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インカ帝国

アンデス山脈中に栄えた国家。1200年頃に成立し、高度な農耕、金属器文化を有して15世紀に最盛期を迎えたが、1533年にスペインのピサロによって滅ぼされた。

 南アメリカ大陸、現在のペルーエクアドルボリビアチリ北部を支配し、1200年ごろに成立し、15世紀に最盛期を迎えた国家。首都はクスコケチュア族が建てた国であるが、アンデス文明を継承して繁栄して、高度なインカ文明を成立させた。しかし、新大陸に進出したスペインの征服者ピサロによって征服され、1533年に滅亡した。 → インカ帝国の滅亡

インカの国名

(引用)インカとは元来はクスコに住んでいた小さな部族の名称で、その部族が中心となって後に大帝国が建国された。当時皇帝の命令によって、インカと同じ言語を使用していたものを、すべて「インカ」とよぶことになった。ところがスペイン人が侵入してきて、この意味をさらに拡大し、帝国そのもの、またはスペイン的でないものすべてを「インカ」とよんだ。さらにまた、帝国の皇帝をも「インカ」とよぶようになった。これは部族の名称で、その族長の地位をあらわす、ヨーロッパの古い習慣(例えばスコットランドのキャンベル氏族の族長の地位をキャンベルとよんだ)を援用した結果であった。<泉靖一『インカ帝国』1959 岩波新書 p.182>
 正式な帝国の名称はタワンチン・スウユである。タワンチン・スウユとは、「四つの地方からなる国土」の意味で、帝国を東西南北の4地域に分割してそれぞれ地方長官を任命していたことによる国名であった。

インカ帝国の成立

 アンデス世界では文字の記録がないので、その起源は定かではないが、神話から推察するとアンデス世界の大都市形成期のなかば、1200年頃に、ケチュア族の中のインカ部族が中央アンデスのクスコに地方的小国家をつくったと思われる。スペイン人の年代記作者の記録も矛盾することが多いが、それらを総合すると、初代のマンコ=カパックから13人の皇帝が即位した。初代を除く12人の皇帝は実在の人物のようであり、ここから逆算するとインカ帝国の成立は1200年ごろと推定される。

アンデス世界の統一

 2代から8代にわたる200余年のあいだは、帝国というよりも部族と呼んだ方がふさわしく、クスコを中心として数10キロ以内の諸部族と戦闘を交えていたにすぎない。ところが15世紀の中ごろ、長年にわたる仇敵であった北方のチャンカ族と戦って勝利を収めると、インカ部族は急速に征服を開始、第9代のパチャクチ皇帝は在位33年間に帝国の版図を約一千倍に拡張した。第11代のワイナ=カパックはさらに領土を拡張してアンデス世界の100万平方km、南北の距離は4000kmに及ぶ大帝国となった。

帝国の滅亡

 ワイナ=カパックの死後、皇位継承をめぐって争いが起こった。皇妃との間に生まれた正統な皇子ワスカルと、側妻の子アタウワルパが帝位をめぐって争い、帝国は二分されて内戦となった。1532年、結局アタウワルパが勝利を収めて帝位を嗣いだが、時を同じくしてスペインの征服者ピサロが北端のツンベスに上陸する。ピサロはわずかな部下を率いて進撃し、アタウワルパを欺して捕らえ、殺害する。これによって1533年にインカ帝国は滅亡した。
 ペルー南部のアンデス山中、標高2500メートルの高地にあるマチュピチュの都市遺跡は、スペイン人侵略期の応急の避難所として築かれたものと考えられている。 → アステカ王国

