印刷 | 通常画面に戻る |

トウガラシ

アメリカ大陸原産の農作物の一つで、大航海時代以降、アフリカ・アジアなど各地に広がり、現在世界各地で栽培され調味料や食用として多用されている。インドのカレー料理、中国の四川料理、韓国のキムチなどトウガラシを使った料理はいずれも16世紀の大航海時代以降に伝えられ、盛んになったものである。

とがあらし畑

トウガラシ畑

 トウガラシはサツマイモタバコトマトなどと同じナス科の植物で、特徴は実にカプサイシンという辛味成分を含んでいることである。アメリカ大陸原産の農作物であり、アンデス山地、アステカ高原に原種があるが、そのうち世界に広がったのがメキシコのアステカ高原産のものである。メキシコではこのトウガラシのことをチリといっている(南米のチリのことではない)。特にトウモロコシジャガイモには味はないので、それらを主食としていたインディオにとってトウガラシは調味料として不可欠だった。アンデス高地ではすでに紀元前8000年ごろから栽培するようになったらしい。中南米で最も早く栽培されるようになった作物の一つと考えられている。野生種はすべて辛味を持っていたが、栽培種となってから地域によって辛味の強いハバネロ、タカノツメやタバスコから、辛味が少ないかまったく無いパプリカ、ピーマン、シシトウなどの様々な仲間が別れていった。

Episode トウガラシはなぜ辛い?

 トウガラシの辛味成分は中空の果肉の中にある種子の胎座の部分に含まれているカプサイシンのためだ。野生のトウガラシはいずれも小さく、野生の動物(哺乳類)は嫌がって口にしない。通常植物の実に毒があったり辛かったりするのは、動物に食べられるのを避けるためであるが、小鳥だけは味覚が異なり、好んで野生のトウガラシを食べている。小鳥に食べられることで種子が糞の中に含まれ、広がっていった。つまりトウガラシは辛味を選ぶことで小鳥によって広く子孫を残す戦略を採ったのであり、それによって南北アメリカ大陸に広く分布することが可能だった、といえる。研究者によれば、ウサギなどの小型哺乳類は種子を壊す消化管をもっているが、鳥は種子を壊さずに化学的・物理的に果実の果皮を柔らかくする消化管を保有していて発芽を促進するからだという。
(引用)つまり、トウガラシは他の動物よりも鳥に食べられることで、種子が発芽しやすい状態で散布されるのである。したがって、トウガラシの実が辛いのは、動物のなかで鳥だけに選択的に食べてもらい、種子が広範囲に自然散布できるように助けてもらっているからだと考えられるのである。<山本紀夫『トウガラシの世界史』2016 中公新書 p.28>
ただし、哺乳類の中でもヒトだけはこの辛味を好んで口にした、というよりトウモロコシやジャガイモを食べるときのやむを得ない味つけとして口にした訳だ。インディオの食物だったトウガラシが大航海時代に世界に広がった。インドのカレーや中国の四川料理、そして朝鮮のキムチなど、大昔から食べられていたのではなく、トウガラシが広がった結果として16世紀以降に始まった、新しい味覚だったのだ。

コロンブス、トウガラシを知る

 1492年、コロンブスの第1回航海の時にスペイン人はカリブ海域のイスパニョーラ島などでマニオク(キャッサバ)、ヒョウタン、タバコ、トウモロコシ、サツマイモ、ワタ、カボチャなど多くの未知の植物を見た記録を残しているが、その中の一つにトウガラシも含まれていた。コロンブス自身の手記にも現地でアヒーと言っているコショウのような役割をしている食物に言及している。スペイン人はトウガラシをコショウにかわる香辛料として注目し、1493年の第2回航海でスペインに持ち帰った。これがヨーロッパでトウガラシが知られた最初である。コショウは気候に適さず栽培できなかったがトウガラシは栽培できたので、16世紀の半ばにはスペインのあちこちで栽培されるようになった。しかしスペイン以外のヨーロッパでは、トマトと同じようにトウガラシは有毒であると信じられ、食用と言うより観賞用の植物として広がった。唯一南イタリアは中世にスペイン領だったためか、トマトと共にトウガラシも食用とされ、パスタ料理に用いられている。

