、警察力を握り、反対党を様々な口実を設けて排除していった。1948年に共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党に改称し、党員約150万を要する大政党となり、1949年5月の総選挙で「民主ブロック」選挙といわれる勤労者党が作成した「独立人民戦線」単一候補者名簿にもとずく選挙が行われ、同戦線が96.5%の得票を得て政権を獲得した。8月に新憲法が採択され、ハンガリー人民共和国という国号になった。このような方式は人民民主主義と言われるもので、他の東ヨーロッパ社会主義圏に共通してみられる、共産党が実質的に権力を独占するための方便であった。
 ハンガリー人民共和国政府はソ連に倣い、産業国有化と集団化を推し進め、1950年に第一次五ヶ年計画を開始して工業化をめざした。その間、政権内部では激しい権力闘争が行われ、ソ連亡命経験のあるラーコシ書記長が反対派に対する粛清を行い、「小スターリン」と言われて実権を握った。1953年のソ連のスターリンの死によってラーコシは一時失脚、ナジ=イムレが首相となり、集団化の見直しなどを図ったが、55年は再びソ連の圧力が強まり、集団化が再強化され、ナジ=イムレは失脚した。同年、ワルシャワ条約機構に加盟した。

ハンガリー動乱

 1956年のスターリン批判を機にハンガリー反ソ暴動が勃発、ナジ=イムレが改革派に推されて復帰し、ワルシャワ条約機構から離脱し、独自路線を掲げたが、ソ連軍の直接介入によって鎮圧され、ナジも処刑された。

(5)ハンガリーの自主路線

ハンガリー反ソ暴動鎮圧後、1960年代から市場社会主義路線が採られる。

 1956年のスターリン批判を機に起こったハンガリー反ソ暴動が、ソ連軍の直接介入によって抑えられ、その後はカーダールによる社会主義体制維持の政権が続いた。
 しかし1963年頃から改革派よりの姿勢を強め、1968年には130人の専門家(経済学者)を組織して「新経済メカニズム」を発足させ、経済運営を計画経済よりも経済パラメーター(指標)にゆだねる「市場社会主義」の実験(ユーゴスラヴィアではすでに始まっていた)に着手した。このように東欧諸国の中で1960年代に明らかになった経済停滞(低成長)からの脱却を目指す改革をはじめたのがティトーのユーゴスラヴィアとカーダールのハンガリーであった。
 カーダールは1968年のチェコ事件でもチェコのドプチェクと会談して事態の解決を模索し、最後までソ連軍の軍事介入には批判的だった。カーダール政権の経済改革は政治の民主化に影響を与え、1970年には複数候補者を認める選挙法が改正された(これは後のソ連のゴルバチョフに先行する改革だった)。
 しかし、1973年の石油ショックによって経済改革にストップがかかり、またソ連のブレジネフ政権はハンガリーの改革に対する警戒を強めたため順調には進まなかった。この間、ポーランドやルーマニアは過度な工業化を進めようとして混乱を大きくしたが、ハンガリーではニエルシュなどの改革派が慎重な姿勢をとり、それが1989年の穏健な形でのハンガリーの民主化実現の要因となったと思われる。<木戸蓊『激動の東欧史』1990 中公新書 などによる>

(6)ハンガリー共和国の現在

1989年初頭、ハンガリーは複数政党の承認など改革を開始し、一党独裁体制打破という民主化の先鞭を付け、同年中に社会主義体制を放棄した。5月にオーストリアとの国境を自由化したことによって東独市民が西独に脱出する動きを作り、これはその年の東欧革命の始まりとなった。

 ハンガリー(Hungary は英語表記。ハンガリー語ではマジャルオルサーグ、マジャール共和国という)は東ヨーロッパの中央部にあり、中欧諸国の一つともされる。おおよそ北はスロヴァキア、南はクロアチア・セルビア、西はオーストリア、東はルーマニアに囲まれた内陸国。面積は約9.3万平方kmで日本の約4分の1。人口は約1千万人。首都はブダペストで、ドナウ川の挟んだブダ地区とペスト地区からなる。
 ハンガリー人はアジア系のマジャール人の子孫とされているが、現在のハンガリー人は多くの民族の混合の結果形成された。なお、名前の名乗り方は日本人と同じく、姓を先にし名を後にする特徴がある。宗教的には半数以上がカトリックだが、2割ほどのプロテスタントも存在する。

ハンガリーの民主化

 1989年2月に複数政党制の承認、「党の指導性」の規定の削除など、大胆なハンガリー民主化に踏み切りった。同年10月23日(ハンガリー動乱で大衆デモが行われた記念日)に社会主義体制を放棄しハンガリー共和国の発足が宣言された。ハンガリーの民主化は、一滴の血も流されずに実行された点が特筆される。

東欧革命のきっかけ

 ハンガリー政府が5月にハンガリーとオーストリア(中立国)の間の国境を開放、それによって、東独の住民が、ハンガリーからオーストリアに逃れ、西独に向かうという大移動が始まり、その動きを東ドイツがとどめることができずに崩壊したことから、一連の東欧革命の先頭に立った。同年11月にはベルリンの壁の開放、90年には東西ドイツの統一、そして91年のソ連崩壊へと進んでいく。

市場経済と議会制民主主義へ

 翌1990年4月、ハンガリーで40年振りに行われた自由な国会議員選挙の結果、民主フォーラムを中心とする非共産党政権が発足し、議会制民主主義国家への転換は平和裏に行われた。その後、社会党(旧社会主義労働者党)が選挙で復活するなどの動きはあるが、市場経済への移行は順調に進み、1999年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、2004年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟した。 → NATOの東方拡大 ・ EUの東方拡大
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