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ジャガイモ

アメリカ大陸原産の栽培植物。大航海時代にヨーロッパにもたらされ、北ヨーロッパでは主食とされるようになった。そのためジャガイモの不作が大飢饉の要因となることもあった。さらにアジアにも伝播し、主要な食物の一つとなった。

ルイ16世にジャガイモを見せるパルマンティエ
ルイ16世にジャガイモを見せるパルマンティエ
2006年センターテストより
 ジャガイモは、トウモロコシトマトタバコトウガラシなどとともにアメリカ大陸原産の農作物の一つで、南米大陸のアンデス高地を原産地とするナス科の植物。その塊茎がが食用となる。中央アンデスの高地に自生していたものを長期にわたって栽培種に作り替えた。野生のジャガイモは苦みが強く毒性を持つが、アンデスの人々は独自の方法で毒抜きした乾燥ジャガイモ(チューニョ)を保存用食物とするようになった。ジャガイモの栽培化は紀元前5000年頃と考えられており、麦類や米が作られなかったアメリカ大陸で文明を生み出す重要な農作物となった。ジャガイモは大航海時代以来、ヨーロッパを通じて世界中で栽培されるようになり、寒冷に強いこと、収穫率がよいことなどから、現在は小麦、トウモロコシ、米に次いで栽培面積が世界4位となっている。特にヨーロッパでは18世紀の戦争と飢饉がくり返される中でジャガイモの重要性が増し、最も重要な農作物のひとつとなっている。

アンデス文明とジャガイモ

ジャガイモの伝播

ジャガイモの伝播経路
伊藤章治『ジャガイモの世界史』(中公新書)、山本紀夫『ジャガイモのきた道』(岩波新書)を参考に作成

アンデス文明の都市文明を産みだし、支えていたのはトウモロコシであったというのが従来の定説であった。増大した都市人口を支えるだけの食糧備蓄ができるのは、穀物かトウモロコシであるというのが一般的な理解となっている(教科書にもそのような説明がされており、南北のアメリカ文明を支えたものの第一にトウモロコシがあげられている)。しかし、最近ではアンデス高地の文明を支えたのはジャガイモであるとの説も出されている。この説ではアンデスの高冷地での栽培に適したものはジャガイモであり、さらにアンデスではジャガイモを乾燥させた「チューニョ」として保存されていることも知られ、食糧備蓄が可能であることから、ジャガイモによって文明化をもたらすことができたとしている。また、インカ帝国においても、主食はジャガイモであり、トウモロコシは儀礼用の酒の原料とされていたと考えられている。

戦争と飢饉でヨーロッパに普及したジャガイモ

 南米大陸のインカ帝国を征服(1532年)したスペイン人によってジャガイモがまずスペインにもたらされた(その正確な時期はわからない)。16世紀末まではフランス、ドイツに広がった。ドイツでは、悲惨な戦争と飢饉が続いた三十年戦争(1618~1648年)の時期にジャガイモ栽培がひろがった。ヨーロッパ北部の主作物は小麦やライ麦であったが、これらの穀物は収量が少なく飢饉が頻発していた。そのためヨーロッパ各国は戦争をくり返し、敵の麦畑を踏み荒らしたり、貯蔵庫の麦を略奪した。ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、畑を貯蔵庫がわりにして必要なときに収穫できたので、戦争の被害が比較的少なかった。そのためヨーロッパでは戦争がくり返されるたびにジャガイモ栽培が普及していく。戦争によるジャガイモの普及の発端となったのが1680年代のルイ14世によるベルギー占領の時であった。ドイツではスペイン継承戦争(1701~14年)の時にジャガイモが重要な作物になった。さらに、七年戦争(1756~63)のときにジャガイモが東方に伝わり、プロイセンやポーランドに広がった。スウェーデン軍もこの時プロイセンに出兵してジャガイモを持ち帰ったので、ジャガイモ戦争といっており、ジャガイモはこの国の主食とされるようになる。また、ナポレオン戦争(1795~1814年)によってロシアにまで拡大した。

フリードリヒ大王とジャガイモ

 18世紀のプロイセンのフリードリヒ大王はジャガイモ栽培を農民に強制し、飢饉から人々を救ったとされている。家畜の餌とされていたジャガイモを人間が食べるようになった。生涯を戦争に明け暮れたフリードリヒ大王の最後の戦争が、1778年のバイエルン継承戦争(バイエルン王位をめぐる、オーストリアのヨーゼフ2世との戦争)では、オーストリア軍との間で、互いに敵国のジャガイモ畑を荒らしあったので、こちらのほうも「ジャガイモ戦争」と言われている(戦闘がヒマで兵士がジャガイモ栽培に精を出したためだとも言われている)。
プロイセンのジャガイモ令 フリードリヒ2世は七年戦争の始まった年の3月24日、プロイセンの全役員に「ジャガイモ令」を発布した。そこには、栄養価が高く利用価値が窮めて大きいだけでなく、労働に比例して収穫も増えるジャガイモ栽培の長所を農民に理解させて植え付けを勧めること、農民には栽培方法を指導するのみならずその労働を竜騎兵やその他の使用人に見張らせるべきこと、などがうたわれた。この王の直々の指示に加えて、農民により近い領主や知識人による指導や、栽培方法を記した小冊子の配布、さらに技術革新と農地拡大もあってプロイセン全土にジャガイモは普及し、農民ばかりか兵士らも好んで食べるようになった。<池上俊一『森と山と川でたどるドイツ史』2015 岩波ジュニア新書 p.97>

Episode フランスのパルマンティエとジャガイモ

 七年戦争でドイツの捕虜となったフランスの農学者パルマンティエは、ジャガイモを食事に与えられたことをヒントに、フランスに帰国した後、ルイ16世の庇護のもとジャガイモ栽培の普及に努めた。彼はジャガイモが貴重な作物だと言うことを農民にわからせるため、ジャガイモ畑に見張りをつけて、夜になると見張りを立ち退かせてわざとジャガイモを盗ませるようにしたという。ただしこの話の真相は明らかではない。しかし彼によってジャガイモに対する偏見が打破され、フランスでジャガイモが普及するきっかけとなったことは確かで、彼の功績をたたえて、パリの地下鉄にはパルマンティエ駅があり、そこには彼が農民にジャガイモを手渡している像がある。<山本紀夫『ジャガイモのきた道』2008 岩波新書 p.67-68>

アイルランドのジャガイモ飢饉

 イギリスでは始めは有毒で危険な作物であるとか、聖書に書かれていないから「悪魔の植物」だ、などといわれて普及しなかった。広がったのは遅れて19世紀中ごろであった。それでもフィッシュ・アンド・チップスが庶民の食べ物として定着した。隣のアイルランドでは風土に適していたからか、17世紀からジャガイモが取り入れられ、18世紀には主食とされるようになった。ところが、1845年から始まったジャガイモ疫病の大流行によってジャガイモ飢饉といわれる大飢饉に陥った。飢饉は1851年まで続き、食糧不足と体力不足からチフス、赤痢、コレラなどが流行し、約100万人が犠牲となった。犠牲が大きくなった原因はアイルランドの食料がジャガイモだけに依存していたこと、緊急食料輸入が穀物法で制限されてできなかったことなどがあげられる。大飢饉に直面したアイルランドの人々はアメリカ大陸などに移民として逃れていくこととなる。<以上、山本紀夫『ジャガイモのきた道』2008 岩波新書 による> 

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