ポルトガル人による伝播ルート

 ポルトガルは1494年に勢力圏をスペインと分割するトルデシリャス条約を結び、東廻りでインドに到達しようとして1498年にヴァスコ=ダ=ガマがインド航路を開くことに成功した。続いて1500年、カブラルをインドに派遣したが、偶然ブラジルに到達、トルデシリャス条約境界線の東側であったことからポルトガル領と宣言した。その時、ペルナンブコ(現在のレシフェ)でトウガラシを発見した可能性がある。その後、ポルトガル商人はアフリカとアメリカ新大陸との間で黒人奴隷貿易を始め、その時逆にアメリカ大陸からアフリカ大陸にトウモロコシやマニオクと共にトウガラシももたらされた。トウガラシはアフリカの風土に合ったのでたちまち広がり、現在もエチオピアやナイジェリアはその産地になっている。

インドのトウガラシ

 ヴァスコ=ダ=ガマが1502年に第二回の航海を行った後、ポルトガルはインド西海岸に次々と拠点を設け、1510年にはゴアを建設した。ヴァスコ=ダ=ガマは第二回航海の際、インドからコショウ、肉桂、丁子、シナモンなどの香辛料を持ち帰ったが、その時ブラジル産のトウガラシをインドにもたらしたと思われる。インドでトウガラシはペルナンブコ・ペッパーと言われ、16世紀初頭にゴアを中心にインドに広がった。インドのカレー料理にトウガラシが使われるようになったのはそれからのことである。カレー料理とはターメリック、クミン、ペッパー、カルダモン、コリエンダーなどの香辛料にトウガラシを加えて混合した調味料(マサーラ)を使う料理すべてを含むが、16世紀以前にトウガラシは使われていなかった。トウガラシ抜きのカレーは今では想像できないほど、無くてはならない材料となり、その生産においてもインドは世界一である。ネパールやブータンなど周辺国でも現在、トウガラシを使ったカレー料理が発達している。

Episode 日本のカレーはカレー料理にあらず

 「インドと言えばカレー、カレーと言えばインド」だが、実はカレーにトウガラシの辛味が加わったのは、16世紀の大航海時代以降のことなのだった。それ以前のカレーはコショウが主な味つけだったようだ。ところで、私たちが日本で食べているカレーは、インドの料理とは言えない。日本のカレーのルーツはインドではなく、イギリスで作られていたカレー粉を使ったものだからだ。イギリスのカレー粉は、初代ベンガル総督ウォレン=ヘースティングスが1772年にインドの「カリ」を持ち帰ったものを、クロス・エンド・ブラックウェル社(C&B社)がイギリス人の口に合うように混合し直したもので、後にヴィクトリア女王に献上されたものだそうである。日本がイギリスから取り入れたカレーのレシピでも小麦粉を煎ってルーを作るが、その点も本場インドのカレー料理とまったく違っている。日本では「ハウスバーモンカレー」のヒットもあってカレーは国民食とまで言われるまでになったが、長く「イギリス料理のカレー」をインド料理のカレーだと勘違いして食べていたわけだ。ところが1980年代半ばから「エスニック料理」ブームが到来し、本物のカレー料理を食べるようになり、ついに1986年には「激辛」が流行語大賞新語部門銀賞に輝いたのだった。<山本紀夫『同上書』 p.117,198>
 ハウス食品が「ハウスバーモントカレー」を発売したのは1963年。バーモントはアメリカのバーモント州のことで、その地でリンゴと蜂蜜を使った料理が有名だったので、カレーにリンゴと蜂蜜を加えた商品を発売するときに名付けた。まったくハウス食品のオリジナル商品で、子どもも食べられる甘口カレーという邪道ともいえる商品開発だったが、それが見事にあたったのだった。 → ハウス食品工業ホームページ
 赤缶で有名なS&Bのカレー粉は、1923(大正12)年(関東大震災の年)に日本で始めて販売された。1920年ごろ、初めて食べたカレーの味に感激した青年、山崎峯次郎がそれまでは輸入品しかなかったカレー粉を自分で作ろうと思い立ち、試行錯誤の末に作り上げたという。 → S&B食品ホームページ