インカ帝国の政治と社会

 インカ帝国は宗教と政治が一体化しており、太陽信仰が国家の基本であり、皇帝は「太陽の子」または太陽の化身として統治するという「太陽の帝国」であった。皇帝を支える貴族層と太陽の神殿の儀礼を司る聖職者が存在した。大部分の国民は農民としてトウモロコシジャガイモの栽培にあたり、重い賦役や兵役を負担した。国土は4つの地方にわかれ、それぞれ長官が置かれた。農民はアイユウという母系的な氏族集団であると同時に生活領域である集団に所属し、内婚制で維持される2~3の胞族(フラトリー)を構成していた。経済は厳しい統制経済であり、人口や産業、税額や取引額はキープ(結縄)によって記録され、毛織物の原料であるヤーマの牧畜は公営で行われた。道路網の建設、灌漑施設、鉱山などの事業も公営で行われ、このようなインカの社会を「太陽の社会主義」と評した人もいる。 → インディオ
インカ帝国の道路網 インカ帝国は広大な支配地を統治するために、アンデスの産地やアマゾンの密林をつらぬく王道である「インカの道」を建設した。王道は全長3万キロにも及び、クスコを中心として東西南北に向かう幹線を道路網が広がっていた。スペイン人シエサ=デ=レオンの記録によれば、道はつねに掃除され石ころ一つ、雑草一つも見当たらなかったという。道は可能ならば限りなくまっすぐに、二つの地域を最短距離で結びつけるように設計され、王道に沿って移動する官僚や軍隊の休息のために「宿場=タンボ」が設けられた。
 さらに、律儀で効率的な「飛脚=チャスキ」のシステムが敷かれていた。沿道半レグアおきに二人のチャスキが待機し、情報は猛烈なスピードで駆け抜ける彼らによって伝えられた。スペイン人記録者たちは、彼らの踏破力について一日140km、あるいは250kmと、唖然とするような数字を伝えている。<網野徹哉他『ラテンアメリカ文明の興亡』世界の歴史18 1997 中央公論社 p.73-76> → インカ文明の項、参照

インカ帝国の滅亡

1533年、スペインの派遣したピサロに征服され、滅亡した。その後も1536年には反乱を起こし、最後の皇帝を称したトゥパク=アマルは1572年に殺害された。

 南米大陸のアンデス文明の中でひときわ繁栄していたインカ帝国は、1533年征服者(コンキスタドール)ピサロに率いられたスペイン軍によって都のクスコを征服され、皇帝が殺害され滅亡した。

ピサロ、インカ皇帝を殺害とする


インカ王の処刑
実際には絞首刑の後、火あぶりにされた。
 ピサロがペルー総督の肩書きで遠征軍を率いて太平洋岸に上陸した1532年には、インカ帝国では激しい皇位継承の内戦に勝ったアタウワルパが即位した直後であった。完全武装したスペイン軍の上陸に対し、アタウワルパは当然警戒したが、神託を占ったところ、しばらく静観して監視を続けよという答えだったので、迎え撃つことをしなかった。ピサロは、歩兵110名、騎兵76名、火縄銃13丁などで武装し、1532年11月15日、アタウワルパの大本営のおかれたカハマルカに入った。アタウワルパは金色の玉座に腰を下ろし、400人の高官を従えてピサロの使節を迎えた。使節はキリスト教の布教のための平和使節であると称した。皇帝は自分に対して服従しない部族の征服に協力してくれまいか、と問うと使節は「お安いご用です」とこたえ、翌日、返礼のためにピサロと面会することとした。翌日ピサロはカハマルカの広場でアタウワルパを迎えると、家の中に請じ入れ、ドミニコ会修道士が皇帝がキリスト教に改宗することを求めて聖書を差し出した。アタウワルパは怒って拒否し、聖書の一部を破り捨てた。その瞬間、広場の周囲に隠れていたスペイン兵が一斉に射撃を開始し、広場で待機していた武器を持たないインディオを次々と射殺、広場は一瞬のうちに殺戮の場と化した。室内のアタウワルパと高官も抵抗したが、ピサロは彼の頭髪をつかんで引き倒し、捕虜にしてしまった。