中国への伝播

 インドや東南アジア各地のカレー料理、それに朝鮮のキムチなど、トウガラシを使った料理はそれぞれがその地域を代表する料理となっているが、実はそれらの地域でもとからあったものではなく、アメリカ大陸原産のトウガラシがポルトガル商人を経て伝えられてから、急速に発達したものだった。トウガラシはそれぞれの地域で、それまでの単調な食事に強烈なアクセントを付ける働きをしたのだ。中国では明の末期、1516年にポルトガル人がマカオに来航しており、16世紀の早い時期に沿岸部では知られるようになったと思われるが、普及するのは日本などよりも遅かった。それは内陸に伝わるには時間がかかったためらしく、李時珍1578年に完成させた『本草綱目』には出ていないので、北京では知られていなかったことがわかる。ようやく内陸に伝えられ、そこで最も良く使われるようになったのが四川地方だった。<酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.144-147 などによる>
 四川料理では麻婆豆腐が有名だが、本場のものは火の出るような辛さで、普通の日本人には手が出ない、いや口を付けられないらしい。

韓国といえばキムチだが

 韓国の料理といえばまっさきに白菜や大根をトウガラシで漬け込み、真っ赤に味付けたキムチを思い出す。今でこそキムチは韓国人にとって不可欠な食品になっているが、意外にもキムチにトウガラシが使われるようになったのは17世紀初め(日本の江戸時代の初め)で、16世紀半ばには伝わっていた日本よりも遅かった。朝鮮半島にトウガラシが伝えられたルートについては、明からという説と、日本からという説がある。日本から伝わったという説は1613年に編まれた『芝峰類説』という文献に「倭国からはじめて来たので俗に倭辛子という」とあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に日本人兵士が持ち込んだのではないかと考えられている。キムチという漬物は古くからの伝統的な食品として続いていたが、トウガラシは毒があるとも考えられたためか、使われるようになるには時間がかかり、文献上ではようやく1766年の料理本が初めてだという。とすれば今から250年ほど前に過ぎなくなる。そのころ、それまでコショウと野菜だけで作っていたキムチは、トウガラシを使うことでアワビやカキなどの海産物にも広がり、多彩な発展が始まった。
 トウガラシは日本では七味のなかの一味ぐらいにしか使われない。同じ東アジアで隣接した国であるのに韓国ではなぜトウガラシがたくさん使われるのだろうか。歴史的背景として、日本は奈良時代から仏教の影響を強く受け、肉食は明治維新までほとんど行われなかったが、朝鮮半島では古代の騎馬民族高句麗以来、モンゴルの支配の時代までに肉食が行われ、また朝鮮王朝の時代には儒教が優勢で仏教はふるわなかったことが影響して肉食文化が続いていた。そのため朝鮮半島では香辛料が重視されるという食文化があり、その伝統の上に、18世紀中頃に「トウガラシ革命」が起こったと考えられる。<山本紀夫『同上書』 p.165>

オスマン帝国を経てハンガリーへ

 トウガラシがインドから西に広がったのは、オスマン帝国を経ていた。オスマン帝国のトルコ人がインドのカリカットでトウガラシを知り、それを「カリカット・ペッパー」として伝えた。バクダードからバルカン半島・北アフリカに及ぶ広大な領土をもつオスマン帝国で、トウガラシは広く知られるようになり、その領土の一部、ハンガリーで根を下ろし、その地方でコショウを意味していたパプリカと呼ばれるようになった。ハンガリーでは1945年に辛味のないパプリカの品種改良に成功、それは今もハンガリーの主要産業となっているので、種子は農務省が厳重管理し国家機密にされているという。<酒井伸雄『文明を変えた植物たち』2011 NHKブックス p.147> → ハンガリー