インカの人々が見た火砲と騎兵

 1532年、スペインの征服者(コンキスタドール)ピサロの遠征軍に遭遇したインカ帝国の役人が、クスコの皇帝に報告した以下のことばに、初めてヨーロッパ人を見た彼らの驚きがよく現れている。
(引用)主君。間違いなく、彼らはビラコチャであります。と申しますのも、彼らは風に乗ってやって来たと告げておりますし、また、たいそう立派なひげをたくわえ、肌は白く、銀の食器で食事をしているからでございます。さらにそのうえ、彼らは銀の足をした、とてつもなく大きな羊の背に乗り、まるで天上に轟くようなイリャパを発するからでもあります。主君には、そのように振舞う人たちがビラコチャかどうか、容易におわかりいただけるでありましょう。さらに、私どもは、彼らが白い布きれを手にして独り言をつぶやいたり、誰ひとり何も言っていないのに、ただ目の前にあるその布きれを見ただけで、私どもの仲間の名前をいくつか、間違わずに呼んでいる光景を目の当たりにしたのであります。・・・・<ティトゥ=クシ=ユパンギ述/染田秀藤訳『インカの反乱』1987 岩波文庫 p.29-30>
 ビラコチャとは、創造神という意味で太陽も含めてあらゆる神の上位にいると考えられていた神。「銀の足をした大きな羊」とは、蹄鉄を装着した馬のこと。「天上に響くようなイリャパ」とは雷のことで、つまり火砲(火縄銃)を指している。そして「白い布を見て名前を呼ぶ」とは、スペイン人が紙の上の文字を読み上げたことで、紙や文字を知らないインディオには不思議な光景と写ったのだった。

インカ皇帝の処刑

 幽閉されたアタウワルパは、ピサロに部屋一杯の金銀を与えるから釈放してほしいと申し出、ピサロは承諾したように見せかける。皇帝の命令で全国から金銀細工が次々と運ばれてくると、スペイン人はかたはしから融かして金銀の延べ棒にしてしまった。しかしピサロは、インディオに反乱の動きがあったので、早く処刑してしまおうと決意した。かつて本国でもう一人の征服者コルテスと会ったとき、アステカ帝国征服の経験から、インディオは王が殺されたらたちまち抵抗できなくなるから、まず皇帝を殺すことだと助言されていたからであった。そこで、アタウワルパを形ばかりの裁判にかけ、皇位の簒奪、公金の浪費、偶像崇拝、近親婚(妹を皇后にしていた)、姦淫(一夫多妻)などの罪名で火あぶりの刑にすると判決した。初めは抗議したアタウワルパだったが、スペイン人が許さないと知ると、修道士の改宗したら火あぶりではなく絞首刑にするという勧めに従って、死の直前に改宗し、フランシスという洗礼名が与えられ1533年8月29日、処刑された。インディオは火あぶりにされた者の魂は神のもとに行くことも、この世に戻ることもできないと信じられていたのだった。<以上、泉靖一『インカ帝国』1959 岩波新書 p.247-258>

その後のインカ帝国

 1533年11月15日、クスコに入城したピサロは、インディオの反抗を抑えるため、前々皇帝の息子をマンコ=インカと名付けて傀儡皇帝とした。その上でクスコの神殿や宮殿を破壊し、金銀は徹底的に略奪した。スペイン本国政府はピサロの独走を恐れ、正規軍を派遣してきたのでピサロはそれと妥協し、新たに首都を海岸地方のリマに建設してそこに移った。クスコの傀儡皇帝マンコ=インカは1534年のある夜、脱走して山岳地帯に逃れ、ビルカバンバを拠点にして、先祖のミイラをクスコからこの地の神殿に移してインカ皇帝を名乗り続けた。これを「ネオ=インカ国家」という場合もある。マンコ=インカのもとにインディオの反撃が始まり、18万のインディオが1536年インカの反乱を起こした。反乱は鎮圧され、マンコ=インカもやがて死んだがその子ティトゥ=クシ=ユパンギが皇帝位を継承した。しかし勢力は次第に弱まり、ユパンギは1568年にキリスト教に改宗、その弟トゥパク=アマルが皇帝となったが、1572年スペイン軍にとらえられて処刑され、インカの皇統は完全に途絶えた。<ティトゥ=クシ=ユパンギ口述・染田秀藤訳『インカの反乱』 1987 岩波文庫>

最後の皇帝「トゥパク=アマル」

 トゥパク=アマルの名は、インディオのスペインに対する抵抗の象徴的な名前となり、1780年にはその2世を名乗る人物が反乱を起こし、トゥパク=アマルの反乱といわれている。また現代のペルーで1996年に日本大使館占拠事件を起こしたことで知られる反政府組織もトゥパク=アマル革命運動(MRTA)を名乗っている。